PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

視覚

写真についての個人的なメモです!

視覚と脳

 このブログは全くの自分向けですが、「脳での視覚情報の処理」というのがコンスタントによく読まれているようです。メインはやはり視覚情報を扱う脳の部分と他の認知・判断、知識の領域と繋がっていて、視覚からの総合的でかつ選択可能な認知を促していることです。
 はたまた、視覚による情報というか、認知、認識の仕方は、個人の興味関心、経験等によってどこに中心があるのか、周辺部の認識なのかということも違っているように思います。

 さて、今回も少し知り得たことを紹介です。

 視覚は「光を網膜で受容して、それを電気信号に変えて脳に伝えられる」ということです。フィルムへの化学変化ではなく、まさにデジタルのイメージセンサーと同じような原理ということです。ただ、人間の場合は、受光する網膜の受講部分が1億3000万個位あるそうですが、それを脳に運ぶ視神経は1200万程の束だというのです。約10分の1ほどになったものが脳に送られることになります。なぜそうなっているのかは約10年ほど前に日本の学者が解明したということです。

 基本的な経路は、「網膜」からの情報は「視床」を経由して、「視覚野」に送られ、ここで初めて「見ていると」して意識されるそうです。この視床には、目から脳へのつなぎ目にあたる中継シナプスというのがあって、これが多くの視覚情報を制御しているということです。その働きは、網膜からの多くの情報が次々に送られてきても、その1部が強調され、その他は取り除かれて、視覚情報をくっきりさせるという仕組みのようなフィルターがあるということがわかったのだそうです。

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 次は認識の点で、錯視を紹介します。

 網膜は物理的に数値で表される色や明暗を受容しているようですが、脳はそのようには判断、認識しないということです。まずは、下の絵です。左右にある月か太陽の明度はどうでしょうか。さらにそれと接している山の明度はどうでしょうか。

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 実は同じ明度なのですが、違って見えます。
 次の中心部にある四角の彩度はどうでしょうか。これも同じなのですが、違って見えます。
  
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 次は、ないものが見えるというものです。中央部に三角形が見えますか。

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 錯覚というのは、物事を物理的にありのままに見ていないという脳の認識が為せる仕組みがあるということです。研究者はそれは人間の脳が劣っているのではなく、優れた仕組みを持っているので、そうしたズレができると考え、研究しているということです。しかし、錯視については解明中とのことです。

 上述最後の錯視は、実は見えない物を補う働きを脳が行っているということです。自分流の例えですが、捜し物をしていて、その捜し物の全体像が見えていなくても、その片鱗から見つけることができるということにも通じると思います。さらに、物を判断したり意味づけるということもしているそうです。

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 aは丸い物が宙に浮いているようで、何かはわかりませんが、bとなると、その丸い物が皿のように見えます。これは過去の記憶から類推して物の形とその置かれている状況から皿という結果を脳が導き出していると言えます。先の錯視でも、今述べたことについても、こうしたことが出来る処理方法(アルゴリズムというそうです)を探っていて、人工知能の研究に役立てようとしているのです。最近のカメラも顔、目を認識してピントを合わせるというのも可能になったのがこの研究の1つの成果です。顔認証もおおよその年齢や性別を類推することもできると聞きます。つまり、そうしたことができる処理方法が解明されてきているということです。
 視覚情報はただ単に見るということではなく、脳は見た物を複雑な処理を通して意味づけ、何かを判断したりしているのです。

 カメラは、レンズ・イメージセンサーから得る光の情報から内部のCPUで処理して液晶に画像をもたらします。その処理はメーカー毎に違うアルゴリズムだそうです。そして、それに意味を与えるのは人です。しかも、何を写すのかというカメラを操作し被写体を決めるのは人ですので、そこに見える景色や画像は物理的には同じかもしれませんが、個人にとっては他愛もないもの、ある人にとっては重要なことであるというような違いがあると思うのです。

 従って、写されたものには、その人なりの意味があると思います。なぜ、それを撮るのか。そこに惹かれた意味は何なのか。どのような経験(過去、カメラ技術)から切り取られた物なのか。と、いろいろな想像をふくらますことができるものです。しかし、多くの写真画像が氾濫している現在、じっくりとそうしたことを考えることは皆無です。むしろ、「インスタ映え」と呼ばれるような「綺麗さ」「見栄えのよさ」という直感的なものが流行しています。それも写真のよさではありますが、写真に意味を見いだし、意味をこめた写真表現ができるかという立ち位置からは、見た目からは少し離れた距離を置くというのが、写真を考える上で重要なことと思っています。

 見た目に綺麗は基本かもしれません。しかし、その綺麗さは自分にとってどんな意味をもつのか。どう切り取ればいいのか。何をどの位置において撮ればいいのか、明度や色相、色彩などをどうすればいいのか。 更に、画像と言う見えるものから、何を感じ、何が想起されたりするのかと言う見えないことにも思考の領域が広げられるような自分にもなってみたいと思うのです。

視覚以前

 <同じような視覚だが>

 見える物を撮影するのが写真であり、デジタル処理されたデータによってPCやディスプレイで再現できます。はたまた、プリントして物として残すことができます。その出力されたものが見える物であるかもしれませんが、情感を醸し出したり、心象的なものを「表現」することができます。

 何を写すのか、どう写すのか、どのようなカメラ設定なのか、どのような現像処理なのかは、やや技術的でもありますが、見た物をどう表現するかということにもかかわってきますし、プロの写真家(写真作家)であれば、己だけの被写体や表現を求めているようです。そこには、被写体への独特の見方や選び方等があるようです。

