PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

縄文時代

写真についての個人的なメモです!

古代人のこころと自然観 その22

 相当長いシリーズになりました。シリーズとはいえ調べながらのものですので、隙間のあいたジグソーパズルのようです。

  縄文時代中心のものですが、教科書で知ったようなイメージとは異なるものを得ました。

・人や動植物、あるいは無生物という物と、あらゆるものに霊魂が存在するという観念的な自然との一体感の中で、人や自然との協調を図って生きていた。

・自然に左右されながらも、霊魂を信じることで、豊かな収穫や再生、防災などを祈った。

・縄目の土器や蛇の造形から蛇信仰、女性土偶からは女神信仰、地母神信仰が中心だったと思われる。
 しかし、現在神社にもある樹木や岩石、山などが神の依り代となることから、多くのものが祀られていたと推測される。

・狩猟漁労採集や土器・鏃等の生活の技術、埋葬・祭祀等を維持するために何らかの伝承がおこなわれていたことが想定される。

・それと共に、卓越した技術を持つ者や埋葬・祭祀を取り仕切る者、ムラを取り仕切る者、縄文文化を推進するような者などのリーダー的存在がいたことが想定されます。
 

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 国宝に指定された以外にも、重要文化財が多くあります。また、下図のような文様を見るときも、デザイン性や緻密性の高さを感じます。予想以上に高い精神性と知恵をもっていたことが充分にうかがい知ることができました。

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 新石器時代、縄文時代とはいえ、厳しい氷期が終える温暖化の中で自然の恵みに支えられながらも、現代日本と同じような地震や津波、はたまた台風による幾多の災害の中で立ち直りながら、共同性や忍耐性が培われ、優れた土器や土偶などを創り上げる芸術性をももっていました。また、あらゆるものに霊魂があるとしたような精神性は、弥生以後の現在までも神道的なものや厳密な教義をもつ仏教にも伝わってきていると思います。さらに世界的な一神教信者が人口の1%と極めて少なかったりするのも、縄文以来のアニミズム的な汎神論や先祖崇拝的なものが背景にあるのではないかと思っています。

 やはり、西洋の一神教的世界においては、神、あるいは神と類似したものを信じるか信じないかが重要な問題なのですが、多神教的世界における日本にとっては、認知や理解と言ったものよりも、神々の気配(感性的な)を感じるか感じないかという「感じる宗教」ということが言われています。自然の恩恵や美、神秘さ、癒やしなどを感じたり、身近にある自然とのメンタルな結びつきが強いのが古代人であり、その心情をずっと受け継いできているような感じがします。

古代人のこころと自然観 その21 土偶の意味から神話へ

 土偶の解釈はいろいろあるようですが、記紀神話では面白いことが書かれてあります。

<女神から食物がもたらされる>

 古事記から

 天界の神々が女神オオゲツヒメ(大宜津比売)に食物を求めた時、その女神は自分の鼻と口、尻から、いろいろな美味しい物をとりだし、それを調理して神々に差し出しました。その様子を見ていたスサノオは、汚い方法で料理をだす女神と思ってその女神を殺してしまうのです。すると、その殺された女神の頭から蚕が、目から稲、耳から栗、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生じました。その時、女神の身体に生じた種子を、カミムスヒという神がスサノオに取らせ、地上界に穀物がもたらされたという話です。

 日本書紀から

 アマテラスは、ツクヨミ(月夜見=月の神)に芦原中国にいるウケモチ(保食神)という女神をみてくるよう命じます。そうしてウケモチの所へ行くと、ウケモチは陸を向いて口から米を吐き出し、海を向いて魚を吐き出し、山を向いて獣を吐き出してツキヨミをもてなします。ツキヨミは「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒ってウケモチを斬ってしまいます。その後、アマテラスがアメノクマヒトを行かせると、すでにウケモチは死んでいて、死体の頭から牛馬、額から栗、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれていた。これを持ち帰るとアマテラスは喜んで、民が生きるための食料とされた。

