PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

scene

写真についての個人的なメモです!

エッセンス 再来4 「scene」と「essence」


「scene」は「essence」への下準備

 ツアーで講師の写真家がここで撮影しましょうと薦められても、同じ画像にはならないことがあります。もちろん、カメラ設定を同じにしてもです。焦点距離、フレーミング、構図が違います。なにやら観点、場面の整理の仕方やおさめ方が違うようです。もちろん、もちろんそれらに合わせて枚数が違います。自分が決めた切り取り方が複数あるのです。なぜでしょうか。もちろん、技術や感性の違いです。

 さらにその1つとして考えられるのは、私にはない「鑑賞者がどう受け取ってくれるだろうか」という観点があるからだろうと思います。全くの独りよがりで、他者の視点への考慮がない撮影というのが実態です。実際に現像する際に様々なパターンを撮っておくことによって、撮影者の意図がどう伝わるのかを吟味するためでもあると考えています。いわゆる撮影者の感覚や感性で見つけた光景「scene」も、撮影者の意図と鑑賞者への見え方、見させ方と言った中で、撮影者の独りよがりではない客観的な思考、分析が働いて撮影されているのだと考えます。(この主観、客観については後日に)

 さらに、仕上がりを想定したり、もしかして複数のテーマに沿ったものの撮影も想定しているのもあります。
 風景は「見る」「感じる」ものでしょうが、撮影者は「view」での高速な思考・判断=抽出から「scene」を見つけるや否や、カメラを構えます。しかも、これもおそらくですが、「新たな見え方」「新たな感じ方」もしながら撮影・現像しているのだと考えます。これが楽しいのです。そうでなければ、数十年も通い続けられないと思うのです。

 「view」から「scene」へのスピードは実に早いのは、そこまで鍛錬し磨きあげられているいわゆる「感性」です。なおかつ、この「scene」では、すでに「essence」への下準備ができていることになります。

 「essence」

 一般的に「essence」には、本質、特質という意味があります。写真的には何の本質か特質かと言えば、何を表現するのか、鑑賞者にどう受け止めてもらいたいのかという写真家の目的、狙い、あるいはテーマにも関わることが表現できているかが重要ですし、鑑賞者を意識した見せ方なども考慮して、絵筆のように「現像、補正、調整」して表現したものを「essence」としています。
 
 
 こうしたような理想が実現するとすれば、オリジナリティのある作品となります。まだ十分な鍛錬がない私の場合は、クリシェでも少しマシな方であったり、新たな表現の幅を広げるもの、オリジナリティの兆しが見えるというようにでもなればいいところでしょうか。

エッセンス 再来3 「view」から「scene」へ

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 前回は「view」と「scene」の相違を書いてみました。「view」の見ると言っても、人それぞれが違うこと。そしてここそれぞれの経験で被写体として狙いをつけて選択的、抽出的に見るというのが「view」です。「scene」は、肉眼での選択や抽出がなされ写真としておさめようとする意思のある光景となります。
 

「view」から「scene」へ 

 そこで、「view」から「scene」として候補をあげたり、カメラを構えたりする契機になるものは何なのかということが問題になります。ここでは「美」ということで絞りますが、その解釈は様々、感じ方も様々です。

 しかし、人はその「美」に出会ったり、見つけたときに立ち止まったり、それを残したいと感じるでしょうし、カメラを構えると思います。それは、経験のない「美」。理想とする写真やそれに近い「美」に直面した場合。あるいは、それらが期待できる場合などがあります。経験のない美とはいって、個人的になのか、写真集やWebサイトでも見たことのない希有なものも含まれています。
 理想とする美についても、実際に具体的な写真を見ているか、自分で描いたイメージて的なものかというのもあります。期待の美ということであれば、風景では天候、光の変化の読み・予測の中、動物にしてもその動物の特性などへの知識で行動を読むことで、経験のない「美」や理想の「美」に巡り合う可能性を予測してのものです。こうなると写真の経験と思い・理想といったものが写真撮影のベースとなります。
 さらに、テーマということでは、「光」となれば景色よりも、光の変化が主になりますので、あえてゴールデンアワーを除けば、1つは影との対比というのが絞られます。雲間から漏れる光が地上のあるものを照らしたり、彩雲、虹のようなものになりそうです。美瑛でも田園の光景となれば、農家の人や農機具なども入れた写真や農家の人の手が加わったと分かる干し草ロールやニオ積みの写真も考えられます。このようにテーマがあれば、それらに合った被写体が中心になります。最近モノクロが多くなりましたが、これも表現上でのテーマの1つであろうと思います。これらを1つというよりも、いくつももっていてその都度切り替えているのではないかとも思っています。

