PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

表現

写真についての個人的なメモです!

表現性 「現実からの距離感」

 すでに紹介したある作家曰く。
 「現実の風景を忠実に再現して正確に描くのではなく、いかに現実から離れていくか。そうすることで、撮影者と鑑賞者の思いにいい意味での距離ができて、解釈の幅が広がるように思います。」

 忠実性と言うのは「写真の真骨頂」です。しかし、それはそれで意味のある記録として現実を模写、コピーした物です。例え「view」の中で「scene」を見出して切り取られた意図ある光景であっても、これだけ写真が氾濫している世の中では、何らかの個性やオリジナリティを込めることが求められます。アマチュアカメラマンとはいっても、皆が皆、観光用の見るから綺麗で忠実な写真を撮っているわけではないからです。

 そこに「いかに現実から離れるか」と言う言葉が「表現性」の具体的比喩として出てくるのだと思います。写真に表現性をプラスするには、現実に見て撮った光景から「離れる」ことが重要と言うことです。

 そうするならば、「いかに離れるか」が問題です。色彩で離れる、色相で離れる、明暗で離れる、などと現像ソフトの各調整スライドレバーの数ほどありますし、プラスもマイナスもあります。それらを組み合わせれば無限に近いような距離感を作ることができると思います。

 青い空をより強調してもオーケー。ゴールデンアワーの赤みを増やしてもオーケーでしょう。本来見た目とは異なる色彩も可能かもしれません。現実的にありえない色彩も可能かもしれません。撮影者独自が狙える表現は様々です。しかし、かといって極端な話、鑑賞者に全くの違和感を与えてしまい、視覚的な嫌悪感を懐かせることだってできる表現もあるということです。

 つまり、どこまで離れるかは、あくまでも撮影者の「主観による印象」や「個性表現」の強調が主なのかもしれません。しかし、この文章には「鑑賞者」という点があります。表現である以上、誰かの鑑賞や評価を前提としなければならないということを表していると思います。そうなると、撮影者自身が、鑑賞者が何を見て、何を感じるかという鑑賞者目線での捉え方、評価もできる視点を持って表現を考え、それを限界域にするようなことも考えられます。
 
 写真コンテストの経験はないのですが、コンテストでは審査員の好みや見方を考えて作品作りをすることも重要だと聞いています。また、美瑛のプロの写真集でもアマチュアや観光客を対象とするならば、どこで何が見え撮れるのかといった、忠実性のある写真や鮮やかな写真となるかもしれません。また、雑誌記載の際の写真もそれなりに選ぶと言います。
 すなわち、鑑賞者をどのような人々におくのかで、写真自体を選んだりやその表現方法も変えるというのが事実ではないかと思います。これは1つの考えです。反対に全く独自の表現だってあるわけです。

 明暗や色彩の変化などで、忠実性を抑えたり強調したり、明暗差をつけて捉えにくくする部分もあるようにする。明瞭やシャープさを加えて忠実性を強調するのもありますし、本当に暗くするのか、凝視すればなんとなく見えてくるようにするのか。明暗はモノクロ風にして、色彩は少し抑え目にする(暗くすると彩度が上がりますし)とか。また、霧のゴールデンアワーは全てが赤くなりますが、全体が赤の写真はどう見ても目にはキツすぎるので、ホワイトバランスを変えることがあります。基本的には、私は自然風景写真なので、色相の違いや彩度の過度なのは違和感を感じるので、鑑賞者も同じだろうと考えています。

 身近な人の話ですが、モノクロだとかなりの明暗差のある写真でもいいようですが、それがカラーだと、「こんなの実際にあったの?」と言います。つまり、モノクロは光の強弱でそういう見え方があるかもしれないとは思っていても、カラー写真は現実を忠実に表したものというイメージがあるようです。つまり、自然風景写真も「記録=忠実な再現」という見方をしているのだと思うのです。もしかして「写真における表現性」というのは想定外!?かもしれません。このような人には忠実から少し強調の写真がいいのでしょうか。長年写真を撮っている人には、もう少し変化をつけられるかもしれません。

 「えっ!?」という違和感のある驚きが第一印象でも構いませんが、細部には写真のもつ物の造形面での「忠実性」が見事ということも考えられます。第一印象では色彩の鮮やかさが飛び込んできても、一体何を撮影したのか分からない、作品全体から考えなくてはならないというのも考えられます。

 「主観と客観」については、アートの世界では「主観」的なものが独創性やオリジナリティの根源だと思っていますが、写真については「現実の忠実性」が基盤にあるために、主観や他の人の主観も交えて、どう考えるかが問題なのかもしれません。

