PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

読み解く

写真についての個人的なメモです!

写真を読み解く 4 主観と客観

 前回で終わりにしようとしましたが、さらに続けます。

 前回のまとめとして
 「第一印象よりも写っているものを、じっくり隅々まで見ること。そして、ここが大事ですが、自問自答なので、「自分が撮るならばあるいは現像するならどうするか」という視点を持つことで、いわば「自分の写真」として見て解釈することが大事となります。」と書きました。しかし、写真には、技術的な面と、テーマなどについての思考・哲学的な面があると思うのです。前回までだと、まさしく技術面のみを書いたように思うのです。


 思考・哲学的な面とは、なぜ写真を撮り表現するのか。作品を残すのか。何を伝えたいのか、などを読み解くことも重要と言うことになります。写真のキュレーターのように、写真の歴史を知り、現代や未来の写真の傾向などからの読み解きは極めて難しいとは思います。鑑賞の経験があまりない、しかも、自分の好みで限られた写真を見てきたので、ごく限られた経験での想像でしか解釈できないこととなりますが、自分の写真を求める上では必要なことだと考えるのです。

 繰り返しになりますが、まずは「じっくり隅々までみる」、そして、「自分が撮るならば…」と自問自答する、としましたが、この自問の中に
「この写真のテーマは何か?」
「伝えたかったことは何か?」
「感じてもらいたかったことは何か?」を付け加えることです。

 もし写真集ならば、タイトルや巻頭言や後書きである程度の情報が入りますので、それがそうなのかを確かめるような問いとなるでしょう。単写真であればタイトルになります。写真を投稿する際もタイトル付けには悩まされますが、何らかのヒントにはなるかと思います。意外と写真を見た感じそのままと言うのもありますが、そうではないものもあります。さらには、「無題」とか記号や数字と言うのもありますが、これは手探りとなるでしょう。タイトルは、一般的には何を表現したかったのか、その意図が伝わるものがいいと言われています。従って、そのタイトルの理解というのが参考にはなると思います。いずれにしてもテーマなどの読み解きは、自分の限られた経験、知識での「主観」となるでしょう。とは言え、いくら経験を積んで知識を増やしても、主観的な見方からは離れることはできないのが素人だと思います。

写真を読み解く2 主観と客観

 「読み解く」の「読む」を前回やりました。今回は「解く」です。解釈するという意味ですが、解釈の仕方にセオリーがあるのでしょうか。

 もう一度、振り返ると下の写真です。スクリーンショット 2021-03-16 17.40.19
 
 この写真を見てどんなものが写っているのかを見ました。
 セオリーとかハウツーはないようですが、「解く」というのですから「なぜ」が必要です。それは見た人が考え、答える(解く、解釈する、仮のでも構わない)のです。従って、人それぞれで主観的要素が出てきます。

 ここでは、具体的な解釈はなしにしますが、疑問だけを上げて見たいと思います。この疑問を持つことが大事だからです。

① まず、パッと出るのは、カラー時代なのになぜモノクロなのか? 
② <フレーミングで>左に草があるが、それを入れる必要があるのか、ないのか?
③ 同様に、右の山を稜線があがっていくところで切ったが、意味はあるのか?
④ 同様に、山と空を入れる必要はあるのか? 写真はマイナスなので、ない方が雪原も広くなり農家の方の散布する広さを感じることができるのではないか? また、農作業をもっと主体にするならば、噴煙もなしにして建物と農作業、雪面という構成でもいいのでは?
⑤ ③に関わって。そうすると暗い部分が多くなり、重い写真になるようなので、どうそれを補うのか? しかも、細かい模様が目立つようにもなるので、どうすればいいのか。
⑥ 少し傾いた三角形だが、ドカンとした大きな建築物に、動く煙と人の対比として捉えれば、傾いていてもいいのではないだろうか?
⑦ いよいよ、主題は何か?  
⑧ 主題はこれと考えたら。それなら、それが適切に表れるようなフレーミングはどのようなものか?
 モノクロでいいのか? カラーとしたらどうすれば良かったのか?
⑨ 撮影者の立場では、どうやると散布の場所が分かるのか?
 やはり望遠で、何mm を使っているのか? カメラ設定は?
 
