PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

解釈

写真についての個人的なメモです!

写真を読み解く1  主観と客観

 コロナ禍も異常な状況とは言え、過去の欧米並みなのかはどうなのでしょうか。北海道も「マン防」から「緊急事態宣言」へと移行しています。
 撮影の方も少し自粛ですね。

 以前はある作家の言葉から、「主観と客観」についてその方の考えを探ってみました。このシリーズでは、写真の「読み解き」「解釈」について書いたことがありますが、これも主観と客観という言葉で概要をとらえられるかと思い記載してみます。

 普通は写真を見慣れていても、写真家や写真を趣味とする人の写真についての見方はあまり分からないようです。
 妻は「ああ綺麗!」「こんなところあるの?」「こんな風に見えるの?」と印象を語るだけです。写真の構図などを説明して、こうした瞬間や動きながらこうした構図になるようにして撮っているとか話すと、少々驚くのです。私もまたそうでした。しかし、写真をやって作家の作品に触れる毎にどうして違うのかなどの疑問から、勉強し始めたというところです。

 さて、妻にもわかるようにと「写真の読み解き」方が説明できればいいかなという感じで書きます。


 写真の読み解き方 その1

<客観的情報を読む>

 先の「見た印象」はかなり重要だと思いますが、写真をよ~く観る場合は、そうした印象を横に置いておいて、写っているものを客観的に見ることから始めます。写真は平面的な視覚情報しかありませんので、そこに何が写っているのか、どんなものがあるのかを見ます。これは誰にでも捉えることができです。つまり、客観的情報を読み取ることができます。しかし、これも十人一応に同じとは限りません。経験や知識によります。それらの広さや深さによって捉える量や質がことなるかもしれませんし、それに鑑賞者の経験上で得た感情や感覚が合わされば独自なものさえ加わってくるものです。これは、視覚情報とは言え、人の脳内では様々なものとつながっているからです。まず、何が写っているのかさえ、共通項はありながらも広さや深さ、そのものへの感覚が異なるものもあるということです。
 
 さらには、写真内の物の位置や方向性などから、構図を読み取るとなると少し難しくなります。学ぶ機会がほとんどないからで当然です。しかし、そこには写真としての安定感や写っているもののバランスや、なぜ数ある撮影位置やアングル等の中でそれを選んで写したのかという構図的なもの、あるいはピントやボケがどうなっているかなどの撮影技術的なものを読み取ることができます。
 写真をやっていれば、使用したレンズが広角系かだとか、望遠系かも想像はできます。逆光なのに手前のものが明るければ、フラッシュライトを使ったか、現像で明るくしたかがわかります。

 カメラは現実をある程度忠実に写すものなので、共通項的な客観的な情報はそこから読み取ることができます。

 ・第一印象は抑えて… まず、何が写っているのかを見ます。
 ① 物の形や色彩、明暗。
  また、目立つもの、目立たないもの、前景・中景・遠景にあるものなど。
 ② 目立つものや写っているものが1つで背景がある場合は、背景も詳しくみます。2つ以上ととなる場合は、その大小や広さの違いを広いのかを見ます。
 ③ 撮影時刻や季節、天候を見る(あくまでも予想で)
 ④ 画質や諧調性を見る。
   
 ⑤ (構図的な見方として)
  目立つ物、あるいはメインな物でもサブな物ででも、それらがどう位置付けられているか。三角形や三角形の組み合わせになるかどうか。線や帯などの直線的な物や曲線的なものがあれば、その延長線上にあるもの物も見ます。1つの物をドンと撮っていても、まさに真ん中なのか、少しずらしているのかも見ます。これは、構図的な要素は複雑なものもあるようですが、それらが考慮されて撮られているかを見ます。
 ⑥ (写真の技術的、表現的なものとして)
   逆光・斜光・順光のどれか。広々とした広角系レンズかそれ以外か。シャッター時間を長くした長秒露光かどうか(ブレているようで一部はピントが合っている。雨が線になっている、雲が流れているのが分かる、など)。写真全体が暗いのか(ローキー)、極めて明るい色彩なのか(ハイキー)、モノクロかどうか。

 ①と② 特徴ある形や鮮やかな色彩、明るいものがあると目を引きます。1つの物を写した写真であればそれに目が行きます。2分割的な物だと鮮やかな色彩や明るい方か広い方に目がいきます。③は風景写真なので書きました。