 そして、プロといえども視覚は人よりも異なることはありません。被写体への独特の見方や選び方は、テーマやコンセプトといった哲学的な裏付けをもとに、被写体を見て、選んでいて表現するからこそ、他とは違った写真を生み出しています。

 <視覚以前の考え方>

 このようなテーマやコンセプトをもつことによって、今までの自然や世界に異なった見方(自然観、世界観)を与えたり、新たな意味をもたせることによって、写真を作品として生み出しているということになります。
 自然を見て写真を撮っているようですが、これは視覚以前の問題ではないかと思います。


 今までの自然観や世界観とは異なる! とまでは行かなくても、自分が求める世界を見つけたいものと常日頃思うのです。「霧」への拘りがどうして自分に生まれたのかというのもその突破口となるかもしれないとも思うのです。


  視覚は光を受容することで活性化される感覚ですが、脳の処理で様々な意識・認識を呼び起こします。視覚された肉体外の物・事象の理解の仕方・認識も一定ではなく、知識や経験で変わってきます。もちろん、子供と大人で違いますし、人によっても違います。

 しかし、この過程を逆にしてみれば、自ずと自然を見る見方も変わり、写真も変わってくるのではないかと思います。ここまでは、今まで考えてきたところです。

 <新たな見方、構えは、自己の中から>
 
 被写体である自然の「何を」「いつ」「どのように」切り取り、表現するのか。これが普通の構えです。しかし、そこにはいつも被写体と己が対峙しているだけです。もう少し深めたいところがこれです。あくまでも「写真を撮る」という主体は己です。しかし、そこにある被写体が自己の存在とは別にあり、写してやる(ショット=撃つ、撮る、)というようなことよりも、被写体は己なくしてはありえない存在であり、己なくしては意味を持ち得ないという存在の被写体であるならば、どうでしょうか。

 これを考え詰めていくと、自分が存在しているからこそ、自然があり世界がある。あるいは、自己という経験体が見る自然や世界は、突き詰めれば、自分だけがもっている理解の仕方や感じ方でしか自然や世界は現れないということです。確かに他人との共通項はありながらも、その共通項で写真を語るならば、観光パンフレットや誰かのマネになってしまう恐れがあります。インスタ映えならぬ「綺麗!」「鮮やか!」で終わることになります。絵画などの美術では、印象派の登場によって、古典的な美というものから脱却して、訳のわからなような抽象画へと変わってきました。以前に記した「鏡と窓」のようなものへと移ってきたということです。

 自らの心象や印象、はたまた世界観を反映した物が作品と言うことになります。これは重要な点だと思います。「自分だけが持っている理解の仕方や感じ方」とは書きましたが、それを反映させるのが作品と言うことになります。

 そうすると、この「自分」を知らなければなりません。そこにある物(自然、世界)への自分なりの理解や感じ方とは何かを知らなくてはなりません。とは言っても、理性的に理解の糸口がつかめるのかといえば難しい。とっかかりは、やはり、自分の趣向、好き嫌い、気持ちいいとか、安らぐでもいいでしょうし、ある種の緊張がある、興奮があるなど、惹かれるものでしょうか。

 そして、それらに「なぜ?」をつけて解明していく作業が必要なのではないかと思います。そして、
 
 ・惹かれる物について、辞書でも事典でも手にして調べる。
 ・自分の生い立ち、思い出にきっかけがあるかも知れないと、昔を思い出す。
 ・過去に読んだ書物や見たことのある映像の中にきっかけがあるかもしれないと思い出す。
 ・風景でも自然に近い風景という場合、はやり、西欧や日本での自然観に違いがあるかもしれないと
  調べる。
 ・さらに、宗教観にも触れる。(以前、アニミズムを紹介しました)
 ・そして、過去の写真の中で、自分の好きなものがどう残されているのかを調べるとともに、現代の流れ、傾向を調べる。

 こうしたことで、必ずしも見つけられるかは不明です。なぜなら、それは、惹かれる発端や理由を見つけられるかもしれませんが、そこに他にはない独自なものがあるかは、自分が創り出さなくてはならないからです。

 「守破離」 やはり師をもつことがいいのだが…。

 「守破離」という言葉があります。これは師をもちこれをとことん学ぶ=守。つぎに、これを破る、破壊するとなります。とことん師の通り行っていっても、必ず自分というものがあり、どうしてもここは少し違う、かなり違うという点がでてくるのではないでしょうか。そうして少しずつ崩れてきて「破」となります。しかし、これで本当に自分なりの創造を得るかといえば、師との対比での自分であることから、創造のきっかけをみつけただけに過ぎないと思います。だからこそ、最終の「離」があり、師の教えとそれへの改善をこえた、自分の独自の世界を創り出すことができるのだと思います。

 あの東川でのワークショップの中でも、中西氏になりたいという若者がいたようですが、中西氏はとことん真似ることで自分なりの世界が見つかるというようなことをおっしゃっていました。これも、「守破離」の「守破」までの道程を述べたものと思われます。誰の師ももたずに、そうした世界を創り出すのはごく一部の人間でしょう。少なくとも、師をもつこと、師に近い模範・目標をもつことが必要だと思います。真似ることで技術も得ることができます。もし会話の機会があれば、さまざまことを聞くことができます。それこそ、プロが生活をかける中で得た貴重なことを得ることもできます。素人が数年して得たことが数時間で得ることさえできると思います。
 しかし、テーマやコンセプトは自分でしか考えることはできません。たとえ、師を得ても多くのヒントをえるかもしれませんが、所詮は自分で見つけるしかないのだと思います。
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