PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

客観

写真についての個人的なメモです!

写真を読み解く3 主観と客観

 もう終わったかと思いましたが、「写真の評価」に関する論文がありましたので、まとめと評価の観点のみでも紹介したいと思います。

 前回までは、「読み解き」と言うことで、写真に何が写っているのかをまずよく見ることと、次に「なぜ」を自問し、それに自ら答えると言う「自答」する「自問自答」が解釈であることを仮定しました。あくまでも、自分の写真として読み解き、次の撮影に生かすような立場です。

 以下の内容は、2005年の日本写真学会誌に載った論文で、写真評価を観点別の数値評価と自由記入した文章から「評価観点」を抽出したそうです。(「写真作品の表現と評価」 矢 田 博 彦  Hirohiko YATA) 詳しくは https://www.jstage.jst.go.jp/article/photogrst1964/68/6/68_6_434/_pdf です。


 この論文からは、写真をめぐる評価の観点としては10数種類あって、主観的な要因が大きいものと、客観的な要因が大きいものに分けられるとしていること。私からも判断すると、主観的な写真の評価がかなりの比重を占めていることがわかります。その中でも私が客観的とした「画質」については、主観的な心理的要因であるとしているのが、私の修正点であることを考え直さなくてはならない点となりました(これは後に分析します)。また、「写真作品を見るとき、表現意図が写真の中に盛り込まれているかが最も重要である」こと。さらに「表現意図が享受者に理解されやすい」こと。「作品をより深く鑑賞するためには、写真についての鑑賞力や理解力が必要である」ことなどが結論づけられていました。

 自由記載から分けられた12の観点

 多いものから順に、「表現について」が最も多く、「画像の諧調性」と「画像の鮮鋭性(シャープ性)」「画像の粒状性」、「画像の画質」が次に来るそうです。 その他は「画面の構図」、「総合的な評 価 」、「 撮影の技術について」、「現像やプリントなどの処理技術について」。さらに 「好み」、「 興味」、「その他」となるとのことです。

 主観と客観 こうした分析からでもこの2つがあると分かった

「総合、表現、画質、撮影技術、好み」の5項目の評価は評価者の「主観」が大きく関係する「心理的因子」群であり、,「鮮鋭性、階調性、粒状性、処理技術」の4項目の評価は写真を「客観視」して評価する「心理物理的」評価群であるとしています。


 「画質の心理的因子(主観性)」については、客観としていましたが、どうも主観であるようです。
 そのあたりを理解するには…?。質の良さと漠然に言っても、工業製品であれば、仕上げの滑らかさが重要でもありますが、手にして持つものとすれば、その滑らかさは肌触りがよくていいようですが、保持力にはよくないと言うことが言えそうです。ツルツルの表面よりも、光沢がないマット仕上げの方がいいと言うこともあります。モノクロ画質の粒状性についても、客観的に粒子の大きさがわかりますが、どの程度が好みなのかは人それぞれでもあるし、作品の内容も関係するかもしれません。カラー写真だと、「荒れ」ていると判断するかもしれません。要は客観的に見えるものも、心理的主観的にはどう受け止めるかと言う点、「画質」と言うものが主観的な写真の良さを決める比重が大きいかもしれないと言うことです。いわば、工業製品よりも手作り品の不完全さや誤差、歪みなどが「味がある。趣向がある」として受け入れられるのと似ているようです。


 「表現」としてどんな内容が記載されていたかは不明ですが、知りたいところです。 

写真を読み解く2 主観と客観

 「読み解く」の「読む」を前回やりました。今回は「解く」です。解釈するという意味ですが、解釈の仕方にセオリーがあるのでしょうか。

 もう一度、振り返ると下の写真です。スクリーンショット 2021-03-16 17.40.19
 
 この写真を見てどんなものが写っているのかを見ました。
 セオリーとかハウツーはないようですが、「解く」というのですから「なぜ」が必要です。それは見た人が考え、答える(解く、解釈する、仮のでも構わない)のです。従って、人それぞれで主観的要素が出てきます。

