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写真についての個人的メモ

古代人

写真についての個人的なメモです!

古代人のこころと自然観 その14 縄文の蛇信仰

 ロシアによるウクライナ軍事侵攻は、コロナ禍のように統制された情報が行き交っているようです。しかし、いろいろなことを示唆しているようです。それはそれぞれの理解です。
 私の場合は、独裁的政治や主義思想、大国の経済的な覇権主義への疑惑にもつながるものになっています。さらに、これからの日本への不安や危惧へともつながっています。

 さて、古代人シリーズが中途でしたので続けます。


<縄文の最高信仰は蛇?>
 
 縄文土器といえば、縄目の跡がある土器ということですが、縄文時代全般に渡って見られるものではなく、縄文前期で関東地方に多いものらしいです。さらに、個人的に年代区分や発掘地域は未調査ですが、その中には、なぜか蛇を描いたものや、かたどったものがあります。

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 これは何を意味するかというと、「蛇信仰」のようなものです。これは世界中にあるらしく、「再生」を意味するとか、「不死」、あるいは、男性性器に似ていることから「生命力」を象徴するものとして崇められていていたようです。マムシという蛇がいますが、マムシというのは、毒もあり非常に危険ですが、それだけに自然の力の強さも表していて、最強の虫として「真虫」と名付けられたものとも言われています。

 縄文土器製作のセミナーでは、底を作ってから、紐状の粘土を巻きつけていくのを見ると、蛇のとぐろを広げたように作っています。土器の製作工程自体に蛇を宿すような感じがします。そもそも、「縄文」という縄自体が、からまった蛇ではないかとイメージすれば、その文様をつけることも大きな意味があるのだと感じてしまいます。

 縄文時代の寿命は30歳ほどだったと言います。また、妊婦や乳児の死亡率も高かったと考えられています。男性の体が筋肉質になるのが中学生頃でしょうから、死ぬまでは15、6年しかないことになります。従って、ムラでは死者が多かったかもしれません。そうなれば、当時の人々の願いは、死者が出れば、再び生まれ変わってきて欲しいという「再生」が望まれたことだろうと思いますし、「長寿」も願っただろうと思います。その意味で、縄文土器自体がそうした願いが凝縮されたものではないかとも思われます。それで、食べ物を煮炊きしたのですから、そうした願いが込められていたのが食事ということになります。

 ところが、この縄文土器は、弥生時代には全くなくなってしまうのです。装飾性の豊かなものがなくなってしまうのです。蛇信仰がなくなのでしょうか。縄文時代よりも、炭を使った高温の焼き入れのために、薄手の肉厚になった土器ということで、縄文のような凹凸のある文様や装飾ができにくくなったという理由が考えられるのですが……。

古代人のこころと自然観 その13

 ロシアによるウクライナ軍事侵攻は、コロナ禍のように統制された情報が行き交っているようです。しかし、いろいろなことを示唆しているようです。それはそれぞれの理解です。
 私の場合は、独裁的政治や主義思想への疑惑にもつながるものになっています。また、これからの日本への不安や期待へともつながっています。


  さて、ウクライナと今後の世界へ愁いをのこしつつ、こちらの話をすすめます。
 アニミズム的信仰は世界的でみられたということで、もう少し深めます。
今回は、樹木崇拝などの特定の物への信仰をみてみたいと思います。

<聖なる樹木>

 この世界は巨大な樹木で覆われ、天を支え、膨大な根で大地を固めている。しかも、その枝伝いに太陽が動いていると考えられていた。フィンランドやアイスランド、中国の神話から読み取れるそうです。日本の記紀にある「天の御柱」も天と地を繋ぐ物です。この柱や木にぶら下がることによって神となるという北欧の神話もあるようです。日本では神や亡き人を「柱」で数えるのもその名残だと言えそうです。イザナミとイザナギは「柱」を回って、国を作ったり生命を作り出しました。釈迦が菩提樹の下で悟りを得たということでは知の元が樹木であったとも書いてあります。神社には御神木がありますが、古代ローマにも神として、あるいは神が宿ると崇められる木がありました。
 太い樹木の持つ生命力や長寿、天と地をむずぶと言うことでは神が降りてくるもの、天と地を支える偉大なものとして古代人にはうつったのかもしれません。ただ、これらが縄文や弥生にあったかと言われると不明です。