 これらをみると、食物が女神の死体から生まれたということになります。前回の土偶から考えてみると、不思議な繫がりを感じます。土偶における破壊の意味の謎が解けるようです。そして、土偶における祭祀的なもの、その考えの根源が忘れ去られることなく、1万年間も伝えられ発展、追加していき、記紀での神々(奈良時代)に文字=物語として残るということが、一つの奇跡のように思います。後の女神や神というような存在もひょっとしてこの土偶という物からイメージされてきたのではないかとも思わせます。

 このような殺された女神から食物が生じるという話は、インドネシア、ポリネシアからアメリカ大陸にかけて広い地域にあります。ある学者は元来イモの栽培文化の起源神話としてつくりあげられたとしていますが、日本の記紀の場合は様々な穀類や蚕、動物も生じることから複合的な文化の流入による神話となっているとしています。

 土偶はどんな契機でつくられるようになったのかも興味深いです。たまたま子供がつくったのか。亡くなった幼子の母を慰めるために作られたのか。いつから女性が多くなったのか。
 
 古代人もまた、食料はすべて元は生命であること、生命を殺さなければ、食料を得て生きられないことを知っていたのでしょう。いまは生産者、とさつ解体業、販売店という仲介があることによって、食物が生命の死によってえられていることについては全く希薄になっているようです。

古代人のこころと自然観 その20 土偶の意味

 山内丸山遺跡でも土偶が出土されています。平面的で十字の形のものが多く「板状土偶」とよばれています。

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 山内丸山遺跡の近くの亀ヶ岡遺跡からは、有名な遮光器土偶が発見されています。これは東北地方特有ですが、これを模したものは北海道から近畿地方まであるそうです。宇宙人説もあるようですが、イヌイットやエスキモーの人たちが冬期間に狩りをするために使った遮光器の形に似ていることから名付けられています。
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 土偶というのは、縄文早期から出土されていて、人の形をした土製の焼き物で、多くの土偶は東日本に圧倒的に出土されるとのことです。実際の人型や霊的な存在のようなものを含めて土偶といって、動物や物は含まれません。こうした土偶は、世界的には農耕社会でのシンボルとされていて、日本の狩猟採集である縄文時代にあることが稀だそうです。世界的には女性を表したものが多く、農作物の豊穣を祈る地母神崇拝のための人形とされています。

 さて日本の土偶に戻りますが、女性の生殖器をデフォルメしているものが多かったり、半数以上が壊れていたり、故意に割られているものがあるようです。地母神崇拝というものがあったかは不明ですが、下記の諸説があります。

・神や霊魂をこの世に呼び出したときの依り代として土偶を用意して、祭祀を行い、祭祀を終えるために土偶を破壊した。

・脚部の破損が多いことから、祭祀の際に破壊して、災難や禍を祓う。

・特に女性の生殖器をデフォルメしていることから、安産、多産を祈る。

・ばらばらに破壊し大地にばらまかれたものは作物の豊穣を祈った。

・生命の再生、女神像、精霊の像、お守りなどとして作った。

古代人のこころと自然観 その18 三内丸山遺跡その2

三内丸山遺跡から考えられるのは以下のことでです。

 ・最盛期には500人ぐらいの縄文人が住んでたいたとされます。
 ・居住区の外には、管理された人工林があって、その外に自然林がある。
 ・保存食にもなるクリを栽培、管理していた。漆器作りに必要な漆林の区画を設けていた。
 ・いわゆる山里のような管理された林で野草を採り小動物などを狩っていた。
 ・魚介類や原生林で大型動物や薪炭を得る専門的、分業的な小集落との交流があった。時には、大集落の縄文人が手伝いに行っていたことも考えられる。
 ・食べ物では、クリの出土が多く、イモ類や山菜、マメ類やヒョウタンなども栽培されていた。動物ではムササビや野ウサギなどの小動物が多い。魚類では、マダイ、ブリ、サバ、ヒラメ、ニシン、サメ類が多く、フグも食べられていた。調理方法としては「焼く」よりも「煮る」が多いとされている。また、エゾニワトコを主に、サルナシ、クワ、キイチゴなどを発酵させた果実酒を飲んでいた。
 ・鏃では北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形件月山、新潟県佐渡、長野県霧ヶ峰など、日本海を中心とした産地から黒曜石が運ばれてきた。装飾品となる非常に硬いヒスイは、新潟県糸魚川周辺から運ばれてきています。これらをみると6,700kmもの交易圏があったと思われます。この点では、津軽海峡を横断したり、黒潮や親潮、対馬海流の潮の流れなどを知り、航海技術をもった「海洋の民」との交流があったと思われます。