 ③朝日か夕陽かは難しいですが、時刻は影があれば南天か午前・午後かは想像しますが、夜はわかります。季節的にはある程度分かるものもあれば、春と夏、夏と秋の境目は区別つきませんが、おおよそは分かると思います。①から③までを見れば、何が写っていて、何を中心に撮ろうとしたか分かることになります。

 ④ 画質とはピント具合や滑らかさ、粒状性(モノクロ等では新聞の写真のように粒が見える)などがどうか。諧調性と言うのは、グラデーションが滑らかどうかと言うことです。色補正を行い過ぎると崩れる場合があるのです。

 ⑤の「構図的な見方」は難しいですが、要は写っているものの全体的な安定感やバランスがいいかどうかということです。自然風景だと、日章旗のようにど真ん中もありますが、ややずらしているものもあります。よく3分割がいいと言います。水平線や地平線をどこに持っていくかということで、面積の多い方が主役、少ない方が脇役とも考えられます。これも、2分割や4分割のようにずらすのもあります。農作業やキツネが入ってきても3分割での交点においたりします。そうなるとバランスが悪いのなら、それなりの理由があるのかもしれません。

 ⑥の「技術的なもの」は写真をやる方でないと難しいかもしれませんが、写真をやっていればそうした読み方もできるということです。

例題:下のモノクロ写真で何が写っているか見てください。
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  大まかに見ると、暗い部分が丘で、あとは山と空です。目に付くのは、まず建物。それとその左にある人影2人と何かです。よく見ると乗り物で、何か作業をしているのがわかります。乗り物をよく見ると前輪がありませんし、後ろはキャタピラーです。乗り物は1台で、作業は協力してやっていることになります。人の上には煙のようなものがありますが、雲や霧でしょうか。山からは煙、噴煙があがっています。

 そこでもっと詳しく見ます。暗い大地は何か異様かもしれませんし、山も何か違います。山をよく見ると明るい部分が多いこと。そして、大地の表面からは細かな線状の起伏がたくさんあり、3条の光の曲線が横に走っています(反射)。それらを考えると「雪」の冬です。
 時刻となると、暗い大地と明るい山から見ます。山よりも暗い大地ですから、まだ光が十分にきていない状態です。また、よく見ると山の影が見えます。大地の暗さと影の角度からすると、朝方と言えます。
構図のようそしては、3分割で大地の方が多く占めています。主要なものは、建物、人、煙で三角関係です。もう少し右の方に移動すれば、二等辺三角形になったかもしれません。大地は左に傾いていますが、山は大体右にかたむています。大地の傾いている方には草や煙、3条の光がありますが、建物の下には少しスペースがあります。こうして見るとややバランスはあるでしょうか。フレーミングとしては、左は「草」、右は影のラインの上の稜線が上がるところ。上は空、下は3条の光の下となります。表現的にはモノクロ写真です。暗い部分は強調したかもしれません。
 ここまでが客観的に見えるものとそれから分かることです。見た物をまとめると、「晩冬の丘で、早朝に融雪剤を散布する光景の1つ」となります。

 融雪剤とかスノーモービルとなると、少々北国の畑作に詳しいということになります。

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                  <続きは次回にします>

現像は解釈と表現

久々の夕景撮影に。この場所はすでにクリシェですが。夕陽の光芒も見えて、雲の動きや強い光が射す場所だったことを思い出しました。

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 この丘には2本のポプラが立っていますが、生憎にもその中間に撮影者の車と人がげがあって、それを避けるように撮影することになりました。

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 夕陽のやや赤味がかった強い光が特徴です。アングルによってはレンズフレアーが発生し、日除け傘の出番となります。遥か遠くの大雪山連峰での日の出とは、違った光を地上にもたらします。もっとハイキーにすると「サンセット・ドリーム」というタイトルにできそうです。

 さて、今回はテーマとうに関わって、「解釈」についてのメモです。 

 デジタルカメラになって、光景は膨大な信号の集まりとなりました。光の量や色などの情報が規則正しく並べられ、RAWデータとして保存されます。
 データの基本は「0と1」ですから、フィルムのように画像として肉眼では見ることはできませんので、メーカー専用のカメラ内蔵のソフトウェアで変換して画像にしてから見るということになります。更に、カメラメーカー毎に、RAW形式も異なるのでカメラ内蔵のソフトも異なります。互換性はないということです。

