PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

自然観

写真についての個人的なメモです!

視覚以前

 <同じような視覚だが>

 見える物を撮影するのが写真であり、デジタル処理されたデータによってPCやディスプレイで再現できます。はたまた、プリントして物として残すことができます。その出力されたものが見える物であるかもしれませんが、情感を醸し出したり、心象的なものを「表現」することができます。

 何を写すのか、どう写すのか、どのようなカメラ設定なのか、どのような現像処理なのかは、やや技術的でもありますが、見た物をどう表現するかということにもかかわってきますし、プロの写真家(写真作家)であれば、己だけの被写体や表現を求めているようです。そこには、被写体への独特の見方や選び方等があるようです。

 そして、プロといえども視覚は人よりも異なることはありません。被写体への独特の見方や選び方は、テーマやコンセプトといった哲学的な裏付けをもとに、被写体を見て、選んでいて表現するからこそ、他とは違った写真を生み出しています。

 <視覚以前の考え方>

 このようなテーマやコンセプトをもつことによって、今までの自然や世界に異なった見方(自然観、世界観)を与えたり、新たな意味をもたせることによって、写真を作品として生み出しているということになります。
 自然を見て写真を撮っているようですが、これは視覚以前の問題ではないかと思います。


 今までの自然観や世界観とは異なる! とまでは行かなくても、自分が求める世界を見つけたいものと常日頃思うのです。「霧」への拘りがどうして自分に生まれたのかというのもその突破口となるかもしれないとも思うのです。


  視覚は光を受容することで活性化される感覚ですが、脳の処理で様々な意識・認識を呼び起こします。視覚された肉体外の物・事象の理解の仕方・認識も一定ではなく、知識や経験で変わってきます。もちろん、子供と大人で違いますし、人によっても違います。

 しかし、この過程を逆にしてみれば、自ずと自然を見る見方も変わり、写真も変わってくるのではないかと思います。ここまでは、今まで考えてきたところです。

 <新たな見方、構えは、自己の中から>
 
 被写体である自然の「何を」「いつ」「どのように」切り取り、表現するのか。これが普通の構えです。しかし、そこにはいつも被写体と己が対峙しているだけです。もう少し深めたいところがこれです。あくまでも「写真を撮る」という主体は己です。しかし、そこにある被写体が自己の存在とは別にあり、写してやる(ショット=撃つ、撮る、)というようなことよりも、被写体は己なくしてはありえない存在であり、己なくしては意味を持ち得ないという存在の被写体であるならば、どうでしょうか。

 これを考え詰めていくと、自分が存在しているからこそ、自然があり世界がある。あるいは、自己という経験体が見る自然や世界は、突き詰めれば、自分だけがもっている理解の仕方や感じ方でしか自然や世界は現れないということです。確かに他人との共通項はありながらも、その共通項で写真を語るならば、観光パンフレットや誰かのマネになってしまう恐れがあります。インスタ映えならぬ「綺麗!」「鮮やか!」で終わることになります。絵画などの美術では、印象派の登場によって、古典的な美というものから脱却して、訳のわからなような抽象画へと変わってきました。以前に記した「鏡と窓」のようなものへと移ってきたということです。

 自らの心象や印象、はたまた世界観を反映した物が作品と言うことになります。これは重要な点だと思います。「自分だけが持っている理解の仕方や感じ方」とは書きましたが、それを反映させるのが作品と言うことになります。

 そうすると、この「自分」を知らなければなりません。そこにある物(自然、世界)への自分なりの理解や感じ方とは何かを知らなくてはなりません。とは言っても、理性的に理解の糸口がつかめるのかといえば難しい。とっかかりは、やはり、自分の趣向、好き嫌い、気持ちいいとか、安らぐでもいいでしょうし、ある種の緊張がある、興奮があるなど、惹かれるものでしょうか。

 そして、それらに「なぜ?」をつけて解明していく作業が必要なのではないかと思います。そして、
 
 ・惹かれる物について、辞書でも事典でも手にして調べる。
 ・自分の生い立ち、思い出にきっかけがあるかも知れないと、昔を思い出す。
 ・過去に読んだ書物や見たことのある映像の中にきっかけがあるかもしれないと思い出す。
 ・風景でも自然に近い風景という場合、はやり、西欧や日本での自然観に違いがあるかもしれないと
  調べる。
 ・さらに、宗教観にも触れる。(以前、アニミズムを紹介しました)
 ・そして、過去の写真の中で、自分の好きなものがどう残されているのかを調べるとともに、現代の流れ、傾向を調べる。

 こうしたことで、必ずしも見つけられるかは不明です。なぜなら、それは、惹かれる発端や理由を見つけられるかもしれませんが、そこに他にはない独自なものがあるかは、自分が創り出さなくてはならないからです。

 「守破離」 やはり師をもつことがいいのだが…。

 「守破離」という言葉があります。これは師をもちこれをとことん学ぶ=守。つぎに、これを破る、破壊するとなります。とことん師の通り行っていっても、必ず自分というものがあり、どうしてもここは少し違う、かなり違うという点がでてくるのではないでしょうか。そうして少しずつ崩れてきて「破」となります。しかし、これで本当に自分なりの創造を得るかといえば、師との対比での自分であることから、創造のきっかけをみつけただけに過ぎないと思います。だからこそ、最終の「離」があり、師の教えとそれへの改善をこえた、自分の独自の世界を創り出すことができるのだと思います。