<聖なる動物>

 次は動物ですが、人間を超えた力を感じたに違いありません。空を飛ぶ鳥や大地をかける動物たちです。ワシやフクロウ、ライオンやトラ、オオカミ、毒を持ったヘビなど。そして、動物の持つ属性(強さ、飛翔、毒などの強さなど)以外に、動物が象徴化されることで崇拝されることがあるようです。

 1つはヘビ類で、農耕儀礼と結びついたりして祀られる。さらに、特定の集団が特定の動物に象徴づけられ、その先祖として、儀礼の対象になることがある(トーテミズム)。日本では真鳥としてワシ、真虫としてマムシ、真神(まがみ)・オオカミとして狼を特別視していることなどもあげられます。熊についてはアイヌが山の神として神聖化していますが、これはロシアにもあったようです。また、フィンランドでは国の動物としていますが、神話でも熊が民族の祖先の化身とされて神聖視されてきた経緯があるからです。

 日本の神社などでみられる「しめ縄」について。多くの説明は、天の岩戸に再びもどらないようにしめ縄を張ったのがならいで結界を意味するといわれているようです。しかし、神であるアマテラスもはいれない結界とはすごいものです。そうすると古今、神社は神を祭っておいてそこから出られないようにしているのでしょうか。どうも違うようです。
 もう一つの説としては、蛇が絡まっている姿としてのしめ縄というおさえです。まだ、ユダヤ教が広まる前(蛇を悪いものとしておさえていますので)やユダヤ教外では、世界的には蛇は農耕をつかさどる神で豊穣を象徴するもの、あるいは、脱皮することから不死・再生の象徴とされていたことが多いよいようです。また、知恵の象徴であったという文化が世界各地にあります。こうなれば、「しめ縄」は結界という意味もあるでしょうが、蛇の姿として豊穣、不死・再生を象徴するものでもないかと思うのです。

古代人のこころと自然観 その11 アニミズム

 幼児期に人形やおもちゃに話しかけることがありますが、あたかも命や意志があるものとして話しかける思考傾向を、擬人化されたアニミズム的思考といいます。我々現代人は、特に大人は科学的な知識が組み込まれていて、アニミズムも擬人化程度にしか想像できないのではと思っています。
 これが旧石器人や新石器人が生死をかけた生活を行っていた者が幼児の思考レベルだったのかについては疑問を持っています。生存に賭ける勇気や忍耐、人や仲間、動植物への情愛などは現代人を超えるものを持って暮らしていたと思われます。また、知識というのは生きる術であり、そのために自分を理解し、他者や外界の事象を理解してこそ、衣食住や楽しみ、癒しなどを手に入れて生き抜く術でもあります。

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 人間は猿からの進化とは言いますが、全身を覆う毛もなく、牙もなく、他の中型動物とは異なって、皮膚を露出させた裸の存在で生まれ成長します。まるで突然変異のようなか弱い生き物です。しかし、それが本能に隷属しない柔軟性のある脳機能を持って、事態を解決していく思考力を持っていたのです。
 動物のような力を得るために切れ味を高めた打製石器や磨製石器を考え、火をつかいました。骨から釣り針を作り漁労もします。更に船を作りました。装身具も作り、クリなどの栽培管理を行いました。黒曜石や翡翠などの原石は遠い地方からの交易で得ました。漆の栽培や漆塗りも1万年前からということも言われています。動物とはことなり、知恵で優れた生存能力を身に付け、動物並みの力を付けました。しかも、縄文時代には野生動物とは異なり、集団として自然を改善し定住生活と近隣に生活圏をつくりました、とはいえ、他の動物と同じように自然の恵みに依存する存在でした。

