PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

読み解き

写真についての個人的なメモです!

秋と冬の狭間で 2 読み解き

 「秋と冬の狭間で」ということで、青い池の写真を掲載しました。夏も撮らなく、ライトアップも撮らなくなりましたが、まだ紅葉が残っていて、湖面に雪が降り積る前までが自分にとって最適な状態と思っています。

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 できれば紅葉が残っている降雪時、湖面に白い雪綿と青さがあるのが最高級ではと思うのです。青い池の諸相の中でも、そうしたものに出会えればいいでしょうか。

 諸相については述べましたが、「相」というのは、木に目を近づけて「よく見る」というのが語源で、さらによく調べるというようなことも付け加わったのだと考えます。従って、視覚はもちろんのこと、触れたり、味わったり、嗅いだり、耳を近づけたりと五感を使う訳です。また、情報を調べるというのもありでしょう。そうすれば、五感だけではない知識という相も加わってきます。経験で言えば、この青い池とは10年近い付き合いで、周囲の状況とともにその変化を見てきました。つまり、相というのは、五感に知識、経験などが総合されたものだと考えます。


 <不死と再生の象徴 一つの解釈 写真の読み解き>

 青い池については、数年前に大風が来て堰が決壊して、倒木という事態も起こりました。これから立ち枯れの本数が少なくなっていくことが予想され、記録のためにも撮る必要があるかなぁ、程度の認識でいました。しかし、諸相・非相などを軸としてあらためて青い池を考えてみました。

・青い池の主題 立ち枯れと青い湖水は、死(あるいは屍骸)と死、青は、立ち枯れへの餞(はなむけ)の色でもあること。死してなお木肌を見せ、立っているのです。なんと気丈な姿でしょうか。死してなお生きているかのような凛々しさを感じます。そして、それを称えるのが「青」という色彩です。赤でもなく、黄色でも緑でもない青です。青は希望や冷静、神秘などの象徴として用いられることが多いとのことですが、「希望」としての餞(はなむけ)でもあるようで、死してもなお生きるという神秘さを与えているのではないでしょうか。

・こうしたことに、ある種の「美」「美学」を見いだせないでしょうか。また、古代エジプトから流れる「不死」への願望です。あるいは、死して残す美しさから「再生」への願望もあるかも知れません。これがこの池を見て、「美しい!」「綺麗!」と言わしめる根源的なものかも知れません。私は使い古した綺麗よりも、「清麗」がいいと選びました。不死が清麗とは似合いませんが、けなげさやはかなさが含まれているのかも知れません。

・ケント白石氏の世界に名だたる青い池は、上の写真とは違って、背景の木々はありません。従って、シンプルですし、私のこのような解釈がひょっとして西欧に受け止められたからとも考えています。不死と再生(復活)はキリスト教にも近いものであるからです。死した物が再生するかのように、染みいる青さの中、白い(永遠の象徴)降雪が美しく舞うというのが語られている写真となるのです。

 さて、私のは紅葉の木々が背景にあります。余分と言えば余分です。まあ、季節の狭間を表すならば紅葉は不可欠という理屈にもなりますが、深く(こじつければ?)、下記のようなことも考えさるのです。

<紅葉の木と立ち枯れ、降雪、湖水> 

 それは端的に生と死が対峙している光景です。紅葉もまた生の諸相の1つ、季節の流れによる生の変化です。降雪もまた季節・時の変化、気体・液体・個体の変化です。
 湖水も雪も水であり、水は木の体内をめぐり、命を支える1つの要素ですし、立ち枯れを見るとき、死んではいてもその水を含むことによって、倒木から存えているかも知れないのです。

 こうした変化をどう受け止めるのでしょうか。仏教では無常という言葉で言い表されます。一般的には「はかなさ」「むなしさ」を連想させる言葉ですが、「わび・さび」としてそこに美を感じたのが日本人でしょうか。それに悲観的にならずに、そこに美を感じそれを受容することで、諦観よりも現実的な生を見出すということなのかも知れません。同じように見えても、常に変化していくのがこの世界であること。そこに変わることを拒んだりすることなく、避けることなく受け入れ、時の流れに任せること。迷いも変化の1つであり成長という再生の機会かも知れません。悩むときは悩み、もがく時はもがく。嬉しい時は笑い、悲しい時は泣く。これが偽りなき人の心だということです。
 この先となると、まさしく宗教の領域となりますのでこれまでですが、たとえ諦めとしても、善くは生きたい、何かへの努力はできるのも人間だと思います(性善説的)。それを少しでも行いながら、「ケセラセラ」「Let it be」という楽観的な気持ちで過ごし、生をまっとうするのが最善だと思うのです。


