PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

非相

写真についての個人的なメモです!

諸相、非相  その3

<諸相・非相を 皮相的に捉える>

 写真の表現として、ある考えや思想などのテーマやコンセプトを「諸相・非相」の考えから表現するのは、やはり多くの作品数が必要だと思います。

 しかし、どのようなものになるかは、1枚1枚の写真に見える部分と見えない部分(見えにくい部分)を入れること考えられます。つまり、極端なコントラストを生み出すような時間帯での撮影による作品です。

 過去の写真では以下のようなものでしょうか。

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 1つの表現方法としてはあり得ますが、「諸相・非相」の捉え方は、やはり皮相(うわべだけ)的です。光の関係で見える部分と見えないような部分があるだけのものですからね。光がより感じられる、コントラストのある写真というコンセプトの1つは見えますが、その先は見えません。

 しかしながら、撮り始めから数年のものと比べて、「光を描く=フォトグラフ=写真」の特長の1つが実現されているように思っています。より光を意識して自然事象を撮影してくるようになったからです。

 こうした撮影の変化の中で、霧を撮り続けていますが、下の写真もある程度コントラストがあるもので、水墨画を思わせるものがあると思います。モノクロ写真では霧の微妙な模様も描くことができます。

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 カラー版では、このようなボアっとしたものも好みです。これも絵画的、パステル画的と指摘されることがありますが、私的には水墨画的なものを見出すからです。ここで「非相」的なものは霧ですが、微かに見える部分から何が隠されているかは想像ができそうです。ここで何度か水墨画に触れましたが、これも霧に水墨画の要素を見るので撮る要因の1つかも知れません。

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 以上の写真から、暗い非相が白い非相に変わっていることがお分かりでしょうか。コントラストのある光の状態以外でも、白に近い霧をモチーフにすることによって「非相」部分を表すことができないものかと試行錯誤しているようです。本当はこのような「諸相・非相」ではないと思いますが、何か霧光景が語りかけてくるようなもの、そのためには私がその言葉を聴かなければならないのかと思います。
そして、それを聴くには、聴くことができるような自分へとステージアップしなくてはなりません。
 何か屁理屈でとも感じますが、写真撮影や写真での経験を見直しながら自分なりの意味づけ、意義づけをしてみたいと思います。そうして、心境的にはその時点、その時点での、「人事を尽くして天命に聴(まか)す」です。このことわざは、一般的には「〜待つ」ですが、本来は「聴(まか)す」だそうで、上記で書いたことを考えると「聴(まか)す」が適切かと思います。

 多くの私のようなアマチュアが美瑛の四季を撮ってはいますが、少し違うその先の光景も撮りたいのです。

諸相、非相  その2 ブラックの言葉

 ブラックの言葉に「壺は空虚に、そして音楽は沈黙に形を与える」というのがあるそうですが、三重県立美術館の学芸員:東俊郎氏が、そこに曹洞宗の道元の前回のような解釈(「諸相と非相を見るは如来を見るなり」)を読み取ることができると言っています。

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 これには「如来を見る」とありますが、これは仏教で言うところの「空」と同じです。そして、ブラックは壺に空虚を見ているに等しく、絵画を見るとは有と無を等しく見るという二重の視線こそ、優れてブラック的だと東氏は言っています。

 諸相を追い求めた中で、下記の概要にあるセザンヌの影響を受けながらも、絵画史の中でも特徴的なフォーヴィスムやキュビスムへと彼なりの必然的な変遷を遂げています。そうした中でも、東氏がいうような東洋的、仏教的な境地へ接近するような思考を得るというのは実に不思議な出会いではないでしょうか。

 ※  ブラックの他の言葉 「私は感動自体を作品にはしない。感動というのは、まだ芽の状態である。それを開花させるのが作品である。」「描いたものを見せるだけでは足りない、更に琴線に触れさせねばならない。」など。1993年に「昼と夜 ジョルジュ・ブラックの手帖」(訳本)が出されていますが、すでにプレミアがついていて手に入りませんが、読みたいものです。

