久々の夕景撮影に。この場所はすでにクリシェですが。夕陽の光芒も見えて、雲の動きや強い光が射す場所だったことを思い出しました。
この丘には2本のポプラが立っていますが、生憎にもその中間に撮影者の車と人がげがあって、それを避けるように撮影することになりました。
夕陽のやや赤味がかった強い光が特徴です。アングルによってはレンズフレアーが発生し、日除け傘の出番となります。遥か遠くの大雪山連峰での日の出とは、違った光を地上にもたらします。もっとハイキーにすると「サンセット・ドリーム」というタイトルにできそうです。
さて、今回はテーマとうに関わって、「解釈」についてのメモです。
デジタルカメラになって、光景は膨大な信号の集まりとなりました。光の量や色などの情報が規則正しく並べられ、RAWデータとして保存されます。
データの基本は「0と1」ですから、フィルムのように画像として肉眼では見ることはできませんので、メーカー専用のカメラ内蔵のソフトウェアで変換して画像にしてから見るということになります。更に、カメラメーカー毎に、RAW形式も異なるのでカメラ内蔵のソフトも異なります。互換性はないということです。
こうしたことを思うと、RAWデータはまるで公開された暗号のように捉えることができます。デジタルデータを画像にするのは、暗号の解読(復号)ということです。ところが本当の暗号と異なるのは、RAWデータ現像というのは、露出や色相、シャープネスなどの多くの観点から、変更ができという柔軟性を持っていることです。
<RAWデータの柔軟性>
こうした現像での柔軟性は、現像者=表現者にとっては実に好都合です。記憶に従って見たようにも現像出来ますし、撮影時の印象を強めたりすることも出来ます。それこそ露出を変え色彩をなくすモノクロにさえ出来ます。写真となる様々な要素はデジタル(数)ですから、それを容易に変えることができるからです。
こうしたことがRAWデータの現像と言うのです。しかし、最近は「現実の光景を解釈」、あるいはそれを具体化することではないかと思っています。
<被写体の解釈>
撮影するものをどう捉え、どう写したのか。撮影者の意図や狙いがあって撮影したものですから、眼前にあった光景は意味あるものとして撮影者には位置付けられます。ここには全くの客観性はなく、あくまでも主観となります。
ここには必ずや撮影者の何らかの「光景=被写体への解釈」があります。だから撮影するわけですので。
そして、その解釈というのは、概略的には、主観的な趣向や好印象のもの、撮影の意図や意義(テーマとかコンセプト)、さらには、自然観や歴史観(郷土史理解や写真史も含め)、美的感覚などが、おそらく混在して、または集約されていると考えられるのです。
もしも、これが無意識にあるいは自動化されるまでに熟達していれば、これはプロ的な仕業ですし、プロならこうしたことへの解釈の説明を容易にするのかもしれません。熟達して無意識化や自動化されるまでに至ったり、あるいは本当に無意識的なものが撮影させてるならば、それは一応「感性」と言う短い語句に集約されてくるのだと思います。熟達してなるならば、それを説明し得るでしょう。本当に無意識だと、自己分析ができないので説明は難しいと言うことになるでしょう。
<現実とイメージ、そして、現像>
デジタル化によって、ほとんど全てのデータを変えることが可能です。モノクロ表現を考えると色彩でさえ変えても良いということになります。問題は、現実的なのか、非現実的なのか、印象的なのか、心象的なのか、というようなことでしょうか。
しかし、撮影時は眼前の、あるいはファインダー越しに現実と対峙していますから、現実がどのように見えて、何をイメージさせるかを瞬時に捉えてシャッターを切っています。
もしかして、現実を見る先に、イメージで見ているのかもしれません。できれば、こうしたイメージがたくさんあって、カメラを構える撮影モードに入ると、ある現実を見た時にイメージが喚起されてシャッターを切るという行為になるのかもしれません。これがテーマやコンセプトにかかわることです。単に写真が好きということだけではない以上のものを突き詰めようともしているからです。
「何を写して、どんな写真にするのか」を問うているのです。
私の今の場合はどうなのか。少なくてもクリシェは避けようと、有名な撮影スポットは極力避けているのが今の行動です。光の加減や色彩(ゴールデンアワー、光芒や影)、自然現象では主に霧を追っています。従って、小高い丘の上が中心です。さらに、ゴールデンアワーと霧の組み合わせとは言っても、2度と同じものはないと言えるので、その中でも、自分のストックにない光や色彩もの、やや異なった後景、中景、近景と言うことになります。
キツネ等も追うことがありますが、やはり風景の中、自然に存在する動物として、風景が半分から3分の1程度はいった中での様子をとりたいですが、その表情やしぐさの面白さもあってか、接近したときはそれを撮影することになります。