  上記に書いた以外もあるかもしれませんが、おそらくそれらを合わせたもので「view」から「scene」へと移っていると考えます。「無言による高速の思考・判断」「写真としての高速の価値・意味、解釈」を行っているとすれば、論理を超えた論理で、あるいは、撮影者の感動や新たな発見なども加わってシャッターが切られるということになれば、もう「感性」としか言いようがないものでしょう。 

 さらに。選択といえば、ありがままに選ぶということですが、どうもそれだけではない感じがします。この点については前回で「抽出」という言葉に触れました。

 最近、心象的な写真にも触れることができ、表現的には「ありのまま」の肉眼の光景から違うようなものをまさに「抽出」しているような感じなのです。

 固体であるコーヒー豆からコーヒーという液体を抽出するかのように。多くの統計上のデータから特定のデータを選んで新たな分析結果を生むように。そうしたこともイメージできるような力をもって「scene」を見つけていたり、「scene」を判断したり吟味したりしているのではないかと思うのです。
写真家個々のこの辺りの説明、解説、自己分析が公表されることは少ないし、謎めいたことでいいのかもしれないということ、さらに個性的でオリジナリティに関わることなので、曖昧な「感性」と言っているのかもしれません。

 この辺りは、1人の写真家の変遷や師弟関係、感化された作品などを追っていくことで探っていくことができるのではないかと思っているところですが、それなら写真を撮れ、いい作品に触れろと言われそうです。

エッセンス 再来2 「view」と「scene」

 前回からの続きです。

 「scene」ではすでにファインダーや液晶パネル越しの光景となります。一眼レフではまだ光学的な光景ですが、ミラーレスではセンサー越しのデジタルな光景となります。ここでも写真家は「見る」ことをやめません。フレーミングや構図、絞り・露出、ホワイトバランスなどを見ます。一眼レフでは試し撮りをして、絞りやホワイトバランスを確かめることもあります。

 要は、トリミングもせずに最大限の画素を生かし、被写体のおさまり方を決めることがフレーミングや構図ということです。さらに、例えば、ハイキー、ローキーなどの表現に即した絞り・露出等を決めて保存すること。あるいは、白飛びや黒潰れと言ったことで、その部分のデータが復元できないまでに飛んでしまわないようにカメラ設定を行なって保存することを想定して、ファインダーや液晶パネルの光景と各表示による設定を確かめるのが「scene」です。
 
 「viewの写真」「sceneの写真」「essenceの写真」と言うことで。

 写真の撮り始めの頃は、後で見ると何を撮ったのか分からないものもありました。これを「viewの写真」と呼びます。被写体を絞りきれていない写真です。「シーンの写真」となると、写したい事物・事象がわかり、その時の撮影者の動機も想像できる写真です。また、構図もそれなりにおさえています。

 写真は撮影以前からの「view」から、撮影者の被写体への価値や意味、解釈が始まると書きましたが、被写体へのそうしたものは実はそれ以前から決まっています。著明な作家であるマイケル・ケンナはモノクロ、長時間露光という方法で被写体と数時間も向き合って撮影するというスタイルがあります。さらにテーマがあって「view」を始めているらしいのです。この例は極端すぎますが、「view」の前にすでに撮影スタイルやテーマが決まっていて、独自の価値や意味、解釈をもって写真に臨んでいるということです。

 私が「クリシェ」と呼ぶのは、「view」以前のものがあるのか、「scene」を抽出するだけのものをもっているのかという疑問から、すでに撮影スポットと呼ばれる場所にいって撮影をするのは、「view」という段階がないに等しいからです。同じ被写体で様々な場面=「scene」を撮ればいいのですから、「scene」の中に「view」を選択しているだけだからです。「scene」を抽出する力が不足しているからです。確かに写真を初級的に学んでいる時は、それも大事で、季節や時間、天候の差による変化を捉える練習になります。

