PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

表現性

写真についての個人的なメモです!

忠実性から表現性へ

 写真をやり始めの時の現像は、色彩は濃い目、明度もやや低目でした。当時は国産のシルキーピクスと言う現像ソフトも使っていましたし、キャリブレーションも知らないままでした。
 その後、「見た目=忠実な再現」を試みていました。そして、現像ソフトもApertureを経由してLIghtroomとなります。
     

 忠実な再現で一番なのは冬の光景で、雪面の色が練習台でした。実際には白から青、影は灰色から青と、天候や時刻によっていく通りの色があります。特に逆光撮影も多かったこともあり、暗くなる部分を明るくする補正も練習しました。HDRと言う方法もやって見ましたが、これも程度問題で、画像が平面的になる傾向もあって、特に意識はしなくなりました。あとは空の青も難しいと感じていました。
 
 現在は? と言うとどうでしょうか。忠実には近いと思うのですが、カラーでは色の濃さと言うよりも物の立体感をだすと言うことで、「明暗」「光と影」を少し強調しています。色彩を飛ばしたモノクロでは、「明暗」「光と影」の強調の幅が広がるので、より大胆に光景を描くようにしています。そのうち、カラーでも、ダイナミックな光景では大胆さを出して行きたいと思っています。その反面、雪原の白と青のような色彩の多様性がない場合は、少し淡い、ハイトーンもいいかと思っています。


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 色々と試行錯誤を重ねていますが、その点でRAW撮影は試行錯誤に耐えうるデータを持っていることが多くて助かります。また、ソフトの進化もあって新たな修正、補正が可能になる場合もあります。

表現性 「現実からの距離感」

 すでに紹介したある作家曰く。
 「現実の風景を忠実に再現して正確に描くのではなく、いかに現実から離れていくか。そうすることで、撮影者と鑑賞者の思いにいい意味での距離ができて、解釈の幅が広がるように思います。」

 忠実性と言うのは「写真の真骨頂」です。しかし、それはそれで意味のある記録として現実を模写、コピーした物です。例え「view」の中で「scene」を見出して切り取られた意図ある光景であっても、これだけ写真が氾濫している世の中では、何らかの個性やオリジナリティを込めることが求められます。アマチュアカメラマンとはいっても、皆が皆、観光用の見るから綺麗で忠実な写真を撮っているわけではないからです。

 そこに「いかに現実から離れるか」と言う言葉が「表現性」の具体的比喩として出てくるのだと思います。写真に表現性をプラスするには、現実に見て撮った光景から「離れる」ことが重要と言うことです。

 そうするならば、「いかに離れるか」が問題です。色彩で離れる、色相で離れる、明暗で離れる、などと現像ソフトの各調整スライドレバーの数ほどありますし、プラスもマイナスもあります。それらを組み合わせれば無限に近いような距離感を作ることができると思います。

 青い空をより強調してもオーケー。ゴールデンアワーの赤みを増やしてもオーケーでしょう。本来見た目とは異なる色彩も可能かもしれません。現実的にありえない色彩も可能かもしれません。撮影者独自が狙える表現は様々です。しかし、かといって極端な話、鑑賞者に全くの違和感を与えてしまい、視覚的な嫌悪感を懐かせることだってできる表現もあるということです。

 つまり、どこまで離れるかは、あくまでも撮影者の「主観による印象」や「個性表現」の強調が主なのかもしれません。しかし、この文章には「鑑賞者」という点があります。表現である以上、誰かの鑑賞や評価を前提としなければならないということを表していると思います。そうなると、撮影者自身が、鑑賞者が何を見て、何を感じるかという鑑賞者目線での捉え方、評価もできる視点を持って表現を考え、それを限界域にするようなことも考えられます。
 
 写真コンテストの経験はないのですが、コンテストでは審査員の好みや見方を考えて作品作りをすることも重要だと聞いています。また、美瑛のプロの写真集でもアマチュアや観光客を対象とするならば、どこで何が見え撮れるのかといった、忠実性のある写真や鮮やかな写真となるかもしれません。また、雑誌記載の際の写真もそれなりに選ぶと言います。
 すなわち、鑑賞者をどのような人々におくのかで、写真自体を選んだりやその表現方法も変えるというのが事実ではないかと思います。これは1つの考えです。反対に全く独自の表現だってあるわけです。

 明暗や色彩の変化などで、忠実性を抑えたり強調したり、明暗差をつけて捉えにくくする部分もあるようにする。明瞭やシャープさを加えて忠実性を強調するのもありますし、本当に暗くするのか、凝視すればなんとなく見えてくるようにするのか。明暗はモノクロ風にして、色彩は少し抑え目にする(暗くすると彩度が上がりますし)とか。また、霧のゴールデンアワーは全てが赤くなりますが、全体が赤の写真はどう見ても目にはキツすぎるので、ホワイトバランスを変えることがあります。基本的には、私は自然風景写真なので、色相の違いや彩度の過度なのは違和感を感じるので、鑑賞者も同じだろうと考えています。