 こうしたことを思うと、RAWデータはまるで公開された暗号のように捉えることができます。デジタルデータを画像にするのは、暗号の解読(復号)ということです。ところが本当の暗号と異なるのは、RAWデータ現像というのは、露出や色相、シャープネスなどの多くの観点から、変更ができという柔軟性を持っていることです。

<RAWデータの柔軟性>

 こうした現像での柔軟性は、現像者=表現者にとっては実に好都合です。記憶に従って見たようにも現像出来ますし、撮影時の印象を強めたりすることも出来ます。それこそ露出を変え色彩をなくすモノクロにさえ出来ます。写真となる様々な要素はデジタル(数)ですから、それを容易に変えることができるからです。

 こうしたことがRAWデータの現像と言うのです。しかし、最近は「現実の光景を解釈」、あるいはそれを具体化することではないかと思っています。

<被写体の解釈>

 撮影するものをどう捉え、どう写したのか。撮影者の意図や狙いがあって撮影したものですから、眼前にあった光景は意味あるものとして撮影者には位置付けられます。ここには全くの客観性はなく、あくまでも主観となります。

 ここには必ずや撮影者の何らかの「光景=被写体への解釈」があります。だから撮影するわけですので。
 そして、その解釈というのは、概略的には、主観的な趣向や好印象のもの、撮影の意図や意義(テーマとかコンセプト)、さらには、自然観や歴史観(郷土史理解や写真史も含め)、美的感覚などが、おそらく混在して、または集約されていると考えられるのです。

 もしも、これが無意識にあるいは自動化されるまでに熟達していれば、これはプロ的な仕業ですし、プロならこうしたことへの解釈の説明を容易にするのかもしれません。熟達して無意識化や自動化されるまでに至ったり、あるいは本当に無意識的なものが撮影させてるならば、それは一応「感性」と言う短い語句に集約されてくるのだと思います。熟達してなるならば、それを説明し得るでしょう。本当に無意識だと、自己分析ができないので説明は難しいと言うことになるでしょう。

<現実とイメージ、そして、現像>

 デジタル化によって、ほとんど全てのデータを変えることが可能です。モノクロ表現を考えると色彩でさえ変えても良いということになります。問題は、現実的なのか、非現実的なのか、印象的なのか、心象的なのか、というようなことでしょうか。

 しかし、撮影時は眼前の、あるいはファインダー越しに現実と対峙していますから、現実がどのように見えて、何をイメージさせるかを瞬時に捉えてシャッターを切っています。

 もしかして、現実を見る先に、イメージで見ているのかもしれません。できれば、こうしたイメージがたくさんあって、カメラを構える撮影モードに入ると、ある現実を見た時にイメージが喚起されてシャッターを切るという行為になるのかもしれません。これがテーマやコンセプトにかかわることです。単に写真が好きということだけではない以上のものを突き詰めようともしているからです。
 「何を写して、どんな写真にするのか」を問うているのです。
 
 私の今の場合はどうなのか。少なくてもクリシェは避けようと、有名な撮影スポットは極力避けているのが今の行動です。光の加減や色彩(ゴールデンアワー、光芒や影)、自然現象では主に霧を追っています。従って、小高い丘の上が中心です。さらに、ゴールデンアワーと霧の組み合わせとは言っても、2度と同じものはないと言えるので、その中でも、自分のストックにない光や色彩もの、やや異なった後景、中景、近景と言うことになります。

 キツネ等も追うことがありますが、やはり風景の中、自然に存在する動物として、風景が半分から3分の1程度はいった中での様子をとりたいですが、その表情やしぐさの面白さもあってか、接近したときはそれを撮影することになります。

エッセンス 再来5 「essence」を求めて

 「viewーsceneーessence」を考えて来ましたが、重要なのは、視覚的に「見ること」以上に、撮影者それぞれが風景についての様々な解釈や独自の解釈を持つことだと思います。
 私がこれまで色々と調べてきたこともそうですし、考えたこともその解釈の仕方を深めたり、広げたりするためです。とにかく、文章にすれば記録に残って、振り返ることで、改めて分かったり、やはり分からないことが分かってくる、ということができるからです。


 端的に「美」としても、自分にとって、あえてなぜ美しいのかを問い直すことや、どんな要素で美しいのかを分析してみるのです。また、どんな事象に自分が惹かれるのか、それはどのように説明できるのか、にもなるかもしれません。この意味では自己理解です。