 とりあえず「現実との距離感」はこれくらいで。

写真と表現

 永遠のテーマのような表題です。大きな流れは写真の歴史からでしょうが、プロにしてもアマチュアにしても、常に表現を考えていることと思います。

 少し話は変わりますが、昔から音楽も好きで、小学生頃はクラッシックのワルツや威風堂々などのマーチが家の中で流れていました。それからテープレコーダーなるものを借りて、テレビからアニメ曲を録音して聴いていたことを思い出します。ついでに鉱石ラジオ、トランジスタラジオも造っていました。好きな曲も年代を重ねるにつれて、スタンダードな曲(ジャズやポップ、クラシック)が多くなりました。

 それと、余り上手くはないのですがギターやパソコンも独学しましたが、後にDTMとやらで楽器がなくても楽器に似た音源をもっていて曲をコピーしたり作れるハードとソフトがでてきました。音符入力や数値入力で作るのですが、メロディ、伴奏、打楽器リズムと非常に根気のいる作業でした。その後、コードネームを入れれば自動的に何通りもの伴奏がついたり、リズムに合わせた打楽器類が自動的に作られるものへとソフト自体も進化してきました。中にはメロディも伴奏も打楽器類も全て自動というソフトもでました。リズムも実際の演奏からサンプリングしたもの数百種類もあって、それらを選んで張り付けるだけで、プロチックなものができるというのもありました。
 いろいろな伴奏や打楽器リズムもそれなりに作れても、はやり音楽はメロディが重要で、極めて難しくて感性もそうですが才能というものがいるものだと、自分の能力のなさが分かった結果となりました。
 
 また観点は先ほどのスタンダード曲にもどります。なぜスタンダードかといいますと、いろいろな歌手やジャズ演奏家がそれぞれの解釈や表現を加えてそれぞれに個性的な音楽にしていることが魅力の1つです。好みもありますが、それぞれに味のある曲にしているわけです。男性あり女性あり、声質の違いあり、カントリー風あり、ポップでもジャズ風などがあります。じっくり聞くと、ウ~ンとうなりたくなるほど、個性的です。

 さて、ここまで来ると「写真」との関連性を書くと気が付くかもしれません。

 また自然風景写真に限ってですが、
 ・自然の奏でるメロデイや伴奏、リズムを感じ取って撮影するともいえないかなと言うことです。
  また、それを撮影者は写真で表現するということです。
 ・メロディが忠実性ある自然の現実で、撮影者はそれに伴奏やリズムをつけて、いわゆる編曲・現像して表現するとも考えられないかと思うのです。
 ・音は色彩、光の明暗です。山川草木と自然現象などがメロディです。構図もはいりますね。まあ、ジャズのようにメロディを変えたりはできないですが、原曲のメロディを重視しながら、味付けをしていくわけです。 
 ・こう考えるとなんとなく分かるでしょうか。ただし、音楽のようなお音符の位置が違うというような差異がでない中での表現となりそうです。極めて微妙な違いかもしれません。その微妙な中に、ひょっとして上手い表現、下手な表現の違いがあるのかもしれません。もちろんモチーフ、被写体のよさは欠かせないと思いますが。

冬の光景 諦めの1枚復活

 カラーでの表現に納得がいかなくてモノクロにした写真の復活です。

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 元画像よりも縮小していますが、雪原はかろうじて見える範囲にしました。元画像は青ですが、暗くしても違和感のある青でしたがかなり黒に近く、一部は残っているというところで治めました。
 こんな光景はないといえばそれまでですが、雲間の夕景に視覚が奪われれば、当然に肉眼では暗くなるだろうということでの表現の限界領域だと思います。カメラで残すことのできる画像と肉眼とは違う点で、肉眼に近い見え方であろうということからの修正の結果です。

 この事象のカットが数十枚もありました。雲の変化を楽しんだのでしょう。後日、紹介します。

写真とは? ‥性懲りもなく

写真の表現性
 写真をめぐる特徴 以前のものと少々違います

 また性懲りもなく,という感じですがお付き合いください。
 写真における「記録性」と「表現性」について考えているところですが,どうも境目をつけることができなくなりました。それは撮影者の意図もあるようですが,鑑賞者の判断にも関わってくるもので,記録としての写真と表現物である写真との「境目が揺れる」ということもあるからです。また,以前から述べているように,その記録性そのものに表現性を認めるということです。レンズやカメラの性能にまかせて撮ったとしても,現実世界を切り取ること自体に撮影者の意図が含まれるからで,その切り取り方,空間や時間の断片化の仕方で,より表現性があるかどうかが判断されるものかとも思います。また一方,レンズやカメラの性能の向上も,細部での描写力をもとに写実性を高める高画質化をめざしつつあり,それが記録性を高めて,表現力を高めようともしているようです。写真という領域では,写実性や記録性の向上と表現性の向上には深い関係があるかと思います。 そして,表現性の高いものは芸術性があると思いますが,そこまで述べることは,芸術素人ですので無理です。
 今回は,記録性も表現性に結びつけたのはそのような意味です。さらに,今回は絵画的な意味合いはないのですが,「描画性」というのを入れてみました。撮って出しという人もいるようですが,RAW撮影での現像・補正は,色彩や明暗,コントラスト等を変えますので,まさに描画的な行為です,さらに,カメラに内蔵する自動的な画像処理エンジンに任せるのではなくて,撮影者の考えと判断によって写真をつくる,仕上げるという創作的な行為になるのだと思います。例え,見た目に近づけるような現像であっても,画像データをもとに描画していくという作業になるかと思います。現像ソフトでの各スライダーは絵筆であるかもしれません。
 