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 上図は居住域の大集落の一部の復元図ですが、このような場所に最盛期に500人が住んでいたというのが通説です。これに疑問を持つ説もあり、多くて100人程度が、食料確保や排泄や廃棄物等での限界との意見もあります。

 500人説で考えてみると、1家族が多くて5人とすると、夫婦2人が働き手となるでしょうから、100人以上もの働き手が、狩猟採集、栽培、燃料集め、土器造りなどに携わっていたことでしょう。それぞれの仕事毎に詳しい人が中心となり分業していたことでしょう。子供や幼子をみるために留守番的な女性もいたかもしれません。さらに、時期的に忙しくなる秋のクリの収穫、山菜とりもあり、あらかじめあの大型住居に集まっていろいろな相談をしたかもしれません。この大型住居や櫓の建造を考えると、日々の建造に必要な大人の人数や食料確保の大人の人数からは100人程度の働き手がいないと、不可能かとも考えるのですが、いかがなものでしょうか。

古代人のこころと自然観 その8 縄文の大災害2


 さて、この火山噴火がどのような結果をもたらしたかというと、九州に1000年間も無人や不毛の時代を作ったとされています。


 といのも比較的近年、アカホヤ火山灰の地層の下から縄文時代の大集落が発見されて、縄文文化再評価のひとつとなりました。
 その集落は、舟作の工具(世界最古)や燻製施設と大量の炉、独自の貝殼紋の土器などをともなっていました。この高度な海洋民族を思わせる縄文人を全滅させたことがわかるからです。

 火山礫は火山近くで見られますが、遠方では火山灰でも細粒と粗粒のものが風に乗って撒き散らされます。中国からのpm2.5が肺に入るということで話題ですが、火山灰はそれ以下の0.001μmまでの大きさもあるガラス片や鉱石結晶辺です。大きいものは地上に落ちますが、小さいものは長らく空気中を漂って落ちます。おそらく、ヒエ、アワ、野草、木で実をならすものにも被害が出たでしょう。そして、それらを食する小動物、そして縄文人へも影響を与えたのではないかと思います。2cmの火山灰でも呼吸器に障害が出ると言われています。これが全国的となると相当の被害だったと想像できます。影響を受けなかった東北での縄文が独自の発展を遂げる?ということにも影響を与えたかもしれません。

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 もし、現代で鬼界カルデラが大噴火を起こしたら?

 最新のシミュレーションでは、32億立方キロメートルの噴火物が出るという。九州地方でとんでもない被害を受けるのはもちろん、関東地方に住んでいたからって安全とは言えません。恐らく火山灰の影響がでるからです。ジェット機、鉄道、道路などの輸送は難しくなるでしょう。海岸では最大30m、10階建てビルにも相当する津波に襲われます。東日本大震災並みの津波となるでしょう。

 事前にでも分かれば九州地方や沖縄の人たちは避難区域になり、住んでいる人たち1500万人は本州への移動を余儀なくされるかもしれません。それに山陰や四国の400万人だって安全とは言えないでしょう。非難は間に合うのでしょうか。しかし、それだけの人口をどう移動させ、移動先での衣食住をどうやって確保できるのほぼ不可能となりますほぼ不可能となります。この噴火の影響により、西日本の人たちの生活基盤が徹底的に破壊され、全ての産業が被害を受けてしまうだろうと思われます。