 ここでは、具体的な解釈はなしにしますが、疑問だけを上げて見たいと思います。この疑問を持つことが大事だからです。

① まず、パッと出るのは、カラー時代なのになぜモノクロなのか? 
② <フレーミングで>左に草があるが、それを入れる必要があるのか、ないのか?
③ 同様に、右の山を稜線があがっていくところで切ったが、意味はあるのか?
④ 同様に、山と空を入れる必要はあるのか? 写真はマイナスなので、ない方が雪原も広くなり農家の方の散布する広さを感じることができるのではないか? また、農作業をもっと主体にするならば、噴煙もなしにして建物と農作業、雪面という構成でもいいのでは?
⑤ ③に関わって。そうすると暗い部分が多くなり、重い写真になるようなので、どうそれを補うのか? しかも、細かい模様が目立つようにもなるので、どうすればいいのか。
⑥ 少し傾いた三角形だが、ドカンとした大きな建築物に、動く煙と人の対比として捉えれば、傾いていてもいいのではないだろうか?
⑦ いよいよ、主題は何か?  
⑧ 主題はこれと考えたら。それなら、それが適切に表れるようなフレーミングはどのようなものか?
 モノクロでいいのか? カラーとしたらどうすれば良かったのか?
⑨ 撮影者の立場では、どうやると散布の場所が分かるのか?
 やはり望遠で、何mm を使っているのか? カメラ設定は?
 
などなど。 これ以外にもあるかと思いますが、結局は自問自答と言うのが解釈となります。

 第一印象よりも写っているものを、じっくり隅々まで見ること。
 そして、ここが大事ですが、自問自答なので、「自分が撮るならば、あるいは現像するならどうするか」という視点を持つことで、いわば「自分の写真」として見て解釈することが大事となります。

 結局、人の写真も自分のものとして見ていくときに、自分の写真が変わるであろう種子を育てることだと思うのです。

 「読み解く」とは言っても写真評論家になる(なれそうにもありませんが)のではなく、自分の写真向上や幅を広げるためにやるべきです。

 もし、いい被写体・モチーフの写真データがあれば、再現像してみてもいいかもしれません。私ならこうトリミングしこう現像してみるというのもありだと思うのです。

<内輪話 : 暗い・重いのは農家の人の「思い」「仕事・苦労」が積み重なっていくこと。しかし、休憩には山や空を見るだろうし、山の雲、空の雲で地元でしか分からない天気の読みもするかもしれない。プロならば2枚分の写真の主役があると言うかもしれません。あえて余分な噴煙や空を入れたのも、大地と常にむか合う農家の人々を背景とともに入れたかったのです。>

写真を読み解く1  主観と客観

 コロナ禍も異常な状況とは言え、過去の欧米並みなのかはどうなのでしょうか。北海道も「マン防」から「緊急事態宣言」へと移行しています。
 撮影の方も少し自粛ですね。

 以前はある作家の言葉から、「主観と客観」についてその方の考えを探ってみました。このシリーズでは、写真の「読み解き」「解釈」について書いたことがありますが、これも主観と客観という言葉で概要をとらえられるかと思い記載してみます。

 普通は写真を見慣れていても、写真家や写真を趣味とする人の写真についての見方はあまり分からないようです。
 妻は「ああ綺麗!」「こんなところあるの?」「こんな風に見えるの?」と印象を語るだけです。写真の構図などを説明して、こうした瞬間や動きながらこうした構図になるようにして撮っているとか話すと、少々驚くのです。私もまたそうでした。しかし、写真をやって作家の作品に触れる毎にどうして違うのかなどの疑問から、勉強し始めたというところです。