 身近な人の話ですが、モノクロだとかなりの明暗差のある写真でもいいようですが、それがカラーだと、「こんなの実際にあったの?」と言います。つまり、モノクロは光の強弱でそういう見え方があるかもしれないとは思っていても、カラー写真は現実を忠実に表したものというイメージがあるようです。つまり、自然風景写真も「記録=忠実な再現」という見方をしているのだと思うのです。もしかして「写真における表現性」というのは想定外!?かもしれません。このような人には忠実から少し強調の写真がいいのでしょうか。長年写真を撮っている人には、もう少し変化をつけられるかもしれません。

 「えっ!?」という違和感のある驚きが第一印象でも構いませんが、細部には写真のもつ物の造形面での「忠実性」が見事ということも考えられます。第一印象では色彩の鮮やかさが飛び込んできても、一体何を撮影したのか分からない、作品全体から考えなくてはならないというのも考えられます。

 「主観と客観」については、アートの世界では「主観」的なものが独創性やオリジナリティの根源だと思っていますが、写真については「現実の忠実性」が基盤にあるために、主観や他の人の主観も交えて、どう考えるかが問題なのかもしれません。

 とりあえず「現実との距離感」はこれくらいで。

冬の光景 諦めの1枚復活

 カラーでの表現に納得がいかなくてモノクロにした写真の復活です。

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 元画像よりも縮小していますが、雪原はかろうじて見える範囲にしました。元画像は青ですが、暗くしても違和感のある青でしたがかなり黒に近く、一部は残っているというところで治めました。
 こんな光景はないといえばそれまでですが、雲間の夕景に視覚が奪われれば、当然に肉眼では暗くなるだろうということでの表現の限界領域だと思います。カメラで残すことのできる画像と肉眼とは違う点で、肉眼に近い見え方であろうということからの修正の結果です。

 この事象のカットが数十枚もありました。雲の変化を楽しんだのでしょう。後日、紹介します。

鏡と窓 表現性について

 「鏡と窓」展

“Mirrors and Windows”

 1978年7月28日から10月2日までニューヨーク近代美術館で開催された、60年以降の写真表現の動向を扱った展覧会。企画を担当したジョン・シャーコフスキーは、100名の作家による200点余りの作品を選び、それぞれを「鏡派」と「窓派」に分類して提示した。「鏡派」は写真を自己表現の手段として用いる写真家のことで、「窓派」は写真を通して外界を探求する写真家のことをさす。しかし。シャーコフスキー自身が述べているように、この二つは不連続な関係にあるのではない。どのさ写真の中にも二つの側面が存在しているのであり、1枚の写真を鏡派か窓派かのどちらかにのみ分けることは不可能である。こうした曖昧さをはらんだ分類をシャーコフスキーがあえて提示した背景には、当時の写真評論にみられた、「ストレート・フォトグラフィ」と「マニピュレイテッド・フォトグラフィ」を二項対立させることによって写真表現を分類しようとする傾向への抵抗があった。

 「鏡と窓」とは、うまい表現をしますね。連続性があると言うことでは境目がないということですし、混在しているものもあるということかもしれません。写真というのは外界をほぼ忠実に写し出すということでは画期的な発明であるとして登場しました。しかし、歴史の古い絵画との比較もあり、芸術性という点では写真も絵画の手法を取り入れてきて、写真でも芸術的なものへと高めようとする動きが出来てきたようです。これが「鏡派」です。そこでのもっとも極端なのは、フィルムや銀塩での現像の薬品に手を加えて表現したり、合成をしたりと、今で言うとかなりの加工と現像をおこなっていたようです。こうしたやり方は廃れたらしいですが、写真における「表現性」については、いかに他とは異なる希少性のある写真、オリジナリティのある写真を作り出し自己のアイデンティティーを出すかということでは、現代の写真家も工夫しているようです。
 
 写真の特徴
 写真というのは、音楽や絵画、演劇などといった表現(芸術)の1つの手法であるとされています。その手段を通して、何を伝えようとし、伝わるかを追求するのが、「表現性」です。また、「窓」として外界を視覚的に捉える写真は絵画よりも緻密で、複製もとれ記録として、多くの人や後世に伝え、残すものとしては最高のものです。これが写真の特質の基本です。記録性によって、絵画分野での肖像画等が廃れ、逆に絵画における表現性や創造性に大きな影響を与えたらしいのです。また、写真は今やデータとしてやりとりできる点では絵画よりも優れた「伝達性」があります。過去の場合でもネガがあれば多くの複製がつくれましたし。
 今はカメラの氾濫と画像の氾濫期(スマホのカメラ、画像のWebアップ)です。誰もが写して残して伝えて、ある種表現できる記録性と伝達性、表現性が身近なものであるからです。また、カメラの記録性は、センサーの進化とカメラの高機能化で精度も上がってきています。そうなると、誰もが写真で表現できるということになりますし、プロの方はいい写真としての「表現性」も、秀でていなくてはならないことになります。
 