古代人のこころと自然観 その7 縄文の大災害1

 縄文時代の日本の地形や気候、人口、さらに、核DNAからの祖先を見てきました。
 文化庁で指定されている遺跡数からみると、縄文時代以前の旧石器時代は7565箇所、縄文遺跡で90531箇所、弥生遺跡34825箇所、古墳遺跡42232箇所となっていて、人口が少ない割りには縄文時代が圧倒的に多いことになります。

 さて、縄文時代で最大26万人もの人が住んでいたとされます。また、人口密度での資料があります。10km×10km四方での人口密度を計算したものです。やはり、東日本が優位となっています。


人口分布地図

 さて、今回は自然災害が多い日本ということで、1万年以上も続く縄文時代にも地震や台風、はたまた、火山噴火での災害があったと思われます。地質学的に分かっているものでは火山噴火です。1万5千年前には十和田カルデラ噴火、7600年前には摩周カルデラ噴火、5300年前には鬼界カルデラ噴火がありました。カルデラとは円形や多角形の陥没のことで、火山が大規模な噴火を起こすときに凹型にしてしまいます。十和田カルデラは直径8.6km、摩周カルデラは長径が6.5kmです。今は湖になっています。

 さて、鬼界カルデラですが、九州南の50km海中にあります。九州と言えば阿蘇カルデラが世界規模の大きさをもち、東西18km、南北25kmというものです。ちなみに最後の噴火は9万年前です。しかし、この鬼界カルデラ噴火も規模的には阿蘇カルデラ並みで、東西21km、南北18kmで、海底には多数の海底火山があり、カルデラの外輪山として竹島、硫黄島が海面上にあります。 

 火砕流は時速100km/時にもなり、海を超えて九州南の半島まで達しました。また、噴煙は高さ3万メートルに達しました。さらに、津波は最大30mで、和歌山県海岸で4mに達したり、噴火で吹き出した火山灰(鬼界アカホヤ火山灰)が九州では5、60センチで、東北にまで達しているという空前の火山噴火となります。1991年に火砕流で43人の死者を出した雲仙普賢岳の千倍規模とされています。

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古代人のこころと自然観 その4 縄文の人口分布

 縄文時代の人口分布をみると、東日本優位です。ピーク時では、東と西の人口差は圧倒的です。
 当時の人口は、時期毎の遺跡の数や小集団等の人数からシュミレートされたそうです。縄文早期は人口が2万人、前期11万人、中期26万人、後期16万人、晩期8万人という結果がでています。

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  東日本のやや寒い落葉広葉樹林地帯に人口が集中しているようです。これは、落葉広葉樹にはクリやトチノキ、クルミなどの保存できる実が得られることや、海や川でも捕れるサケを食料にしていたからだろうと考えられています。しかし、縄文晩期ではだんだんと暖かくなる中で、西日本の照葉樹林帯も東へと進み、食料が少なくなって人口が減っていったのではないだろうかと言われています。

 そして、弥生時代に入ってくると九州から稲作が始まって広がることになります。それから、縄文晩期・弥生早期に人口が減った関東地方、近畿地方も人口が増えて、西日本優勢の59万人という様相がみられてきていたようです。


 また、縄文時代にもどるのですが、縄文早期や晩期を除くと、関東地方と周辺の人口密度が高いということになりますし、「邪馬台国はどこか?」で有名な弥生時代にも、近畿地方と共に関東周辺が人口密度が高いということになります。古代史では、九州や近畿地方が注目されますが、関東地方にも縄文時代から何らかの有力な部族のようなものがあったのではと研究している1つの要因となっています。ちなみに千葉県には香取神宮、茨城県には鹿島神宮がありますが、ここのご祭神は、日本書紀での国譲りにもでてくる経津主(ふつぬし)や武甕槌・建御雷(たけみかづち)の神ですが、出雲の大国主命に武勇をしめして国譲りをさせた主役とされています。一般的には、日本の東国を勢力圏内にするための拠点として武神を祀ったとされています。しかし、他方、関東地方の勢力が天孫系であるアマテラスに協力して、国譲りが成功したと考えると、古くから有力な勢力があったことを物語っていると思われます。今は神宮と呼ばれる社は20以上ありますが、平安時代では関東のこの2社と伊勢神宮しかありませんでしたので、関東の位置づけはかなり重要だったと思われます。