 さて、妻にもわかるようにと「写真の読み解き」方が説明できればいいかなという感じで書きます。


 写真の読み解き方 その1

<客観的情報を読む>

 先の「見た印象」はかなり重要だと思いますが、写真をよ~く観る場合は、そうした印象を横に置いておいて、写っているものを客観的に見ることから始めます。写真は平面的な視覚情報しかありませんので、そこに何が写っているのか、どんなものがあるのかを見ます。これは誰にでも捉えることができです。つまり、客観的情報を読み取ることができます。しかし、これも十人一応に同じとは限りません。経験や知識によります。それらの広さや深さによって捉える量や質がことなるかもしれませんし、それに鑑賞者の経験上で得た感情や感覚が合わされば独自なものさえ加わってくるものです。これは、視覚情報とは言え、人の脳内では様々なものとつながっているからです。まず、何が写っているのかさえ、共通項はありながらも広さや深さ、そのものへの感覚が異なるものもあるということです。
 
 さらには、写真内の物の位置や方向性などから、構図を読み取るとなると少し難しくなります。学ぶ機会がほとんどないからで当然です。しかし、そこには写真としての安定感や写っているもののバランスや、なぜ数ある撮影位置やアングル等の中でそれを選んで写したのかという構図的なもの、あるいはピントやボケがどうなっているかなどの撮影技術的なものを読み取ることができます。
 写真をやっていれば、使用したレンズが広角系かだとか、望遠系かも想像はできます。逆光なのに手前のものが明るければ、フラッシュライトを使ったか、現像で明るくしたかがわかります。

 カメラは現実をある程度忠実に写すものなので、共通項的な客観的な情報はそこから読み取ることができます。

 ・第一印象は抑えて… まず、何が写っているのかを見ます。
 ① 物の形や色彩、明暗。
  また、目立つもの、目立たないもの、前景・中景・遠景にあるものなど。
 ② 目立つものや写っているものが1つで背景がある場合は、背景も詳しくみます。2つ以上ととなる場合は、その大小や広さの違いを広いのかを見ます。
 ③ 撮影時刻や季節、天候を見る(あくまでも予想で)
 ④ 画質や諧調性を見る。
   
 ⑤ (構図的な見方として)
  目立つ物、あるいはメインな物でもサブな物ででも、それらがどう位置付けられているか。三角形や三角形の組み合わせになるかどうか。線や帯などの直線的な物や曲線的なものがあれば、その延長線上にあるもの物も見ます。1つの物をドンと撮っていても、まさに真ん中なのか、少しずらしているのかも見ます。これは、構図的な要素は複雑なものもあるようですが、それらが考慮されて撮られているかを見ます。
 ⑥ (写真の技術的、表現的なものとして)
   逆光・斜光・順光のどれか。広々とした広角系レンズかそれ以外か。シャッター時間を長くした長秒露光かどうか(ブレているようで一部はピントが合っている。雨が線になっている、雲が流れているのが分かる、など)。写真全体が暗いのか(ローキー)、極めて明るい色彩なのか(ハイキー)、モノクロかどうか。

 ①と② 特徴ある形や鮮やかな色彩、明るいものがあると目を引きます。1つの物を写した写真であればそれに目が行きます。2分割的な物だと鮮やかな色彩や明るい方か広い方に目がいきます。③は風景写真なので書きました。

 ③朝日か夕陽かは難しいですが、時刻は影があれば南天か午前・午後かは想像しますが、夜はわかります。季節的にはある程度分かるものもあれば、春と夏、夏と秋の境目は区別つきませんが、おおよそは分かると思います。①から③までを見れば、何が写っていて、何を中心に撮ろうとしたか分かることになります。

 ④ 画質とはピント具合や滑らかさ、粒状性(モノクロ等では新聞の写真のように粒が見える)などがどうか。諧調性と言うのは、グラデーションが滑らかどうかと言うことです。色補正を行い過ぎると崩れる場合があるのです。

 ⑤の「構図的な見方」は難しいですが、要は写っているものの全体的な安定感やバランスがいいかどうかということです。自然風景だと、日章旗のようにど真ん中もありますが、ややずらしているものもあります。よく3分割がいいと言います。水平線や地平線をどこに持っていくかということで、面積の多い方が主役、少ない方が脇役とも考えられます。これも、2分割や4分割のようにずらすのもあります。農作業やキツネが入ってきても3分割での交点においたりします。そうなるとバランスが悪いのなら、それなりの理由があるのかもしれません。