 わずかでも「scene」が撮れるかなァと自己評価はできても、それ以上の力をつけるには、撮影時には仕上がりを想定し、そのイメージをもって撮影するのも大切なようです。しかも、そのイメージも複数というのも大切なようです。そして、撮影することになるのです。それもわずかな間に判断しながらです。
 こうして、「essence」の下準備しておくことが、現像で生きてくるのです。

 クリシェから脱却するとすれば、見慣れたフィールドから未知のフィールドへ。新たな風景や写真について学んで、被写体の価値や意味、解釈をもったり、深めたりすることがと重要となるのです。

 以前の図表も、変えなくてはならないようです。

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エッセンス 再来1 「view」と「scene」

 以前に下図をのせました。まだ、当時は曖昧だったように思いますが、なかなかいい観点だったと振り返っています。当時はまだテーマは眼中にはなかった感じです。かなり長くなり全数話となります。

 最高の写真を「essence」として目指すための、撮影のあり方や写真の考え方などが、自分流にまとめられたらと思っていて、概念化を進めています。

 要点としては、意図的に広い撮影フィールドを「view」して、「essence」の下準備ができる「scene」を選択(抽出)して撮影することを繰り返して、「essence」の写真を目指す。という訳のわからないことになります。

 「写真は感性」とは言いますが、その「感性」が何かはとても感覚的であり、多くの経験や学習のなから身に付けてきたものだと主ますが、それを説明したものも見当たりません。しかし、「感性を磨く」ということでは、学習などが不可欠とも考えます。
 撮影や現像等の経験や写真の考え方などの学習と実践という訓練によって、感覚的にも反応できるようになると考えます。プロのように毎日数千枚の写真を撮るということができない中で、少しでも貴重な撮影や現像時間を生かすためにも、思考による感性の覚醒が必要かと思うのです。

 

 今回もメモになります。以前にあげた図です。
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 「view」と「scene」

 どちらも視界、景色、光景、眺望というような意味ですが、「view」は肉眼で見えるもの全てを表していると思います。写真的にもう少し突っ込むと、写真に撮れるような光景を肉眼で探している状態とも言えそうです。
 それから「view」には、意見、見方、考え方という意味もあることから、見ているものの価値や意味、解釈がすでに撮影者個々の違いがあることになります。それぞれに見ている光景の内容が違うということも考えられます。それに「あるがままにみている」のではなく、「学習、経験によって解釈して見る」のが私たちの視覚の傾向でもあるからです。
 
 例えば、風景写真だとある程度遠方や空の状況に観点を置いて見るでしょう。太陽の位置や方角、雲の様子も見ます。動物写真であれば視界で確認出来る程度の距離の中の形や動きで動物を探すということで見ています。花となると群生や身近な範囲です。これは経験の一部ですが、撮る対象によって異なる距離感をもってものを見ていると言うことができるかと思います。農家の人や農業経験のある人は、作物をみれば生育状況を見る(認識、理解)でしょう。何に関心を持っているのか、職業や写真を含めての経験が「view」の見方を決めているというのが事実らしいのです。

 自然・田園風景とは言え、そこから受ける価値、意味、解釈が異なると言うことです。

 「scene」というのは、「view」の中で選択された「scene」とは、写真におさめようとする撮影者の意思が働いている光景と言うことになります。撮影者によって選ばれた光景、写真にしようとする意思、意図がある光景となります。凝視やファインダー越しにターゲットを捉えるような「ハンター」にも似ています。カメラで捉えた画像を「ショット」と言いますが、銃で発砲すること、射撃という意味もありますから…。

 ここでsceneはviewから「選択」された光景と書きましたが、単なる選ぶという言葉では適切ではないようにも思っています。違う言葉では、「特定のものを選ぶ」という単純なことではなさそうだからです。先にも書きましたが、被写体の価値や意味、解釈を行って選ばれるのですから、「抽出」に近いような感じもします。「抽出」には、「液体または個体の中から特定の物質を溶媒に溶かして取り出すこと。」ともありますが、視覚的な光景の中に、頭脳というフィルターを通して、写真的な特別な映像を見ているのではないかということです。
<次回に続く>
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