 そうした中で、目に見えぬであろう霊魂を信じ、自然や動植物に話かけたり、お願いをしたりしていたかもしれないのです。こうしたものが人類が初めに持った宗教的な考え方であったらしいです。擬人化が宗教へと昇華したとなると、今の私たちにおける「科学的な知識、科学的な信頼」あるいは「こころの救済や癒やし、希望=宗教」と同じような価値をもったものではなかったかと思うのです。

 霊魂の存在は、今の科学では証明はできてはいませんし、「信じる?」と聞かれれば、ほぼ信じないという意見が多いと思います。しかし、習慣や風習の中ではどうでしょうか。それはお盆に先祖の霊が帰ってくるというものですし、死んだのちも天国(草葉の陰)から見守っているというような考えです。仏教にしても魂は成仏して極楽や浄土にいくというのも、そうした古代からの宗教観が残っているかもしれないのです。輪廻転生というのも、命ある物全ての魂が再生を繰り返し、あるものは虫に、花にと生まれ変わり輪のように転生をするというアニミズム的な発想です。
 数年前に「千の風になって」という曲が流行りましたが、これは外国の詩です。亡くなった自分は風、雪、雨、星の光、花、全ての素敵なものの中にいるという詩です。まさしくアニミズムの内容ですが、90年代からアメリカやイギリスで読まれてきたという経緯があります。日本でも癒しや不思議な力を感じさせるものとして、共感をもって受け入れられたと思われます。アニミズムの癒し効果とでもいうのでしょうか。

 自然は時には恐ろしいこともあります。自然災害や病気、動植物による死などです。そうなると、霊魂は悪い一面もあるかもしれないということです。自然の凶暴さにうろたえたことや家族隣人が滅ぼされることもあるのが人の世です。同じような霊魂に善と悪があると考えたのなら、アニミズムはどう捉えたのでしょうか。祈りや儀式という形で悪霊を封じ込めたり、善なる霊を招来するという方法を取ったかもしれません。そして、その中心となっていく古老や、霊魂の声をきいたり、悪霊を追い払うシャーマンが登場してくるのではと思います。

古代人のこころと自然観 その10 アニミズム

<死とアニミズム>

 死に対しては、理解しがたいような深い悲しみなど、何らかの強い感情を生み出します。そして、その死を受け入れがたいからこそ、それを乗り越える様々な解決方法をあみだしていくのが人間でしょうか(宗教的な祈りや救い、希望‥‥)。

 死者を放っておけばウジがわき腐乱して気持ち悪く、不吉な気配もするでしょう。それを避ける意味で、土に返すという埋葬法を考えたのでしょう。「土に返す」というのも飛躍的な表現かもしれませんが、自然は生き物の盛衰や生死の場所であり、人もまた大地に眠るものであるということかもしれません。(他に、川に流す水葬、死骸を鳥に食べさせる鳥葬もあります)

 太陽は東西を行き来しますが、それは太陽の日々の生死であるかもしれません。草木や動物の生死もそうした自然の摂理の1つです。あるいは、諸々の生死はそのものの状態から、自然は死を乗り越える再生をも人間に見せたのかもしれません。季節が変われば、また再び実らせる木々、いなくなった虫たちがまた訪れること。自然界は「死と再生」に満ち溢れ、今以上にそれを感じることのできる時代だったかもしれません。そして、死の悲しみや不安を乗り越える方法として、再生と肉体とは別の霊魂というものを考え出したのだと思います。

 アニミズムという概念がありますが、今から6〜3万年前に人類が持ち得た考え方だといいます(認知考古学=心理学+考古学で)。人間は移動しながら様々な事物を見、採集等の経験を通して、その事物に人間と同じような性質を見出し、その関係性をより深めたりする中で、事象にも人と同じ様な意思や意識、祈りや願い=魂があるのだということです。