 また、プロがよく言うのはいい写真や絵画を見なさいということです。これも「見る」なんですが、実は「読み解く」=どう「解釈」するかということです。
 写真だとしたら当然に焦点距離とか構図など技術的なものもあるのでしょうが、どう感じるのか、それはなぜか、撮影者(作者)は何を感じて撮影し、どう表現しているのか。タイトルがあるとすれば、それは何を見せよう感じさせよう、考えさせようとしているのかを解釈することです。この意味で他者の作品についての理解を自分なりに深めることです。(この「読み解き」も少しは説明できればと思います)

 それらは、多くフィールドへ出て写真を撮って考えることでもあります。「量から質」とは言いますが、1枚1枚が試行錯誤・思考でなければ、質への転換はないと思います。さらに、フィールドへの時間をかけられない週末カメラマンにとっては、貴重な撮影時間です。固定したアングルや設定を少しでも自由にして撮影し、現像時に思い起こしながら、自分の写真を解釈しながら見つめ直すことが大切ではないかと思うのです。そして、次回に、それを生かすような撮影に没頭することです。これが日々鍛錬、日々修行の意味だと思います。「何を撮る」ではなくて、「何がどう撮れるか」です。

 「感覚的にシャッターを切るセンスもない」「写真の才能(?)もない」ような凡人が、唯一鍛えられるのはこうした知的作業(意識改革)を通してのみです。凡人の感覚的にも捉えた「scene」が、一際輝く「essence」になるのを願いながら、その感覚と知的作業を楽しむような撮影スタイルを身につけたいものです。

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 タイトルは、『稜線を駆け、いざ頂上へ』にでもしましょう。
 湧き立つような意欲をもち続ける。私みたいに休止しても、さらに燃やし続けるものを見出そうとすれば、「essence」へとたどり着けるのではないかと…。

エッセンス 再来2 「view」と「scene」

 前回からの続きです。

 「scene」ではすでにファインダーや液晶パネル越しの光景となります。一眼レフではまだ光学的な光景ですが、ミラーレスではセンサー越しのデジタルな光景となります。ここでも写真家は「見る」ことをやめません。フレーミングや構図、絞り・露出、ホワイトバランスなどを見ます。一眼レフでは試し撮りをして、絞りやホワイトバランスを確かめることもあります。

 要は、トリミングもせずに最大限の画素を生かし、被写体のおさまり方を決めることがフレーミングや構図ということです。さらに、例えば、ハイキー、ローキーなどの表現に即した絞り・露出等を決めて保存すること。あるいは、白飛びや黒潰れと言ったことで、その部分のデータが復元できないまでに飛んでしまわないようにカメラ設定を行なって保存することを想定して、ファインダーや液晶パネルの光景と各表示による設定を確かめるのが「scene」です。
 
 「viewの写真」「sceneの写真」「essenceの写真」と言うことで。

 写真の撮り始めの頃は、後で見ると何を撮ったのか分からないものもありました。これを「viewの写真」と呼びます。被写体を絞りきれていない写真です。「シーンの写真」となると、写したい事物・事象がわかり、その時の撮影者の動機も想像できる写真です。また、構図もそれなりにおさえています。

 写真は撮影以前からの「view」から、撮影者の被写体への価値や意味、解釈が始まると書きましたが、被写体へのそうしたものは実はそれ以前から決まっています。著明な作家であるマイケル・ケンナはモノクロ、長時間露光という方法で被写体と数時間も向き合って撮影するというスタイルがあります。さらにテーマがあって「view」を始めているらしいのです。この例は極端すぎますが、「view」の前にすでに撮影スタイルやテーマが決まっていて、独自の価値や意味、解釈をもって写真に臨んでいるということです。

 私が「クリシェ」と呼ぶのは、「view」以前のものがあるのか、「scene」を抽出するだけのものをもっているのかという疑問から、すでに撮影スポットと呼ばれる場所にいって撮影をするのは、「view」という段階がないに等しいからです。同じ被写体で様々な場面=「scene」を撮ればいいのですから、「scene」の中に「view」を選択しているだけだからです。「scene」を抽出する力が不足しているからです。確かに写真を初級的に学んでいる時は、それも大事で、季節や時間、天候の差による変化を捉える練習になります。

 わずかでも「scene」が撮れるかなァと自己評価はできても、それ以上の力をつけるには、撮影時には仕上がりを想定し、そのイメージをもって撮影するのも大切なようです。しかも、そのイメージも複数というのも大切なようです。そして、撮影することになるのです。それもわずかな間に判断しながらです。
 こうして、「essence」の下準備しておくことが、現像で生きてくるのです。