  だた,「表現性が高い」とは,そうした現像処理の技術が高いということもあるかもしれませんが,写し撮られた被写体が何であり,どんな状況で,どのような状態が切り取られたのかということが,写実性(記録性)を基盤にする風景写真では重要かと思います。写し撮られたものを見た目に近づけたり,被写体や表現したい主題等をより引き立たせるような手段として表現方法がくるのだと思います。
風景写真では,表現方法・現像補正・修正が過度になると「嘘=虚映像」となったり,絵画のようになりますが,この境目についても個々の判断の範疇でしょうか。
  色彩を取り除いたモノクロという表現方法もありますが,どのような意味合いをもって,何を伝えるのに効果的なのでしょうか。これも写実性はありながらも,現実とは異なった一部「嘘」の「虚映像」になるのですが,そこから何をひきださせようとしているのでしょうか。はたまた,表現の方向性について考えているのですが,それは,写実性からくる「現実性・現実感という意味でのリアリティ」の追求であったり,モノクロに例えられるような「虚」から,被写体や写したかったものやこと,印象などの核心に触れるような,「本質性・真実性という意味でのリアリティ」の追求であるかもしれません。
 そうしたもろもろのことも知ってみたい,知っても写真は変わらないかもしれない,もしかして変わる? というような「写真についての思い」です。 

写真上達?

上達0703


 いろいろと思い悩む「写真」です。以前は写真上達のためにと、概念図的に考えてみましたが、テーマや写真の自己評価チャートなどを考えているうちに、見直してみました。
 あまり変わらないようですが、以下のような点で考え直してみました。

・感性的にいいなという被写体があっても、写真的にどうかの「フォトジェニック」の判断が入りそうということ。
・「カメラ」は機械ながらも、カメラマンにとっては、「目」そのものという考え。ファインダーも肉眼で見ますし、肉眼以上にマクロや望遠もききますので、ある面肉眼以上の力をもつことにもなります。
・カメラ設定においても、脳による判断であること。
・さらに、パソコンによるRAW現像の各種操作や判断も脳による判断ということ。
・すなわち、大枠で囲んでいることが、私自身として一体的にあるということ。
・黒矢印をループとしてみたこと。これにより、それぞれのわずかな上達でも、次の段階や前の段階に影響を与えていくのではないかという予想をたてました。また、<課題群>に最近考えている「テーマ」を加えて、頭脳=思考に関連付け、「自己評価(=チャート)」ループ内に加えてみました。
・「場所や時刻‥」も判断事項なので、枠内、そしてループ上ということ。
・自分と外の世界である風景が、被写体となり撮影されることは、目や脳の代わりに映像が記録されること、更に脳内の記憶をつてに、あるいは、強調や工夫をくわえながら現像をおこなって、データを再加工し、アウトプットしているという概念になります。

 それと、写真上達とは何かということになります。カメラ操作や設定のノウハウの上達だけではなくて、元データの現像、補正や加工も加わります。ここまでが写真上達とされてノウハウ本が多く出版されているようです。
 しかし、そうした、ノウハウ上の上達だけで、納得できる複数の写真が撮れても、写真を撮り続ける原動力になるのかはわかりません。少なくても、私にとっては、そのへんが引っかかっています。
 自己評価チャート作成を通して、どんな写真を撮りたいのかは、おおよそ道が開けたようですが、溜まっていく写真を見直してみると、何を表現したかったのか、何を追究してきたのか、などがほしいと思っています。これが「テーマ」ということです。例えば「美瑛の丘」といえば被写体ですし、もっと内面なことはないのかという感じです。美瑛の丘などを通して、何を感じて、表現したいのかというものです。これは一筋縄でいかないようです。これを求めつつ、撮影を続けていくということもありうる課題なのかもしれないとも思っています。

 こうなると「写真上達の道」というよりは、撮影から現像、そして表現‥テーマまで含めた、「写真の道」 というこになるでしょうか。昔は、趣味のことを「道楽」といったようです。楽しい道と言うよりも、道を歩むのを楽しむということでしょうか。健康であればこその歩みですので、楽しんだり悩んだりと一喜一憂の人生の一部なのでしょう。
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