 あの東川でのワークショップの中でも、中西氏になりたいという若者がいたようですが、中西氏はとことん真似ることで自分なりの世界が見つかるというようなことをおっしゃっていました。これも、「守破離」の「守破」までの道程を述べたものと思われます。誰の師ももたずに、そうした世界を創り出すのはごく一部の人間でしょう。少なくとも、師をもつこと、師に近い模範・目標をもつことが必要だと思います。真似ることで技術も得ることができます。もし会話の機会があれば、さまざまことを聞くことができます。それこそ、プロが生活をかける中で得た貴重なことを得ることもできます。素人が数年して得たことが数時間で得ることさえできると思います。
 しかし、テーマやコンセプトは自分でしか考えることはできません。たとえ、師を得ても多くのヒントをえるかもしれませんが、所詮は自分で見つけるしかないのだと思います。

パンフォーカス考 その2

 前回からの続きですが。その最後の部分から。

 「写真」は、当然に西洋文化の中で発展したものですので、完全性や完璧さは「神」を理解し、神に近づくような神聖な行為であるとされていると考えました。人間の肉眼での見え方はいわゆる曖昧であり、不完全であるとされていて、神がものを見る見方としての完全性を表すのが「パンフォーカス」であると個人的に考えるのです。これが前回でした。今回は下の表題です。

 「自然」の見方、考え方の根底

 この辺りの考えは、断片的な知識の寄せ集めで、しっかりとした論ではありません。しかし、西洋文化に深く根付いている宗教や、宗教と科学との関係には興味あることがあります。

 その1つとしては「自然」についての考え方です。きびしい砂漠といった環境で熟成された一神教では、自然や動物などは神が造り、最後に造られた人間が支配すべきものとしているのです。こうした見方は、約1万年以上もの間、豊かな自然の中で生きてきた日本人の源流である縄文人から続く日本人の見方とは異なっていると思います。宗教的にはアニミズムといって、自然に霊的存在を感じ、畏敬とともに自然との心的一体感を享受するものがありました。山や巨木、岩などを神聖なものとしたり、はたまた一部の動物を神の使いとするようなことです。天照大神を祭るような神社・神道でさえ、このようなことが残っています。古くからの信仰的な精神を残してきたと思われます。

 こうした自然や動物への感情や思いを反映した宗教はアニミズムと呼ばれ、西欧の人類学的にみれば「極めて原始的」であり、一神教では他のものを神とすることは許されないことから、「野蛮」とも称されるものです。しかし、後に伝来して広まった仏教(大乗仏教)には、「山川草木、森羅万象に仏性がある」ということが現代にも受け継がれていますが、ある意味、古くからの信仰的精神に似ているとも思うのです。全てのものー生命のないものでもー仏になることのできる仏性があるというのですから、西欧文化と日本文化でのこうした面での自然の捉え方の違いには大きな興味があります。

 極端で誤謬をいとわなければ、自然風景の捉え方、は西欧の「客観的」「知的好奇心での美(やや曖昧、もっと吟味すべき表現です)」と日本の「主観的」「畏敬や憧憬、癒やしといった一体感を与える美」という両極端な捉え方を想像することができるのではないかということです。小鳥の鳴き声でも西欧は雑音と同じような脳の反応すると聞きましたが、日本人は言語領域にも反応したり心地よいものとして脳が反応するというらしいです。自然の征服と消費財として管理すべきものとしての自然と、豊かな恵(自然環境が叫ばれて自然のよさを見直していることも含め)を享受し、時には災害として損害を与えてその脅威をも充分知って愛されてきた自然、こうした差は大きいものと思います。

 実際に西欧人や日本人が、どう自然風景や自然風景写真を捉えているのか興味津々です。この辺りを分析すれば、「自然」を見る視野や解釈が広がるかもしれませんし、日本人の自然風景写真が西欧でも理解されることがより深まるかもしれません。


 撮影者の意図と鑑賞者の解釈

 パンフォーカスから、ひょっとして自然観の違いが西欧と日本にはあるのではないかと書いてきました。
 パンフォーカスでのよさについてもどると、パンフォーカスでの写真は、隅々まで鮮明に見えることから、どこに何があるか、何が写っているのかがわかるので、非常に情報量が多いということができます。情報量が多い「ウィリーを探せ」という絵本の1ページにも似ています。

 写真家は巧みに視線を誘導するような技法や構図、色彩や明暗などの現像技術を組み込んで撮影者の意図を込めますが、情報量が多いだけに、鑑賞者の自由な読み取り、多様な受け取り方をも可能にしているのがパンフォーカスなのかもしれません。
 また、別な言い方をすると、写真もまた鑑賞者にとっては1つの「view」として、鑑賞者自身が「scene」を選んだりして「essence」をも見いだせるような可能性を残すものかもしれません。
記事検索