 ⑥の「技術的なもの」は写真をやる方でないと難しいかもしれませんが、写真をやっていればそうした読み方もできるということです。

例題:下のモノクロ写真で何が写っているか見てください。
030A0534-Edit

  大まかに見ると、暗い部分が丘で、あとは山と空です。目に付くのは、まず建物。それとその左にある人影2人と何かです。よく見ると乗り物で、何か作業をしているのがわかります。乗り物をよく見ると前輪がありませんし、後ろはキャタピラーです。乗り物は1台で、作業は協力してやっていることになります。人の上には煙のようなものがありますが、雲や霧でしょうか。山からは煙、噴煙があがっています。

 そこでもっと詳しく見ます。暗い大地は何か異様かもしれませんし、山も何か違います。山をよく見ると明るい部分が多いこと。そして、大地の表面からは細かな線状の起伏がたくさんあり、3条の光の曲線が横に走っています(反射)。それらを考えると「雪」の冬です。
 時刻となると、暗い大地と明るい山から見ます。山よりも暗い大地ですから、まだ光が十分にきていない状態です。また、よく見ると山の影が見えます。大地の暗さと影の角度からすると、朝方と言えます。
構図のようそしては、3分割で大地の方が多く占めています。主要なものは、建物、人、煙で三角関係です。もう少し右の方に移動すれば、二等辺三角形になったかもしれません。大地は左に傾いていますが、山は大体右にかたむています。大地の傾いている方には草や煙、3条の光がありますが、建物の下には少しスペースがあります。こうして見るとややバランスはあるでしょうか。フレーミングとしては、左は「草」、右は影のラインの上の稜線が上がるところ。上は空、下は3条の光の下となります。表現的にはモノクロ写真です。暗い部分は強調したかもしれません。
 ここまでが客観的に見えるものとそれから分かることです。見た物をまとめると、「晩冬の丘で、早朝に融雪剤を散布する光景の1つ」となります。

 融雪剤とかスノーモービルとなると、少々北国の畑作に詳しいということになります。

スクリーンショット 2021-03-16 17.40.19
                  <続きは次回にします>

主観と客観 再来

 ある写真家の「主観と客観」の捉え方を考えてきたシリーズの続きとなります。新しい情報が入ったことから、ようやく分かりかけてきました。「鏡と窓」も、彼の獲得した写真スタイルの1つの説明であることもわかりました。

 彼のスタイル

その一つの方法論が、毎朝日の出前に起き、撮って撮って撮りまくることだったのです。つまり、身体性を伴うことで「無」の境地で自然を捉えることができるんじゃないかと考えたわけです。そして写真には「カメラ」もしくはそれに類する何かが必要です。つまりそこで一旦客観視される。無意識の領域で捉えた世界がそこで「客観」として立ち上がってくるのです。
アミニズムの精神が根底に流れていて、カメラを使う際にもアミニズム的な気持ちが宿る。身体性を伴い、時にはシャーマニズム的なニュアンスを漂わせながら、生々しく描くのが日本人写真家の個性なのですよ、と。

 そして、文章にすると分かりにくいかもしれないことと、まだ、情報が入ってくる可能性もあって、簡単な図で表してみました。

撮影スタイル

 ・「写真を撮る」という意識よりも、「無意識的な領域」で自然の気配(アニミズム的な感覚、感性)で、カメラで撮り、客観としての画像が保存される。撮影は主観で無意識的だが、そこに客観性が立ち上がるということです。その道具というカメラでさえ、アニミズム的な精神性が宿るとさえ言っていますので、客観的な自然風景というよりも、アニミズム的な日本人の自然観もあるだろうということです。だからこそ「気配」が感じ取れるということです。
 ・そして、写真はそうした無意識的な主観で客観的に表出されたものであり、また、写真家にとっての表現方法である以上、その表現性を常に高め、広げるということでは表現性の具現の1つでもある。
 ・鑑賞者にとっては、そうした写真作品は1つの客観的存在ではあるが、それぞれの主観や客観的見方で解釈される。そこでは写真の忠実性よりも距離間を置くという表現がより広い解釈をあたえる。