 クリシェから脱却するとすれば、見慣れたフィールドから未知のフィールドへ。新たな風景や写真について学んで、被写体の価値や意味、解釈をもったり、深めたりすることがと重要となるのです。

 以前の図表も、変えなくてはならないようです。

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パンフォーカス考 その2

 前回からの続きですが。その最後の部分から。

 「写真」は、当然に西洋文化の中で発展したものですので、完全性や完璧さは「神」を理解し、神に近づくような神聖な行為であるとされていると考えました。人間の肉眼での見え方はいわゆる曖昧であり、不完全であるとされていて、神がものを見る見方としての完全性を表すのが「パンフォーカス」であると個人的に考えるのです。これが前回でした。今回は下の表題です。

 「自然」の見方、考え方の根底

 この辺りの考えは、断片的な知識の寄せ集めで、しっかりとした論ではありません。しかし、西洋文化に深く根付いている宗教や、宗教と科学との関係には興味あることがあります。

 その1つとしては「自然」についての考え方です。きびしい砂漠といった環境で熟成された一神教では、自然や動物などは神が造り、最後に造られた人間が支配すべきものとしているのです。こうした見方は、約1万年以上もの間、豊かな自然の中で生きてきた日本人の源流である縄文人から続く日本人の見方とは異なっていると思います。宗教的にはアニミズムといって、自然に霊的存在を感じ、畏敬とともに自然との心的一体感を享受するものがありました。山や巨木、岩などを神聖なものとしたり、はたまた一部の動物を神の使いとするようなことです。天照大神を祭るような神社・神道でさえ、このようなことが残っています。古くからの信仰的な精神を残してきたと思われます。

 こうした自然や動物への感情や思いを反映した宗教はアニミズムと呼ばれ、西欧の人類学的にみれば「極めて原始的」であり、一神教では他のものを神とすることは許されないことから、「野蛮」とも称されるものです。しかし、後に伝来して広まった仏教(大乗仏教)には、「山川草木、森羅万象に仏性がある」ということが現代にも受け継がれていますが、ある意味、古くからの信仰的精神に似ているとも思うのです。全てのものー生命のないものでもー仏になることのできる仏性があるというのですから、西欧文化と日本文化でのこうした面での自然の捉え方の違いには大きな興味があります。

 極端で誤謬をいとわなければ、自然風景の捉え方、は西欧の「客観的」「知的好奇心での美(やや曖昧、もっと吟味すべき表現です)」と日本の「主観的」「畏敬や憧憬、癒やしといった一体感を与える美」という両極端な捉え方を想像することができるのではないかということです。小鳥の鳴き声でも西欧は雑音と同じような脳の反応すると聞きましたが、日本人は言語領域にも反応したり心地よいものとして脳が反応するというらしいです。自然の征服と消費財として管理すべきものとしての自然と、豊かな恵(自然環境が叫ばれて自然のよさを見直していることも含め)を享受し、時には災害として損害を与えてその脅威をも充分知って愛されてきた自然、こうした差は大きいものと思います。

 実際に西欧人や日本人が、どう自然風景や自然風景写真を捉えているのか興味津々です。この辺りを分析すれば、「自然」を見る視野や解釈が広がるかもしれませんし、日本人の自然風景写真が西欧でも理解されることがより深まるかもしれません。


 撮影者の意図と鑑賞者の解釈

 パンフォーカスから、ひょっとして自然観の違いが西欧と日本にはあるのではないかと書いてきました。
 パンフォーカスでのよさについてもどると、パンフォーカスでの写真は、隅々まで鮮明に見えることから、どこに何があるか、何が写っているのかがわかるので、非常に情報量が多いということができます。情報量が多い「ウィリーを探せ」という絵本の1ページにも似ています。

 写真家は巧みに視線を誘導するような技法や構図、色彩や明暗などの現像技術を組み込んで撮影者の意図を込めますが、情報量が多いだけに、鑑賞者の自由な読み取り、多様な受け取り方をも可能にしているのがパンフォーカスなのかもしれません。
 また、別な言い方をすると、写真もまた鑑賞者にとっては1つの「view」として、鑑賞者自身が「scene」を選んだりして「essence」をも見いだせるような可能性を残すものかもしれません。
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