 現実を記録する写真における表現性

 現像技術とも関わりますが、表現方法を簡単にあげると、モノクロ、HDR、ハイキー・ローキーというのがあります。カラーをあえてモノクロにしたり、露出を明るい方にしたり、暗めにするというのがあります。HDRというのは、逆光などでは、カメラが勝手に判断して、その明るさを抑えてしまって、その前にあるものが暗くなってしまう性質があるのを
補正する方法です。これは専用のソフトもありますし、カメラ機能としてついているものもあります。これは、カメラが現実を記録するとは言っても、肉眼にはかなわない点もあり、肉眼で見るように補正、修正するといってもいいでしょうか。これも強めにやると絵画的な雰囲気がでます。

 以上は、カメラが記録したものを、全面的に現像時に補正、修正することですが、実際的は、全体もありますが、写し出されたものの一部を部分的に補正、修正することが多い感じです。ある部分を強調したり、弱めたりすることです。現像ソフトの1つである「ライトルーム」の現像画面にあるスライドレバーの数だけ、修正が効き、その範囲や分量もレバーを左右に動かせば修正できます。

 実はこうした作業が、「表現性」と関わってくきます。同じデータで現像しても、現像する人の数だけ違う写真ができあがるからです。違う理由としては、
 ・季節はいつで、何時頃撮られたのか。
 ・このデータを撮った人は何に惹かれて撮ったのか。
 ・これによって強調したり弱めたりするのはどこなのか。
などと考えるのですが、その際の修正の箇所や度合いの違いが生まれるからです。中には、実際の自然には見られないような色彩もあって、本当に10人10色なのです。 
 
 
 以上は現像時でのものですが、実際の撮影時においてもどうフレーミングするのか、どう現実を切り取るのかも表現性の1つであると考えます。プロとのプライベート・ツアーで同じ箇所(2,3m以内)で撮影しても、切り取りや焦点距離(画角)が違うからです。おそらく、プロはいい被写体があれば、天気や光の変化も考えて(イメージして)、その時をねらって撮影するでしょう。すでに撮影から「表現性」は始まっているのです。

 そして、もう一つ。「Follow me」が好きな理由でもあり、写真でのテーマということにも関わるものです。私もキツネを撮りますが、どうしてもその姿や表情に惹かれるのです。しかし、どうでしょうか。厳しい自然と共存して生態を表現しています。それも白と夕空という、もっともシンプルで美しい背景です。しかも、疾走時の脚の宙に浮いているのも見事です。厳しい冬の自然の中の束の間の美と戯れ、幸せ感も漂っています。そうしたものを、感じさせるには、キツネを小さく、背景を広くというフレーミングが必須でしょう。構図がどうだこうだの前に、こうした「表現したいテーマ」があるように感じるのです。別な感点では「被写体に撮られるな」ということも言われます。撮るのは「人(表現者、意思・思想・哲学などをもった存在)」なのです。
 

写真とは? 

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 20日は朝から絶え間のない雨。午後6時半頃には土砂災害警報が発令。一部地区には避難勧告も出たとのことです。自宅位置は市内でも高いところにあるとはいえ、庭と自宅の間には一時5cm程のプール状態にもなり、家の土台が半地下の車庫と部屋があるということで、雨水の排水ポンプがフル活動しています。明日も台風が来るようです。

 こんな雨の日はということで。「写真の性質」を考えていくうちに、写真には撮影者と鑑賞者の2つの立場があることや、撮影者として写真の性質を考えると、その断片性と表現性には撮影者の意図が深く関与していることに気づきました(当然のことですが)。どんな被写体をいつどう切り取るか、さらに、カメラ設定や現像を含めての写真技術を駆使してつくられた写真ですので、撮影者の感性や知的な動機による意図が込められていることを「写真の性質」に加えました。
 ・写真の性質 記録性、二次元・平面性、複写性(デジタルということで追加)、そして、断片性、表現性。 時間的断片にフレーミング・構図を関連させましたが、撮影時刻を選ぶことも「時のフレーミング」ということです。その前までは、シャッタースピードや長時間露光をイメージしたのですが、風景写真としては、時刻の方がより現実的かと思います。
 ・表現性について これも「断片性」に関連づけできそうですが、撮影者という立場からは、独立させた方がわかりやすいかと思いました。表現性から記録性への矢印を付けたのは、作品としてよりも、思い出や記念写真的なことを想定したものです。
 ・左の鑑賞者側は、参考までにということで、写真を見た際の印象や鑑賞の方法、評価を簡単にえがいたものです。中に「文化的背景」とあるのは、おそらく外国や、関東・関西、都会と田舎等の文化的違いで、受け取り方が異なることもあるかと思ったからです。

 写真の性質を考えていくうちに,このマインドマップからは,「うまく撮る写真技術」から「表現のための写真技術」への意識転換が重要かと感じました。風景の場合は,撮影者が人為的に被写体を動かしたり加えたりして構成できないので,フォトジェニックな被写体の出会いと,その際のフレーミング(焦点距離も含め)が重要だと改めて考えさせられました。
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