


写真をやると、いつも見慣れているものが、新たな表情を見せてくれるようになります。そして、時には今まで気付かなかった物や事象の発見に、驚いたり、感心したりと、新たな世界が拓けてきます。ありがたいことです。ちょっとした宝物を見つけたような感じとなります。そして、そのうちに新たな光景に出合うことも多くなり、宝物が増えてきます。写真の喜びも見いだしていくのでしょうか。
そして、私の場合は、写真をやっていくうちに、電線や人家などの人工物はできるだけ少なくという中でシャッターをきるという、フレーミングの仕方のきまりのようなものを意識するようになってきました。これは、どんな光景でも写真にするというのではなく、自分にとって何がフォトジェニックなのかを判断しているのです。

畑への侵入へと至らしめるものは、それまでの生き方の中にあった違反行為の蓄積や、自分勝手さ、なのかと思っています。特にいいカメラを持った中高年には、注意しても、逆ギレされることもあるらしいと聞きます。そのマナー違反のカメラマンにとっては、決して撮影の哲学?美学?もなく、「愛おしさ」からは遠く離れた感覚から撮影しているのだと思います。
最後です。「哲学の木」は、私にとって写真の技術や表現を向上させるものとしての存在だったということも付け加えておきたかったことです。「哲学の木の喪失」は、写真には写らないであろうカメラマンの「哲学」をもって撮影することの大事さを示唆しているものとも思います。