 ここで重要なのは、人間の内面を外界に投影したのがアニミズムと言われていたのですが(人間と非人間との断絶:人類学者タイラー)、そうではなくて、元々内面性を持っていた人間・非人間との「共通性、共存性、流動性」というものがアニミズムであるという見方もあるようです。ここでの共通性や共存性については、人間、動植物、自然の霊魂が同等であること、流動性というのは、おそらくは魂=霊魂が行き来するのは人間、動植物等の区別なく宿ったりする様なことを指すのかもしれません。

 そうなれば、身体(物)と霊魂が離れていくというような考え方、すなわち、死は身体から霊魂が離れること、生は身体に霊魂が宿ること、という考えにもなります。太陽の生死、再生も大いなる霊魂が太陽を再生させるとも考えるのです。この世には様々な霊魂があり事象とともに生死と再生を繰り返すという循環的な自然観です。梅原猛氏がアニミズムの中で、樹木崇拝や動物崇拝にも触れていますが、長寿である樹木、優れて特異な能力を持つ動物への憧れから、崇拝という祈り・願いからその霊魂を取り入れようとすることである様なことをいっています。様々な霊魂が生を生み出すと共に、特定の霊魂を取り入れようとする信仰もまたアニミズムなのかもしれません。

古代人のこころと自然観 その9 古代人の埋葬

  いよいよ、こころと自然観に入ります。

 日本列島に人類の遺物があるのは、3万年以上前の旧石器時代で、その後1万年6000年前からの縄文時代となります。この時代は、間氷期で暖かくなり海進が進んだ時期で、鬼界カルデラの大噴火があった時期となります。

 縄文時代の人が何を考えていたのか、どんなことを思って暮らしていたのかということは、記録としての文字がなかったというが定説ですので、遺跡から考えるしかないようです。


<縄文時代の埋葬>

 三内丸山遺跡に行ったことがあるのですが、実際に竪穴住居や高床式住居、大型住居を見たり入ったしてみると、その堅牢さや広さに驚きます。建築は恐らく共同作業でしょうし、大型住居に入ると、ここに人が集まって何かを相談したのではないかと、「ことば」の存在を否定することができないのではないかと思いました。人との交流や技術をことばで伝えることへの大切さ、重要性を実感できるほどです。

 さて、思想的なものとなると、死にまつわる埋葬方法、場所などがヒントになるかもしれません。

 縄文や弥生での埋葬法についても、土器に入れたり、体を折り曲げて埋葬したり、さらには、再度掘り出して合葬するというようなこともあったそうです。基本的には土を掘って埋葬する土坑墓です。また、犬との合葬というのもあります。埋葬場所が竪穴住居の入り口付近や、竪穴住居群の中央部であったり、竪穴住居群の入り口横、三内丸山ではムラにある道路の両脇にあったりしているそうです。死者を忌み嫌うというようなものがない時代であったかもしれません。ただ、体を折り曲げて埋葬する屈葬は世界中でも珍しく、石などを抱かせたりするのもあるようです。この埋葬法については、


 ・土を掘るのを簡素化するため(労力節約説)
 ・胎児の形をさせて再生を願った(胎児位説)
 ・石を抱かせるのは、再び生き返らないようにするためとか(死霊鎮圧説)、遺族からの贈り物だとするもの

 定説は、再生することによる災いを防ぐ、死霊鎮圧説というものです。日本にある後の神道の「穢れ」を念頭においた考え方であろうと想像されます。それならば、なぜ、足腰を曲げるために死者に触れたのだろうか、さらに人の往来のある場所に埋葬したのでしょうか。そこにはもっと深い意味、思想があったと思います。