 ジョルジュ・ブラックの概要は以下から 
           https://www.artpedia.asia/georges-braque/ 


諸相、非相  その1

<諸相と非相>

 「諸相」というのは、物事のいろいろな姿ということで目に見えるものですが、あまり一般的ではない「非相」という言葉もあります。こちらの方は、定まった姿や形がなく、ときには目に見えないものを指すようです。
 写真を好むものにとって、重要なのが「諸相」でしょう。物や事象にある美的要素をフレーミングして撮影しています。鑑賞する側も、美的要素を読み取って見ていることでしょう。じっくり鑑賞するかどうかは別にしますが、色彩感のあるもの、日常は目にしない現象などが多く、単写真なので、深読みしてテーマを読み取るようなことは難しいようで、いわゆるフォトジェニックなものが好まれているようです。

 しかし、どうでしょうか。中西敏貴氏の「Kamuy」の作品や同名の写真集での文言を読むと、写真ですので諸相なしでは写真とはならないのですが、一般的な美的感覚とは離れたものがあり、表現の意図は「非相」にあるように感じます。同じように建築家でもある杉本博司氏(同じようにと書きましたが、こちらは世界的に高名)の「海景」シリーズというのも、海と空を中央でフレーミングした写真ですが、一般的な美的要素はなく、「水と空気」「生命の根源」「水と空気の地球」などをテーマとしている作品群であることがわかります。これも非相的なものを強く打ち出しているものとなります。

 このように美的要素が一般的ではないような「諸相」に「非相」を取り込んでいく、あるいは、「非相」を表現するために選ばれた「諸相」を通して表現していくという手法が取られているようです。手法と書きましたが、失礼かもしれません。現実の諸相から、独自の非相を感じ取ってそれを表現したかも知れません。

 そこにある感受性、センス、感性などと呼ばれるものは、単なる視覚ではありません。過去に述べたように視覚を司る脳細胞の周辺には様々な領域があり、独自の視点を見出させたのかもしれません。
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 上記の図を提示した際は、単なる「きれい」という感情、判断・理解の領域での有意注意を引き起こすものとだけ見ていましたが、側頭葉にある「知識・記憶」などにも関係して、見える事象に意味を与えることがあり、独自の視点を見つけ出し、生み出したりするということも可能なのかもしれません。

 極端かもしれませんが、視覚というのは、個人の知識・経験、興味関心などによって、外の世界を定義したり意味づけるものであるということもできます。

 写真をやっている以上は、このような試みをしてみたいものです。「写真が上手くなる」というのは「表現性」においても、事象を見取る「感受性」においても、一般的な、常識的な見方や思いからは優れて離れていることで、こうした「非相」的なものを生み出しているのではないかと思います。

 さて、諸相、非相ということで述べましたが、この言葉は仏教からくる言葉・概念です。金剛般若波羅蜜経(略して金剛経)で説かれたものの1つですが、この金剛経とは、人間には目に見えるものにとらわれすぎると、ものの真の姿を見誤ってしまうということを戒めるお経とのことです。簡易には「諸相は相に非らずと見るは、如来を見るなり」との教えがあるのですが、曹洞宗道元では「諸相と非相を見るは、如来を見るなり」と解釈したようです。仏教的な解釈の違いはわかりませんが、道元は目に見えるものも認め、見えないものも見ることが重要というようなことを言っているようです。ここでは最終的には「如来を見るなり」と言っていますが、真理に到達する者とか、解脱する、悟りの境地に達するなどのことを指します。
 
 写真をやる以上は、「諸相」を写すことは避けられないことです。しかも、カメラという機械を使いますので、見た目・肉眼とも違うこともあります。そこに、印象や心象である非相、はたまた、自然への畏敬(神のような存在、アミニズムなど)、思考や思想的なもの(前述した「水・生命の根源」のようなテーマ)という非相を加えることによって、多くの表現が生まれているのだと考えてはどうかと思うのです。

 写真愛好家にとっては、「諸相・非相を見るは、新たな写真を創る」とでも言い換えたらいいかも知れません。

 ※ もう一つは、諸相や曹洞宗などを調べていたら、あのピカソとともにキュビズム芸術を先駆けたジョルジュ・ブラックについての情報を得ました。これは次回です。
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