 <結論> 

 自然の理にそって変化し、生と死が活きているというのが「降雪の青い池」と解釈します。さらにそれらを結びつける水の存在を考えると、自分もまた自然の理の中で生き死んでゆく身であるというような一体感を持つ時に、そうした自然と同化し、「美しく清麗な光景」と感じ、自分もそれに抱擁されるような心境に至るのではないでしょうか。
 そこに宗教とは厳格に言えないものを感じるとすれば、自然に魅入るアニミズム的な心境でしょう。
小鳥のさえずりや風の音を雑音として認識する西洋の人々というのをある本で読みましたが、私たちの文化では俳句、短歌、文学で叙情的なものとして認識されるとのことです。大いなる自然もまた一体感のあるもの、包み込んでくれるものとしてあるようです。これは、この国土に1万7000年前から文化を作りあげてきた古の縄文人達のDNAが残っているかもしれません(これも知識です)。こうしてみると、自然は癒しだけではないものを与えてくれているのだと、また深掘りしたくなります。

 秋と冬の狭間の中で、このようなことを考えたのが、この光景でした。そして、一体感とすれば、より明るく雪も強調されるだろうということにもならないだろうか。と、違うショットを現像してみました。

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写真を読み解く1  主観と客観

 コロナ禍も異常な状況とは言え、過去の欧米並みなのかはどうなのでしょうか。北海道も「マン防」から「緊急事態宣言」へと移行しています。
 撮影の方も少し自粛ですね。

 以前はある作家の言葉から、「主観と客観」についてその方の考えを探ってみました。このシリーズでは、写真の「読み解き」「解釈」について書いたことがありますが、これも主観と客観という言葉で概要をとらえられるかと思い記載してみます。

 普通は写真を見慣れていても、写真家や写真を趣味とする人の写真についての見方はあまり分からないようです。
 妻は「ああ綺麗!」「こんなところあるの?」「こんな風に見えるの?」と印象を語るだけです。写真の構図などを説明して、こうした瞬間や動きながらこうした構図になるようにして撮っているとか話すと、少々驚くのです。私もまたそうでした。しかし、写真をやって作家の作品に触れる毎にどうして違うのかなどの疑問から、勉強し始めたというところです。

 さて、妻にもわかるようにと「写真の読み解き」方が説明できればいいかなという感じで書きます。


 写真の読み解き方 その1

<客観的情報を読む>

 先の「見た印象」はかなり重要だと思いますが、写真をよ~く観る場合は、そうした印象を横に置いておいて、写っているものを客観的に見ることから始めます。写真は平面的な視覚情報しかありませんので、そこに何が写っているのか、どんなものがあるのかを見ます。これは誰にでも捉えることができです。つまり、客観的情報を読み取ることができます。しかし、これも十人一応に同じとは限りません。経験や知識によります。それらの広さや深さによって捉える量や質がことなるかもしれませんし、それに鑑賞者の経験上で得た感情や感覚が合わされば独自なものさえ加わってくるものです。これは、視覚情報とは言え、人の脳内では様々なものとつながっているからです。まず、何が写っているのかさえ、共通項はありながらも広さや深さ、そのものへの感覚が異なるものもあるということです。
 
 さらには、写真内の物の位置や方向性などから、構図を読み取るとなると少し難しくなります。学ぶ機会がほとんどないからで当然です。しかし、そこには写真としての安定感や写っているもののバランスや、なぜ数ある撮影位置やアングル等の中でそれを選んで写したのかという構図的なもの、あるいはピントやボケがどうなっているかなどの撮影技術的なものを読み取ることができます。
 写真をやっていれば、使用したレンズが広角系かだとか、望遠系かも想像はできます。逆光なのに手前のものが明るければ、フラッシュライトを使ったか、現像で明るくしたかがわかります。

 カメラは現実をある程度忠実に写すものなので、共通項的な客観的な情報はそこから読み取ることができます。

 ・第一印象は抑えて… まず、何が写っているのかを見ます。
 ① 物の形や色彩、明暗。
  また、目立つもの、目立たないもの、前景・中景・遠景にあるものなど。
 ② 目立つものや写っているものが1つで背景がある場合は、背景も詳しくみます。2つ以上ととなる場合は、その大小や広さの違いを広いのかを見ます。
 ③ 撮影時刻や季節、天候を見る(あくまでも予想で)
 ④ 画質や諧調性を見る。
   
