
<精霊>
西洋では「spirit」や「elemental」という言葉で表されています。漢語では精霊は、精怪とも同意で、妖怪、妖精、死者の霊、鬼神という意味があります。以下はウィキペデアからの抜粋です。

これらは誰が編集したものかはわかりませんが、様々なものに精霊が宿っていると考えた古代のことが分かります。ちなみに古代の日本語=やまとことばでは、言葉の1つ1つの音に意味があるのではということで、太平洋戦争以前は1つの学問として研究されてきていましたので、こうした系統からの仮説と思われます。

<霊魂>

古代エジプトでは、人が死ぬと肉体から離れるが、再び肉体に戻ってくるという考えがありました。また、古代インドでは、霊魂は何度もこの世に生まれ変わる輪廻転生という考え方がありました。さらに、人間だけでなく、全ての命あるものや無生物にも霊魂が宿ると考えられているのが一般的でした。
霊魂と言う言葉は、霊と魂の2語で成り立っていますが、「霊」というのは、たくえつした心や命、神的なもの、神秘的な力をもつもの、などの意味があるようです。「魂」の方は、精神をつかさどるもので、肉体をつかさどる「魄」と対比されていて、人の死には「魂」は天に帰り、「魄」は死体が埋葬されるのにともなって地に帰ると考えられていました(中国の道教の考え)。
<精霊と霊魂>

病や死、災害等への不可避な悲しい運命をどのように受け入れたり、乗り越えるのかという課題を、幾世代にもわたり、それこそ数千年単位で考えてきた解答の1つが、精霊や霊魂の存在であると思います。しかも、自然との一体感をもちその恩恵を充分に理解した上でのことですので、自ずと草木や動物、あるいは岩や山などの無生物にもその存在を認めたのでしょう。ここで「認める」と書きましたが、共感をもって感じ取っていたと思われます。
一般的に「信仰」というのは、科学的な裏付けあるものではありません。神や霊魂の存在も科学的な証明ができていません。しかし、大きな苦しみや迷いを乗り越える実践と論理的な思考などの中で信仰が生まれたと思うのです。ユダヤ教やキリスト教などの一神教では、科学的な裏付けがないことから、教義という論理を育んでいき、科学的論理的ではない神秘的な出来事を信じるという「意志」「信念」をもとにした宗教であるかもしれません。
そうなると、霊魂や精霊は一神教では異端になるようです。一神教にはどうも排他的な面があります。しかし、砂漠などの過酷な環境の下で生まれたような一神教とは異なり、豊かな自然や動植物に囲まれた日本では、いわば多神教的で、いたるところに霊魂や精霊が身近にあり、それらを感じるような繊細な感性もあったために、後世に至っても「感じる宗教観」のまま、無宗教とか無神論者のような日本の宗教風土を醸成してきたのではないでしょうか。西洋ではアニミズムや多神教は「遅れた宗教」とされているものを、少し考えて、感じてみるのも「(古代日本人の)心の原風景」を呼び起こすことになるかもしれません。