この丘には2本のポプラが立っていますが、生憎にもその中間に撮影者の車と人がげがあって、それを避けるように撮影することになりました。
夕陽のやや赤味がかった強い光が特徴です。アングルによってはレンズフレアーが発生し、日除け傘の出番となります。遥か遠くの大雪山連峰での日の出とは、違った光を地上にもたらします。もっとハイキーにすると「サンセット・ドリーム」というタイトルにできそうです。
さて、今回はテーマとうに関わって、「解釈」についてのメモです。
デジタルカメラになって、光景は膨大な信号の集まりとなりました。光の量や色などの情報が規則正しく並べられ、RAWデータとして保存されます。
データの基本は「0と1」ですから、フィルムのように画像として肉眼では見ることはできませんので、メーカー専用のカメラ内蔵のソフトウェアで変換して画像にしてから見るということになります。更に、カメラメーカー毎に、RAW形式も異なるのでカメラ内蔵のソフトも異なります。互換性はないということです。
こうしたことを思うと、RAWデータはまるで公開された暗号のように捉えることができます。デジタルデータを画像にするのは、暗号の解読(復号)ということです。ところが本当の暗号と異なるのは、RAWデータ現像というのは、露出や色相、シャープネスなどの多くの観点から、変更ができという柔軟性を持っていることです。
<RAWデータの柔軟性>
こうした現像での柔軟性は、現像者=表現者にとっては実に好都合です。記憶に従って見たようにも現像出来ますし、撮影時の印象を強めたりすることも出来ます。それこそ露出を変え色彩をなくすモノクロにさえ出来ます。写真となる様々な要素はデジタル(数)ですから、それを容易に変えることができるからです。
こうしたことがRAWデータの現像と言うのです。しかし、最近は「現実の光景を解釈」、あるいはそれを具体化することではないかと思っています。
<被写体の解釈>
撮影するものをどう捉え、どう写したのか。撮影者の意図や狙いがあって撮影したものですから、眼前にあった光景は意味あるものとして撮影者には位置付けられます。ここには全くの客観性はなく、あくまでも主観となります。
ここには必ずや撮影者の何らかの「光景=被写体への解釈」があります。だから撮影するわけですので。
そして、その解釈というのは、概略的には、主観的な趣向や好印象のもの、撮影の意図や意義(テーマとかコンセプト)、さらには、自然観や歴史観(郷土史理解や写真史も含め)、美的感覚などが、おそらく混在して、または集約されていると考えられるのです。
もしも、これが無意識にあるいは自動化されるまでに熟達していれば、これはプロ的な仕業ですし、プロならこうしたことへの解釈の説明を容易にするのかもしれません。熟達して無意識化や自動化されるまでに至ったり、あるいは本当に無意識的なものが撮影させてるならば、それは一応「感性」と言う短い語句に集約されてくるのだと思います。熟達してなるならば、それを説明し得るでしょう。本当に無意識だと、自己分析ができないので説明は難しいと言うことになるでしょう。
<現実とイメージ、そして、現像>
デジタル化によって、ほとんど全てのデータを変えることが可能です。モノクロ表現を考えると色彩でさえ変えても良いということになります。問題は、現実的なのか、非現実的なのか、印象的なのか、心象的なのか、というようなことでしょうか。
しかし、撮影時は眼前の、あるいはファインダー越しに現実と対峙していますから、現実がどのように見えて、何をイメージさせるかを瞬時に捉えてシャッターを切っています。
もしかして、現実を見る先に、イメージで見ているのかもしれません。できれば、こうしたイメージがたくさんあって、カメラを構える撮影モードに入ると、ある現実を見た時にイメージが喚起されてシャッターを切るという行為になるのかもしれません。これがテーマやコンセプトにかかわることです。単に写真が好きということだけではない以上のものを突き詰めようともしているからです。
「何を写して、どんな写真にするのか」を問うているのです。
私の今の場合はどうなのか。少なくてもクリシェは避けようと、有名な撮影スポットは極力避けているのが今の行動です。光の加減や色彩(ゴールデンアワー、光芒や影)、自然現象では主に霧を追っています。従って、小高い丘の上が中心です。さらに、ゴールデンアワーと霧の組み合わせとは言っても、2度と同じものはないと言えるので、その中でも、自分のストックにない光や色彩もの、やや異なった後景、中景、近景と言うことになります。
キツネ等も追うことがありますが、やはり風景の中、自然に存在する動物として、風景が半分から3分の1程度はいった中での様子をとりたいですが、その表情やしぐさの面白さもあってか、接近したときはそれを撮影することになります。