 ⑤ (構図的な見方として)
  目立つ物、あるいはメインな物でもサブな物ででも、それらがどう位置付けられているか。三角形や三角形の組み合わせになるかどうか。線や帯などの直線的な物や曲線的なものがあれば、その延長線上にあるもの物も見ます。1つの物をドンと撮っていても、まさに真ん中なのか、少しずらしているのかも見ます。これは、構図的な要素は複雑なものもあるようですが、それらが考慮されて撮られているかを見ます。
 ⑥ (写真の技術的、表現的なものとして)
   逆光・斜光・順光のどれか。広々とした広角系レンズかそれ以外か。シャッター時間を長くした長秒露光かどうか(ブレているようで一部はピントが合っている。雨が線になっている、雲が流れているのが分かる、など)。写真全体が暗いのか(ローキー)、極めて明るい色彩なのか(ハイキー)、モノクロかどうか。

 ①と② 特徴ある形や鮮やかな色彩、明るいものがあると目を引きます。1つの物を写した写真であればそれに目が行きます。2分割的な物だと鮮やかな色彩や明るい方か広い方に目がいきます。③は風景写真なので書きました。

 ③朝日か夕陽かは難しいですが、時刻は影があれば南天か午前・午後かは想像しますが、夜はわかります。季節的にはある程度分かるものもあれば、春と夏、夏と秋の境目は区別つきませんが、おおよそは分かると思います。①から③までを見れば、何が写っていて、何を中心に撮ろうとしたか分かることになります。

 ④ 画質とはピント具合や滑らかさ、粒状性(モノクロ等では新聞の写真のように粒が見える)などがどうか。諧調性と言うのは、グラデーションが滑らかどうかと言うことです。色補正を行い過ぎると崩れる場合があるのです。

 ⑤の「構図的な見方」は難しいですが、要は写っているものの全体的な安定感やバランスがいいかどうかということです。自然風景だと、日章旗のようにど真ん中もありますが、ややずらしているものもあります。よく3分割がいいと言います。水平線や地平線をどこに持っていくかということで、面積の多い方が主役、少ない方が脇役とも考えられます。これも、2分割や4分割のようにずらすのもあります。農作業やキツネが入ってきても3分割での交点においたりします。そうなるとバランスが悪いのなら、それなりの理由があるのかもしれません。

 ⑥の「技術的なもの」は写真をやる方でないと難しいかもしれませんが、写真をやっていればそうした読み方もできるということです。

例題:下のモノクロ写真で何が写っているか見てください。
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  大まかに見ると、暗い部分が丘で、あとは山と空です。目に付くのは、まず建物。それとその左にある人影2人と何かです。よく見ると乗り物で、何か作業をしているのがわかります。乗り物をよく見ると前輪がありませんし、後ろはキャタピラーです。乗り物は1台で、作業は協力してやっていることになります。人の上には煙のようなものがありますが、雲や霧でしょうか。山からは煙、噴煙があがっています。

 そこでもっと詳しく見ます。暗い大地は何か異様かもしれませんし、山も何か違います。山をよく見ると明るい部分が多いこと。そして、大地の表面からは細かな線状の起伏がたくさんあり、3条の光の曲線が横に走っています(反射)。それらを考えると「雪」の冬です。
 時刻となると、暗い大地と明るい山から見ます。山よりも暗い大地ですから、まだ光が十分にきていない状態です。また、よく見ると山の影が見えます。大地の暗さと影の角度からすると、朝方と言えます。
構図のようそしては、3分割で大地の方が多く占めています。主要なものは、建物、人、煙で三角関係です。もう少し右の方に移動すれば、二等辺三角形になったかもしれません。大地は左に傾いていますが、山は大体右にかたむています。大地の傾いている方には草や煙、3条の光がありますが、建物の下には少しスペースがあります。こうして見るとややバランスはあるでしょうか。フレーミングとしては、左は「草」、右は影のラインの上の稜線が上がるところ。上は空、下は3条の光の下となります。表現的にはモノクロ写真です。暗い部分は強調したかもしれません。
 ここまでが客観的に見えるものとそれから分かることです。見た物をまとめると、「晩冬の丘で、早朝に融雪剤を散布する光景の1つ」となります。

 融雪剤とかスノーモービルとなると、少々北国の畑作に詳しいということになります。

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                  <続きは次回にします>
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