 個人的には、胎児位説に説得性があるように思っています。平均寿命が30歳程度の時代です。死に出遭う可能性は今よりも格段に多かったと思います。女性の出産可能なのは15歳としても、子供がその頃になると親が死ぬということになります。そうした中では家族間や親戚間の絆は今以上に強かったのではないでしょうか。季節が巡り草花がまた咲くようにと、大地に穴を掘って胎児の姿をさせることで、再生を願ったというのが意味ある解釈だと思います。特に幼児は壷に入れてそれこそ大切に埋葬したことを見ると、再び、お腹の中に子が授かることを願ったのだと思います。ムラ人もまた再生を祈り、身近な人の霊魂が人々の生活を守ってくれるものと願ったのかもしれません(このあたりは少し飛躍でしょう)。埋葬場所に草木が生えたり、虫がいることもまた、再生、転生の一つの現れであったかもしれないのです。

 世界では旧石器人が埋葬時に花をたむけたようなことも読みましたが、弔いへの思いは、今日の宗教でも「再生」に似た考えがあるようです。それは神の国で復活するとか、極楽・浄土に行くとか、これもある種、どこかの国での再生ということですから。
 
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<弥生時代の埋葬>

 さて、弥生になると、伸展葬になります。基本的には土坑墓ですが、木の入れ物に入れて埋葬した木棺墓、縄文では乳児だったのが大人も土器に入れた埋葬した甕棺墓、土坑墓の周囲に小さな石を置いて穴を塞ぐように大きな石を置いた支石墓、盛り土をした墳丘墓などが現れてきます。徐々に規模か大きく副葬品も増えてくるそうで、身分の差が表されてきます。そして埋葬場所もムラ中から外へ、共同墓地のような形をとります。これらは、農業生産中心のムラ機能への変化でしょうか。それとも、一般的な学説である渡来人(中国、韓国経由)たちの風習を取り入れた結果の変化なのでしょうか。

 魏志倭人伝には、葬儀の様子が書かれています。「始めて死するや停喪すること十余日、時に当たりて肉を食わず、喪主は哭泣し他人は就きて歌舞し飲酒す」とあります。喪に服すというような習慣と今の通夜の飲食のようなことがあったと思われます。

古代人のこころと自然観 その8 縄文の大災害2


 さて、この火山噴火がどのような結果をもたらしたかというと、九州に1000年間も無人や不毛の時代を作ったとされています。


 といのも比較的近年、アカホヤ火山灰の地層の下から縄文時代の大集落が発見されて、縄文文化再評価のひとつとなりました。
 その集落は、舟作の工具(世界最古)や燻製施設と大量の炉、独自の貝殼紋の土器などをともなっていました。この高度な海洋民族を思わせる縄文人を全滅させたことがわかるからです。

 火山礫は火山近くで見られますが、遠方では火山灰でも細粒と粗粒のものが風に乗って撒き散らされます。中国からのpm2.5が肺に入るということで話題ですが、火山灰はそれ以下の0.001μmまでの大きさもあるガラス片や鉱石結晶辺です。大きいものは地上に落ちますが、小さいものは長らく空気中を漂って落ちます。おそらく、ヒエ、アワ、野草、木で実をならすものにも被害が出たでしょう。そして、それらを食する小動物、そして縄文人へも影響を与えたのではないかと思います。2cmの火山灰でも呼吸器に障害が出ると言われています。これが全国的となると相当の被害だったと想像できます。影響を受けなかった東北での縄文が独自の発展を遂げる?ということにも影響を与えたかもしれません。

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 もし、現代で鬼界カルデラが大噴火を起こしたら?