 このようなことが言えるのではないかと思います。

主観と客観 その3

 その3になりました。前回は「気配や無意識」から考えてみました。主観は見つけられるけれど、客観は見つかりませんでした。いよいよ最後にしたいところです。前掲した⑤から始めます。

 ⑤ 主観的な写真であるが、出来上がった作品はできるだけ客観的であってほしい。そうすることで、描かれているモチーフの場所的価値や意味から出来るだけ離れていくことができるのではないか。
 ⑥ 現実の風景を忠実に再現して正確に描くのではなく、いかに現実から離れていくか。そうすることで、撮影者と鑑賞者の思いにいい意味での距離ができて、解釈の幅が広がるように思います。

 彼の表現という時には、常に鑑賞者を意識しているようです。

 鑑賞者にも表現したことが受け入れられるということでの「客観」でしょうか。その後の言葉を考えると、そうでもなさそうです。モチーフ云々は撮影者の観点で書かれているので、表現の主体者は撮影者ですが、表現者の主観で意図ある写真を撮り、表現性を込めて作品を作ったのにもかかわらず、その意図、価値、意味からも離れていいとなります。いいというよりも離れることが表現であるとも受け止めれます。自己の主観から離れ、自由な解釈ができるような作品というのが客観的であるということになりそうです。

 表現という場合には、表現する主体者の主観による価値や意味の発見があって、それを鑑賞者に伝え、共感し、解釈してもらいたいうという意図があります。更に、表現されることでは必ず鑑賞者がいるので、うまく伝わるかどうかも自己診断することもあるかもしれません。あるいは、どんなものを求めているのか考える場合もあるかと思います。組写真の場合は、被写体も異なる写真を組み合わせて伝えたい事を表現するので、主観的な写真でありながら、組み合わせには相当の試行錯誤が必要ですし、その際には自己の写真を客観的に捉えていく力が必要とされているようです。
 
 第三者にも解釈できるようにするのが表現なのでしょうか。そうなると、表現における強調などの現像過程は、あくまでも鑑賞者に意識をおくという主観による客観的な現象過程ということになりそうです。自分の主観だけではない、自分の意識にある他者の目、第三者の目で表現していくということでしょうか。

 これは理解が難しいです。例えば、単純的には鑑賞者の好みに合わせたり、鑑賞者の解釈を助けたり、促すようなことでの客観化を図るということでしょうか。

 ⑥は、現実からの距離というのを表現と理解しましたが、表現というのは解釈の幅を広げるのが目的としているようです。この幅というのも、よく読むと、撮影者と鑑賞者の解釈の仕方の違いによる幅とも考えられます。そうなると、⑤でいうところの、「場所的価値や意味から離れて」いくことも可能かもしれません。そうなると、表現というのは、作者の印象や鑑賞者に感じてほしいという思いを具体化するという意味もありますが、それよりも撮影者とは異なった解釈を産むものでもあるということができます。つまり、「作品は自分の子供のようだ」という言い方がありますが、似てはいるが、独立した人間として成長していくようなもので、作品というものが作家から生み出されれば、鑑賞者の解釈で独自に歩き初めていくということが想定されているのでしょうか。
 
 文脈から離れて「場所的価値や意味から離れる」のみを、彼の作品から考えてみると次のことも言えそうです。彼は「光と造形」を求めています。光がなければ造形さえ見れませんが、光の妙というか、彩雲で言えば光と雲の関係で光の多様性をあらわにするような現象であれば、場所ではなくなります。また、曇天で雪原だと思われる中に一筋の光が入る写真や雪原や河原の曲線を光の明暗だけで描かれた写真があります。これも造形の美と捉えられますが、光を主役にすれば光の多様性の一つと考えられないこともなく、例の価値から離れることのなりはしないかと思われます。
 さらに光を長く取り入れる長時間露光も行なっている作品もあり、風の動きや空気の動き、水の動きを取り入れています。これらも彼にとってはコントロールできない光の重なりや動きである現象を捉えたのですから、場所的価値から離れることになるのかもしれません。