古代人のこころと自然 はじめに

 コロナ禍で、日本の歴史に関する本も読むようになりました。学校で習ったものとは異なった点が数多くあります。特に明治維新やその後の戦争史については、明治維新の美化された理想像、自虐的な歴史観という検定教科書からの影響もあり、実に異なった事柄にふれることができます。それも日本の歴史学者というよりも、他分野の政治学者などが戦後GHQが押収した記録や米国側の開示された機密文書、焚書されたものをもとに再分析が行われてきているからです。
 さらに、TVの水戸黄門にあるような勧善懲悪での悪代官や悪奉行が農民や町民を苦しめるようなことも実に虚構満載であることも再確認しつつあります。

 過去から日本はどのような国であり、人々は何を思って暮らしていたのかを探り、未来をも考えるのが歴史かと思います。
 ところが、各国の歴史はその国自体で解釈されるはずなのに、なぜか隣国が干渉してきて、それを日本の学会や文部科学省が追随するのかも不思議なことです。隣国における「反日」はまさにナチスが行った民族主義的な国策と同様です。自国の民をまとめるために、ある民族を憎悪の対象とするからです。日本の政治家も弱腰で謝罪ばかりだったような気がしますし、建国当初の北朝鮮を理想の国だともてはやし、移住を薦めたマスコミや野党もありましたし、拉致事件を否定した野党もいました。さらにかの隣国は、民主化を叫ぶ国民に対して銃口を向け、戦車もだして弾圧した天安門事件があり、世界から非難があったにも関わらずに天皇を訪問させた与党もありました。何がどうなっているのか、というのが日本政治です。
 とは言え、コロナ禍でも憂鬱なのに、さらに憂鬱になるのが日本の現代史、政治でもありますので、ここでの視野は古代史にしています。

  以前に写真の関係でアニミズムについて少々触れてみましたが、こんシリーズでもう少し深めたいと思います。

 歴史的には「古代人」という言い方は、国家が出来上がり、国の組織や認識がある時代の人のことを指すようです。従って、日本では飛鳥や古墳時代からとなります。さらにそれが平安時代終わりまで続き、平安時代の人も古代人ということになります。当時の中国に国書をおくって対等の国と決意した飛鳥時代、天皇を中心とする国家観を描いた日本書紀前後の時代となります。また、この頃には、漢字が入り平仮名なども成立し、最古の小説と言われる源氏物語がかかれたり、最古の木造建築の法隆寺等が登場した時代ですので、古代とはいえないほどの技術・文化が発達した時代です。

 さて、「古代人のこころと自然」と題したのですが、思いは遥かの縄文や弥生にあります。縄文時代となれば西欧史では新石器時代となりますし、弥生時代もここに含まれます。石器とは言っても磨製石器と言って、刃先を鋭利にするため、あるいは全体を、石同士で磨いた加工が施されている物で、旧石器時代の打製石器とは区別されます。また、土器なども発達しますが、特に縄文時代は、西欧で言うところの新石器時代とは異なり牧畜や農耕への移行がなされないで定住生活を始めているので、特殊な形態だとされています(このようなことで縄文文化が世界遺産に登録されているとのこと)。最近の仮説では、クリ以外にもイモやマメ、ヒエ類が栽培されていた痕跡があるとされ、コメやコムギと2う2大穀物だけが農耕ではないという説もあります。

 こうした新石器時代である縄文や弥生には文字がありませんので、こころや自然観については十分知り得るものはなく、遺跡や墓制(死者の埋葬方法)、埋葬品などから探るしかないようです。また、中国史にある倭人伝などの一部の資料や後世の古事記、日本書紀、万葉集などで推し量るような手法がとられているようです。
  いにしえの日本人が何を思い暮らしていたのか。写真とは関係がないような内容ですが、自然風景を撮影することにおいては少なからずとも何らかのヒントがあるのではないかと思うのです。
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