などなど。 これ以外にもあるかと思いますが、結局は自問自答と言うのが解釈となります。

 第一印象よりも写っているものを、じっくり隅々まで見ること。
 そして、ここが大事ですが、自問自答なので、「自分が撮るならば、あるいは現像するならどうするか」という視点を持つことで、いわば「自分の写真」として見て解釈することが大事となります。

 結局、人の写真も自分のものとして見ていくときに、自分の写真が変わるであろう種子を育てることだと思うのです。

 「読み解く」とは言っても写真評論家になる(なれそうにもありませんが)のではなく、自分の写真向上や幅を広げるためにやるべきです。

 もし、いい被写体・モチーフの写真データがあれば、再現像してみてもいいかもしれません。私ならこうトリミングしこう現像してみるというのもありだと思うのです。

<内輪話 : 暗い・重いのは農家の人の「思い」「仕事・苦労」が積み重なっていくこと。しかし、休憩には山や空を見るだろうし、山の雲、空の雲で地元でしか分からない天気の読みもするかもしれない。プロならば2枚分の写真の主役があると言うかもしれません。あえて余分な噴煙や空を入れたのも、大地と常にむか合う農家の人々を背景とともに入れたかったのです。>

エッセンス 再来5 「essence」を求めて

 「viewーsceneーessence」を考えて来ましたが、重要なのは、視覚的に「見ること」以上に、撮影者それぞれが風景についての様々な解釈や独自の解釈を持つことだと思います。
 私がこれまで色々と調べてきたこともそうですし、考えたこともその解釈の仕方を深めたり、広げたりするためです。とにかく、文章にすれば記録に残って、振り返ることで、改めて分かったり、やはり分からないことが分かってくる、ということができるからです。


 端的に「美」としても、自分にとって、あえてなぜ美しいのかを問い直すことや、どんな要素で美しいのかを分析してみるのです。また、どんな事象に自分が惹かれるのか、それはどのように説明できるのか、にもなるかもしれません。この意味では自己理解です。

 また、プロがよく言うのはいい写真や絵画を見なさいということです。これも「見る」なんですが、実は「読み解く」=どう「解釈」するかということです。
 写真だとしたら当然に焦点距離とか構図など技術的なものもあるのでしょうが、どう感じるのか、それはなぜか、撮影者(作者)は何を感じて撮影し、どう表現しているのか。タイトルがあるとすれば、それは何を見せよう感じさせよう、考えさせようとしているのかを解釈することです。この意味で他者の作品についての理解を自分なりに深めることです。(この「読み解き」も少しは説明できればと思います)

 それらは、多くフィールドへ出て写真を撮って考えることでもあります。「量から質」とは言いますが、1枚1枚が試行錯誤・思考でなければ、質への転換はないと思います。さらに、フィールドへの時間をかけられない週末カメラマンにとっては、貴重な撮影時間です。固定したアングルや設定を少しでも自由にして撮影し、現像時に思い起こしながら、自分の写真を解釈しながら見つめ直すことが大切ではないかと思うのです。そして、次回に、それを生かすような撮影に没頭することです。これが日々鍛錬、日々修行の意味だと思います。「何を撮る」ではなくて、「何がどう撮れるか」です。

 「感覚的にシャッターを切るセンスもない」「写真の才能(?)もない」ような凡人が、唯一鍛えられるのはこうした知的作業(意識改革)を通してのみです。凡人の感覚的にも捉えた「scene」が、一際輝く「essence」になるのを願いながら、その感覚と知的作業を楽しむような撮影スタイルを身につけたいものです。

IMG_9134
 
 タイトルは、『稜線を駆け、いざ頂上へ』にでもしましょう。
 湧き立つような意欲をもち続ける。私みたいに休止しても、さらに燃やし続けるものを見出そうとすれば、「essence」へとたどり着けるのではないかと…。

