約3週間、ウクライナ軍事侵攻はまだ続いています。
  

 「ブダペスト覚書」

 ソ連が解体したあと、独立したウクライナには、1200発以上の核弾頭と200発近い大陸間弾道ミサイルがあり、当時では世界第3位の核兵器保有国であったという。それを危険視してまず動いたのがアメリカで、その後、イギリスやロシアも加わって、非拡散条約締結ということになって、ウクライナの非核化が実現しました。1994年のことです。当時ウクライナ内部では危険視する意見もあったらしいですが、「ウクライナの領土保全ないし政治的独立に対して脅威を及ぼす、あるいは武力を行使することの自重義務を再確認する」「経済的圧力をかけることを慎み」、同国への「侵略行為」があった場合には、「同国に支援を提供するため、即座に国連安全保障理事会に行動を求める」ということを約束したため、国民も納得して、ウクライナでは1996年までに全ての核兵器をロシアに返却しました。さらに、フランスと中国も個別に声明をだして、ウクライナへの安全を保証したそうです。中国は「ウクライナへの安全保証の提供に関する声明」では、中国は核不拡散条約が認める核保有国として、無条件に核兵器の使用や核の脅威を与える動きをしないことや、他の核保有国にも同様の保証をウクライナに与えるよう呼びかける内容で、つまり、中国は「ウクライナを核の脅威から守る」という宣言だったのです。

 今回の軍事侵攻については、アメリカのウォールストリートジャーナルは社説で、核兵器放棄の見返りだった安全保障は得られず、ウクライナはブダペスト覚書に裏切られたと報じた(2022年2月25日)。

 「ブダペスト覚書は、独裁者たちが力は正義だと考える世界において、文書化された約束を信頼することの愚かさを改めて示すものだ。さらに有害なのは、核兵器を放棄する際は自国の危険を覚悟する必要があるというメッセージだ。それは北朝鮮に学んだ教訓であり、イランが核兵器開発の凍結を約束したにもかかわらず開発を画策しているのも同様の背延暦だ。アメリカにブダペスト覚書の約束を実施する能力がないことは、アメリカの軍事的保証に依存する同盟国政府にもまた影響を及ぼすとみられる。日本や韓国が自前の核抑止力を持とうとしても驚くにはあたらない。アメリカ人がウクライナ問題に注意を払うべき理由を知りたいと言うならば、それは核の拡散だ。裏切り行為は結果をもたらす。世界はそれを厳しい形で再び学ぶ運命にあるとみられる。」

<だたの紙切れ、核保有の力、存在意義のない組織>

 これらは何を意味しているかでです。1つには、条約も協定書も覚書、宣言はただの紙切れ、口先だけのものである、ということです。ウクライナはそれなりの判断で覚書に署名したのですが、署名した時点では、核管理の技術的経済的余裕もなく、その覚書が経済支援を受け、政府の支持率を高める政治的判断があったとも批判される点もありました。つまり、「非拡散」という理想よりも現実がそうさせたという見方です。それを甘いことばでアメリカやイギリス、ロシアがそそのかしたとも言えるかもしれないのです。2つめは、核保有こそが侵略されない現実的かつ絶対的原則であり、大国でありつづけるという原則、という裏の意味をもっていることです。「侵略されない大国=核保有国」が改めて再認識されるのです。朝鮮半島の某国は、それをはっきりと認識しているともいえそうです。3つめは、国際連合の存在意味を失ったということです。経済、保健、教育と様々な分野で活動をしていますが、本来の役割は「平和と安全の維持」です。2つの世界戦争の反省を踏まえて、国連軍による軍事介入や停戦調停を決めたのですが、拒否権をもつ常任理事国が戦争を起こしてしまっては、その介入を絵空事にしているのです。これまた理想を掲げながらも、現実的には大国の暴挙、侵略、虐殺、殺戮に歯止めをかけることができない仕組みを作りあげた結果といえます。これも大国による陰謀のようなものです。

 さて、今回の最後ですが、大国の非合理的な核の論理は、「悲劇に向かう世界」をも予感させます。その根拠は、宗教にあります。神のご意志です。

 いわゆる、キリスト教などの「最後の審判」というものです。いわば世界に終わりが来て、悪魔との戦いに勝ち、人々が死に絶えた後、これまでに死んだ人間が復活して、天国か地獄へといく神の裁きがあるとしています。神を信じて、悪い行いのない者は永遠の命をもって神と共にくらすことができといいます。地獄では永遠に苦痛をあたえられることになるということです。仏教にも地獄はあるが、期限があり、いつかは輪廻して生まれ変われるのとは異なるらしい。こうした、教えというのは同根であるイスラム教にもあると言われているようです。
 
 ここでなぜ「最後の審判」かというと、戦争や災害など多くの禍もまた、神の意志であり、本当の幸せがくるということを神は約束しているからだと考えている人々がいるかもしれないからです。従って、核戦争は悲劇の引き金でもあり、永遠の命をもって神と共に過ごすという真の救いへの道にもなるのです。世界を破滅させることは、必ずしも悪ではないという非合理な考え方だって、信仰上はできるわけです。それが、真の恐ろしさになります。核兵器のスイッチを押すにも、自らの狂気が神のご意志として許される原点があるわけですから、どうしようもないです。 


 核武装がいいとは思わない。しかし、「核の論理」が確実にある。これが現実的な政治である。最低でも1万発以上もある核兵器では、人類を何度も死滅させることができると言われています。合理的に考えれば、使うことのできない兵器である。しかし、それを恫喝として使うにはまさに効果的なものであることも、今回の軍事侵攻が証明したようなものです。