 更に別な観点では、彼のあくまでも主観であるという撮影や現像、作品が、民族内や各国内共通であったり、人類の根源的な感情や感性という点で一致すれば(もしくは共通性が見られれば)、客観性をもったものとなり得るという考えです。個人の主観をとことん分析し、時にはきり削いでいって、精神史、宗教の根原なども学びなら、その境地を知ること、体験することによっては可能性があるのではないかとフッと思うのです。可能性と言えば、呼吸するように写真と向き合う人生であれば、変革を求めてやまない精神であれば可能かとも期待する点です。この他にはうまく説明できない、噛み合わない点があるからです。

 このシリーズ最初に、講座の項目を上げましたが、写真やアートの歴史、日本画と構図というのがあるようです。前者の歴史は、自分がどの位置にあり今後どう進むのか、その具体としての日本画への着目があると考えます。

 <日本画の特徴>
 西洋での風景画はリアリズムが根本で見えるものが全てです。ところが日本画はそうしたリアリズムを越えたイマジネーションで描きます。特に余白における「間」の美意識と造形の大胆さで、ダイナミックな構図を特徴としていると思います。あの葛飾北斎の富嶽三十六景・神奈川沖浪裏、通称「浪裏富士」が代表的です。風景写真でもアングルを変えるなどで、似たようなものも可能でしょうか。構図は絵画に学べと言いますが、日本画、水墨画、山水画などと日本にも学ぶべきことが多いように思います。この浪裏富士の浮世絵は西洋印象派絵画に影響を与えたと言いますので、日本的な構図手法を写真に導入して、独自の作品作りと、やがては世界へと飛躍を狙っているのかもしれません。

eyecatch_9b8ba85c-0c32-481a-ab4e-5da6e1450448

 
 
また、新たな情報が入れば、付け加えていきたいと思っています。

主観と客観 その2

 前回は、「芸術は主観」で成立していることを書いてみました。主観での個性が創造性や独創性を産むということ。(自然)風景写真では、写真そのものが忠実性=写実性を持つので、その表現は個人の主観的な「印象」が基盤だろうと考えました。もちろん、レンズやフィルターの使用での写実的な諸相を取り出すという表現もあります。これが前回の要約です。

 そして、今回からの展開は、次のことからです。
 ある写真家は、ここに「客観性」を加えるのはどうしてなのかということです。「主観で撮影した作品に、できるだけ客観性を持たせたい」という主旨なのです。
                          
 彼の言う主観、客観と言うのは彼自身の言葉からは説明されてはいないようです。そこを考えるわずかな情報といえば、

 ① 表現の幅を広げるために、自然の「気配」を感じとって撮影する。
 ② 偉大な尊敬する写真家とは別な表現をするためにも。
 ③ 視点を変えると、宇宙が見えてくる
 ④ 意識することで表現が狭まることを避け、可能な限り無意識の領域で風景を見る。そうしたことで自分の想像を超えた写真が撮れる。
 ⑤ 主観的な写真であるが、出来上がった作品はできるだけ客観的であってほしい。そうすることで、描かれているモチーフの場所的価値や意味から出来るだけ離れていくことができるのではないか。
 ⑥ 現実の風景を忠実に再現して正確に描くのではなく、いかに現実から離れていくか。そうすることで、撮影者と鑑賞者の思いにいい意味での距離ができて、解釈の幅が広がるように思います 

 これが今のところ知っている情報です。その中での「客観」とは何かが課題なのですが、「気配」「別な表現」「無意識の領域で見る」「モチーフの場所的価値や意味から離れる」と言う言葉も非常に気になりますし、それらから言おうとしている「客観」についても想像できるかもしれません。

 「気配と無意識」について

・どちらも「写真を撮る」と言うアクティブな構えから離れようとしていることです。自然からのサイン・働きかけは動物写真以外(?)は皆無なのですが、それを感じとることを「気配」と言っているようです。撮るよりも受け取ると言う構えです。自然に神が宿ると言うようなアミニズム的な心境をも語っているようです。