パンフォーカス考 その2

 前回からの続きですが。その最後の部分から。

 「写真」は、当然に西洋文化の中で発展したものですので、完全性や完璧さは「神」を理解し、神に近づくような神聖な行為であるとされていると考えました。人間の肉眼での見え方はいわゆる曖昧であり、不完全であるとされていて、神がものを見る見方としての完全性を表すのが「パンフォーカス」であると個人的に考えるのです。これが前回でした。今回は下の表題です。

 「自然」の見方、考え方の根底

 この辺りの考えは、断片的な知識の寄せ集めで、しっかりとした論ではありません。しかし、西洋文化に深く根付いている宗教や、宗教と科学との関係には興味あることがあります。

 その1つとしては「自然」についての考え方です。きびしい砂漠といった環境で熟成された一神教では、自然や動物などは神が造り、最後に造られた人間が支配すべきものとしているのです。こうした見方は、約1万年以上もの間、豊かな自然の中で生きてきた日本人の源流である縄文人から続く日本人の見方とは異なっていると思います。宗教的にはアニミズムといって、自然に霊的存在を感じ、畏敬とともに自然との心的一体感を享受するものがありました。山や巨木、岩などを神聖なものとしたり、はたまた一部の動物を神の使いとするようなことです。天照大神を祭るような神社・神道でさえ、このようなことが残っています。古くからの信仰的な精神を残してきたと思われます。

 こうした自然や動物への感情や思いを反映した宗教はアニミズムと呼ばれ、西欧の人類学的にみれば「極めて原始的」であり、一神教では他のものを神とすることは許されないことから、「野蛮」とも称されるものです。しかし、後に伝来して広まった仏教(大乗仏教)には、「山川草木、森羅万象に仏性がある」ということが現代にも受け継がれていますが、ある意味、古くからの信仰的精神に似ているとも思うのです。全てのものー生命のないものでもー仏になることのできる仏性があるというのですから、西欧文化と日本文化でのこうした面での自然の捉え方の違いには大きな興味があります。

 極端で誤謬をいとわなければ、自然風景の捉え方、は西欧の「客観的」「知的好奇心での美(やや曖昧、もっと吟味すべき表現です)」と日本の「主観的」「畏敬や憧憬、癒やしといった一体感を与える美」という両極端な捉え方を想像することができるのではないかということです。小鳥の鳴き声でも西欧は雑音と同じような脳の反応すると聞きましたが、日本人は言語領域にも反応したり心地よいものとして脳が反応するというらしいです。自然の征服と消費財として管理すべきものとしての自然と、豊かな恵(自然環境が叫ばれて自然のよさを見直していることも含め)を享受し、時には災害として損害を与えてその脅威をも充分知って愛されてきた自然、こうした差は大きいものと思います。

 実際に西欧人や日本人が、どう自然風景や自然風景写真を捉えているのか興味津々です。この辺りを分析すれば、「自然」を見る視野や解釈が広がるかもしれませんし、日本人の自然風景写真が西欧でも理解されることがより深まるかもしれません。


 撮影者の意図と鑑賞者の解釈

 パンフォーカスから、ひょっとして自然観の違いが西欧と日本にはあるのではないかと書いてきました。
 パンフォーカスでのよさについてもどると、パンフォーカスでの写真は、隅々まで鮮明に見えることから、どこに何があるか、何が写っているのかがわかるので、非常に情報量が多いということができます。情報量が多い「ウィリーを探せ」という絵本の1ページにも似ています。

 写真家は巧みに視線を誘導するような技法や構図、色彩や明暗などの現像技術を組み込んで撮影者の意図を込めますが、情報量が多いだけに、鑑賞者の自由な読み取り、多様な受け取り方をも可能にしているのがパンフォーカスなのかもしれません。
 また、別な言い方をすると、写真もまた鑑賞者にとっては1つの「view」として、鑑賞者自身が「scene」を選んだりして「essence」をも見いだせるような可能性を残すものかもしれません。
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