

霧を主体にとは考えても、ただ白いだけのもの。それが霧と見えるには、
・背後に何がしらの物が潜んでいて、それがかろうじて見えるようなこと。
・霧の隙間や境界上に物が見えること。
つまり、霧そのものと物の複数の存在があってこそ、認識される。こうした相互の関係性でしか霧は描写できないものがあるということになります。
下の写真は、そのようなことが頭の中でよぎりながら撮ったものです。
全体的に霧がかかっているのですが、上には帯状の霧があります。林と林の間にも霧があります。

そして、帯状の下全体に霧がかかっています。霧が霧であるためには、霧の薄いところで物が見えるよな描写、鮮明な描写ではないことでは霧を認識できるような描写が必要となるわけです。

これは、薄く見える部分と霧で見えない部分を約半分にしてみました。
次のものは半分以上です。

このように、霧と他のものがなければ、霧というのは描写できない、認識できないということになります。何か、当たり前のようなことですが、これが分かったということになります。
従って、霧光景では、どのように物を描写、見せることができるのか、その見せ方(捉え方、撮影チャンス)が大切なこととなります。そのような関係性が重要ということです。
霧という状況の中で物が、
・霧の影響を受けずに明確に見える
・明確な部分もありながら、隠れていく部分がある
・霧に影響されるにしても、ボワッとしていて何かはわからないようなものから、丘、木々があると分かるようなものまであるということ。


世界は善意とか正義、愛では動いてはいないかもしれない。善意や正義、愛とかを求めて生きているのは、庶民でしかいないのではないか。過日の衆議院選挙も候補者達は地域課題ばかりを取り上げているのも、そうした庶民の意図を汲んだものでいいかとは思うのですが、国政を預かる国会議員として、世界の中での日本の在り方や進むべく道をしっかりと提示してもよかったのではないかと残念に思うのです。票が欲しいがための直近の課題ばかりで愛想を振りまくだけでは情けないです。
私たち庶民は、善意とか正義、愛とかでは動かない資本主義や共産主義のよくない面の本質や両主義を貫くような世界のグローバル化による統制社会の実現という企みについては、十分に知り得るものではありませんが、そうしたものが企む善意や正義、愛を踏み潰すようなものを明確に分析して対処して、日本と国民を守り、世界に気骨のある発言をしていくのも国会議員の大きな使命だと思ってしまった前回の衆議院議員選挙でした。
こうした意味では、日本は霧、モヤがかかっているような感じです。その見えない部分では心や身体が侵食されているのではないかとも夢想=霧想してしまいます。コロナ禍で被害妄想になった訳ではありませんが、光あれば影ありで、それらを効果的に生かすという写真目線では、こうした両面的な世間の見方もあながち間違いではないかもしれません。
「霧を見ながら、世の闇も連想する」という、いささかへそ曲がりの面も書いておきます。霧の描写面積が多い ときは、善意や正義、愛を踏み潰すものへの霧のような無力な抵抗かもしれませんし、わずかに見える景色は仄かな希望を象徴しているかもしれません。
(今までの世間話には政治や宗教の問題はタブーだったようですが、日常的に情報交換したり、意見を言い合うような土壌ができない限り、政治家は磨かれないし、馬鹿な政治家がのさばるだけです。つまり、政治家に騙され馬鹿にされている庶民であってはならないし、そんな政治家だからこそ海外の政治家に騙され馬鹿にされていると思うのです。デジタル庁が出来て、中央官庁や地方自治体の全情報のサーバーをアメリカの企業に任せるということが決まったのだそうです。日本企業も落札には参加しましたがダメだったのです。LINE情報が1部中国に流れていたようなことがあったのに、アメリカならいいのでしょうか。はたまた、日本でのシステム管理上=サイバー攻撃防衛やSpy防止法がないために防御できないと判断したのでしょうか。何か情けない感じです。)

自然の全てのものに魂があるような、動物を神の使いとか、山や岩、木に神が宿るような見方や、そうした中での人との関係を探ってみたいと思います。