 アミニズムといえば、宗教的には初歩的な原始的宗教と言われていますが、どの地域にもあった人類に共通な感性であったことは特筆すべき点です。山を祭る、木や岩を祭ると言うものであり、ある動物を神の使いとするようなものです。それは今でも残っているのが日本でもあります。

 西洋ではどうかと言うと、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教の普及によって完全にアミニズムは排除されます。神はただ1人であり、それ以外は邪教ともされたようです。そして、その教えからは、自然は神が造り、人間に与えたものですので、人間よりも下位のものです。悪くいえば奴隷と同じようなものです。自然に霊的なものを感じることがタブーでもあるようなことですので、ひょっとして自然の解釈の仕方や感じ取り方は違うのではないかと思う要因です。

・ 無意識については、フロイトが最初に研究を行ったらしいですが、ここ150年ほどです。客観的に実証が難しいらしく現代でも研究されている分野だそうです。無意識の働きについてはあくまでも仮説の域ですが、様々な精神的症状を説明するにはこの仮説に妥当性があると言われています。その影響は芸術分野に多いと言われ、理性的よりも感情や衝動といった着想からの表現です。シュールレアリズムと言う「理性による支配を受けない思考による芸術」、「深層心理や無意識の世界を具現する芸術」が代表的でしょうか。まさに「主観芸術」であり、倫理規範、社会的常識からも解き放たれた領域の表現も可能とした考えです。

・ この無意識の発見とか心理学的な分析については一般に知られていないのですが、仏教では4、5世紀から、唯識論と呼ばれて仏教的な分析が行われていたものです。ここでは無意識も2つあって、意識に近い潜在意識と、意識と潜在意識を生み出すもう一つの層があると言うものです。この論は宗教的ですが、それらは全て主観であり、その主観が現実世界を認識すると言うことでは、客観的なもの、不変なものはないと言うことになり、例の「色即是空」と言うことなります。(色は存在するもの、空は不変の実体のないもの、と言うことになります。)
 仏教で興味あるもう一つの教えがあります。全ての宗派ではありませんが、人間は煩悩でまみれてはいるが、仏になる資質があるとされる「仏性」があると言う「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」が説かれています。また特に精神性のないもの、例えば自然や動物にも仏性があると説く宗派もあります。こうなれば、全てに仏性があり、仏になれるという考えとなります。これは世界的に圧倒的な人口のあるキリスト・イスラム教圏にはない思想となります。

 無意識に主眼をおいた芸術があることも知っておくことも大切です。また、宗教について長々と書きましたが、世界観に影響を与えるのが宗教です。自然の見方や解釈に影響を与えると言うことでは、自らの感覚や感性を意識的に分析することも大切かもしれないからです。
 
 芸術の流れや仏教を少し見てきましたが、いずれも「主観」がキーワードです。


 話を戻します。なぜ、今までの撮影スタイルを変えるのかといえば、「表現の幅を広げる」と言うことですので、ある種の限界、限界ではなくても新たな表現を加えようとしているかのようです。

・「気配や無意識」とは言っても、なかなか難しい、それこそ主観的なものです。気配とは言っても多くの写真を撮っても、撮ると言う判断があり、多く撮った中で選ぶと言う決断があります。そこにどれだけ客観的な判断・決断があるのか不明です。

 よりわかりやすいのは、今までの判断や決定の仕方ではないもの、選ばなかった被写体を見つめ直す
と言う考えです。今までの判断や決定の元での撮影を意識的に排除する、意識していて見えなかったものを意識して撮る、つまり「視点を変える」と言うことだと理解しやすいのだと思います。それを比喩的に表したのが「気配で撮る」「無意識で撮る」と言うことです。しかも、それらは「主観」が本性なのです。従って、「主観的な写真でも…」となるのです。
 
 今回も、どこにも「客観」については見当たりませんでした。

 あえて探るとすれば、彼の今までの作品の中に、こうすればいい作品になるだろうとか、そう評価されてきたと言う「客観的な撮り方、現像・表現方法」があったのかもしれません。
 そして、あくまでも主観であると言うことから、経験的に身に付けた撮影技術と表現方法の完熟をよしとしなく、それを脱却したり、それをも包括するような新たな境地・表現域へと高めようとする意欲があり、その気付きと予感があっての言葉かもしれないということです。
   (以上は彼の主観をあくまでも想像して主観で書いています!?)

