「鏡と窓」展
“Mirrors and Windows”
1978年7月28日から10月2日までニューヨーク近代美術館で開催された、60年以降の写真表現の動向を扱った展覧会。企画を担当したジョン・シャーコフスキーは、100名の作家による200点余りの作品を選び、それぞれを「鏡派」と「窓派」に分類して提示した。「鏡派」は写真を自己表現の手段として用いる写真家のことで、「窓派」は写真を通して外界を探求する写真家のことをさす。しかし。シャーコフスキー自身が述べているように、この二つは不連続な関係にあるのではない。どのさ写真の中にも二つの側面が存在しているのであり、1枚の写真を鏡派か窓派かのどちらかにのみ分けることは不可能である。こうした曖昧さをはらんだ分類をシャーコフスキーがあえて提示した背景には、当時の写真評論にみられた、「ストレート・フォトグラフィ」と「マニピュレイテッド・フォトグラフィ」を二項対立させることによって写真表現を分類しようとする傾向への抵抗があった。

写真というのは、音楽や絵画、演劇などといった表現(芸術)の1つの手法であるとされています。その手段を通して、何を伝えようとし、伝わるかを追求するのが、「表現性」です。また、「窓」として外界を視覚的に捉える写真は絵画よりも緻密で、複製もとれ記録として、多くの人や後世に伝え、残すものとしては最高のものです。これが写真の特質の基本です。記録性によって、絵画分野での肖像画等が廃れ、逆に絵画における表現性や創造性に大きな影響を与えたらしいのです。また、写真は今やデータとしてやりとりできる点では絵画よりも優れた「伝達性」があります。過去の場合でもネガがあれば多くの複製がつくれましたし。
今はカメラの氾濫と画像の氾濫期(スマホのカメラ、画像のWebアップ)です。誰もが写して残して伝えて、ある種表現できる記録性と伝達性、表現性が身近なものであるからです。また、カメラの記録性は、センサーの進化とカメラの高機能化で精度も上がってきています。そうなると、誰もが写真で表現できるということになりますし、プロの方はいい写真としての「表現性」も、秀でていなくてはならないことになります。

現像技術とも関わりますが、表現方法を簡単にあげると、モノクロ、HDR、ハイキー・ローキーというのがあります。カラーをあえてモノクロにしたり、露出を明るい方にしたり、暗めにするというのがあります。HDRというのは、逆光などでは、カメラが勝手に判断して、その明るさを抑えてしまって、その前にあるものが暗くなってしまう性質があるのを
補正する方法です。これは専用のソフトもありますし、カメラ機能としてついているものもあります。これは、カメラが現実を記録するとは言っても、肉眼にはかなわない点もあり、肉眼で見るように補正、修正するといってもいいでしょうか。これも強めにやると絵画的な雰囲気がでます。
以上は、カメラが記録したものを、全面的に現像時に補正、修正することですが、実際的は、全体もありますが、写し出されたものの一部を部分的に補正、修正することが多い感じです。ある部分を強調したり、弱めたりすることです。現像ソフトの1つである「ライトルーム」の現像画面にあるスライドレバーの数だけ、修正が効き、その範囲や分量もレバーを左右に動かせば修正できます。
実はこうした作業が、「表現性」と関わってくきます。同じデータで現像しても、現像する人の数だけ違う写真ができあがるからです。違う理由としては、
・季節はいつで、何時頃撮られたのか。
・このデータを撮った人は何に惹かれて撮ったのか。
・これによって強調したり弱めたりするのはどこなのか。
などと考えるのですが、その際の修正の箇所や度合いの違いが生まれるからです。中には、実際の自然には見られないような色彩もあって、本当に10人10色なのです。

そして、もう一つ。「Follow me」が好きな理由でもあり、写真でのテーマということにも関わるものです。私もキツネを撮りますが、どうしてもその姿や表情に惹かれるのです。しかし、どうでしょうか。厳しい自然と共存して生態を表現しています。それも白と夕空という、もっともシンプルで美しい背景です。しかも、疾走時の脚の宙に浮いているのも見事です。厳しい冬の自然の中の束の間の美と戯れ、幸せ感も漂っています。そうしたものを、感じさせるには、キツネを小さく、背景を広くというフレーミングが必須でしょう。構図がどうだこうだの前に、こうした「表現したいテーマ」があるように感じるのです。別な感点では「被写体に撮られるな」ということも言われます。撮るのは「人(表現者、意思・思想・哲学などをもった存在)」なのです。