 こうした彼の「主観」に基づいたであろう認識と判断ですが、作品として完成したものにはできるだけ客観的であってほしいとうことも言っています。この場合の客観とは何でしょうか。

主観と客観 その1

 ある写真家の方が表現における主観と客観について述べていたので少し考えたいと思います。わずかなヒントしかないので、単なる想像かもしれませんが何らかのインスパイアーが得られるかもしれませんので。
 詳しい内容は写真講座ということで今年4月から開講されますが、受講しないのであれこれと考えたいと思います。彼の写真講座項目だけですが、「写真の歴史」「日本画と構図」「アートからの考える写真表現」なども参考にはなるかと思います。
 
 主観というのは、「独りよがりの考え、見方」というのが一般的であまりよくない印象をもちます。客観性のある方が好まれるのが一般社会です。
 しかし、生育歴や経験も異なる中で育ってきた個人というのは、主観で物事を捉えてきて、時には他の意見(他の主観や一般常識という客観)を受け入れながら生きてきたのですから、主観と客観を適時使いこなして、主体的に生きるという基盤にあるのが主観だと思うのです。それを誰に出すか出さないかの判断は各個人です。
 
 表現における主観と客観

<一般的には芸術は主観>
 さて、芸術となるとどうでしょうか。客観性は一見非個性、非独創性となり、主観が最も重要だと思ってしまいます。主観は個性であり、その美意識や感情などを独創的、創造的に産み出すということです。これが一般的な捉え方でしょう。主観で作った作品を見る人の主観で鑑賞し、それぞれに違う印象を持つということです。よく聞く音楽や歌詞もそうしたものでしょうし、歌う歌手も個性的な衣装をまとっています。主観は心のうちの個性でそれを表現するのが芸術という見方が一般的だろうと思います。これを「主観芸術」という人もいるようです。(その対極が「客観芸術」という概念です。)
 
 従って、表現を考える基盤は「主観」だと考えるのです。今までもそう思い現像してきました。何度も言いますが、特に写真では絵画とは違って現実を忠実に記録するという特徴があるので、どんな表現があるかといえば、

 ・肉眼に近づけて忠実性を求める表現
 ・肉眼でも捉えられない事物の諸層の表現
 ・主観的な印象を求める表現

 1点目は、肉眼の性能がないカメラの忠実性を埋めるもの。再現がどれくらいできるかは個人の記憶であり、若干の印象(主観)が入る可能性はあるでしょうが。
 2点目は、レンズ等性能を利用したもので、望遠効果と呼ばれる圧縮効果やマクロレンズでの拡大。更には偏光フィルター等の利用で異なった肉眼とは異なった諸相を表すもの。
 3点目は、それこそカメラデータを元に、自らの印象を加え、表現する主題などを強調したりすること。

 (自然)風景写真では、写された現実の山川草木あるいは人工物に変化を与えることは基本的にはできません(過度な加工でグラフィックとなる)。従って、色彩、色相、明暗等の修正が主となります。また、そしたものに加えて、被写体の特殊性が求められるようです。日常目にすることのできない希少性、非日常性。日常的に記憶にも残らないような中での再発見的なもの。ある作家は、いい風景写真のほとんどは場所・被写体の選択だと言うくらい被写体の特殊性が要ということです。従って、未開の地や人が滅多に訪れない場所、そして、珍しい気象現象との組み合わせなど、あえて特殊性を求めて撮影に行くことになります。これについては、いろいろな写真情報を集めますが、自分の好みや写真家としての特異性を求める上での判断等で、写真家それぞれの方向が決定されると思います。客観的な情報収集でも判断は客観・主観の入り混じった中で、撮影時にも被写体の選択は主観的なものが多いのではないでしょうか。 
記事検索