 最新のシミュレーションでは、32億立方キロメートルの噴火物が出るという。九州地方でとんでもない被害を受けるのはもちろん、関東地方に住んでいたからって安全とは言えません。恐らく火山灰の影響がでるからです。ジェット機、鉄道、道路などの輸送は難しくなるでしょう。海岸では最大30m、10階建てビルにも相当する津波に襲われます。東日本大震災並みの津波となるでしょう。

 事前にでも分かれば九州地方や沖縄の人たちは避難区域になり、住んでいる人たち1500万人は本州への移動を余儀なくされるかもしれません。それに山陰や四国の400万人だって安全とは言えないでしょう。非難は間に合うのでしょうか。しかし、それだけの人口をどう移動させ、移動先での衣食住をどうやって確保できるのほぼ不可能となりますほぼ不可能となります。この噴火の影響により、西日本の人たちの生活基盤が徹底的に破壊され、全ての産業が被害を受けてしまうだろうと思われます。

古代人のこころと自然観 その7 縄文の大災害1

 縄文時代の日本の地形や気候、人口、さらに、核DNAからの祖先を見てきました。
 文化庁で指定されている遺跡数からみると、縄文時代以前の旧石器時代は7565箇所、縄文遺跡で90531箇所、弥生遺跡34825箇所、古墳遺跡42232箇所となっていて、人口が少ない割りには縄文時代が圧倒的に多いことになります。

 さて、縄文時代で最大26万人もの人が住んでいたとされます。また、人口密度での資料があります。10km×10km四方での人口密度を計算したものです。やはり、東日本が優位となっています。


人口分布地図

 さて、今回は自然災害が多い日本ということで、1万年以上も続く縄文時代にも地震や台風、はたまた、火山噴火での災害があったと思われます。地質学的に分かっているものでは火山噴火です。1万5千年前には十和田カルデラ噴火、7600年前には摩周カルデラ噴火、5300年前には鬼界カルデラ噴火がありました。カルデラとは円形や多角形の陥没のことで、火山が大規模な噴火を起こすときに凹型にしてしまいます。十和田カルデラは直径8.6km、摩周カルデラは長径が6.5kmです。今は湖になっています。

 さて、鬼界カルデラですが、九州南の50km海中にあります。九州と言えば阿蘇カルデラが世界規模の大きさをもち、東西18km、南北25kmというものです。ちなみに最後の噴火は9万年前です。しかし、この鬼界カルデラ噴火も規模的には阿蘇カルデラ並みで、東西21km、南北18kmで、海底には多数の海底火山があり、カルデラの外輪山として竹島、硫黄島が海面上にあります。 

 火砕流は時速100km/時にもなり、海を超えて九州南の半島まで達しました。また、噴煙は高さ3万メートルに達しました。さらに、津波は最大30mで、和歌山県海岸で4mに達したり、噴火で吹き出した火山灰(鬼界アカホヤ火山灰)が九州では5、60センチで、東北にまで達しているという空前の火山噴火となります。1991年に火砕流で43人の死者を出した雲仙普賢岳の千倍規模とされています。

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古代人のこころと自然  その5 ゲノム解析


 ここ最近、ミトコンドリアDNA解析から、普通の核DNAのゲノム解析技術が進歩して、考古学上での論説を覆したり補強するような科学的な証拠がだされるようになりました。DNAには32億もの文字列(塩基)があるそうですが、その情報の全てをゲノムと言っているとのことです。基本的なデータは21世紀初頭に解析されて、それ以降、どの部分がどのタンパク質のものか、例えば髪や目の色など。また、遺伝的要素の強い病気の部分もわかってきているようです。この解析技術をネアンデルタール人やホモ・サピエンス、植物などにも応用していくのが考古遺伝学という分野です。


 下の記事は2019年のものです。人口も推定できるというのですから、DNAは人間の設計図だけではなくて、過去の歴史も残しているということになります。

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 ゲノム解析から、人口の増減までわかるというのですから、すごいものです。この結果は先の人口シミュレーションの傾向が正しいということにつながります。

 DNA解析では、従来は、塩基数の少ないミトコンドリアDNAの解析が行われてきました。この解析では母系を溯ることができ、全人類に共通する祖先のうちの一人がアフリカにいたことが分かったそうです。DNAがあるもう一つのものは「核」で、その中にY染色体があり、これは父系遺伝ということで祖先や民族の由来を探るのに使われているそうです。従って、Y染色体の解析が主体となってきています。 

古代人のこころと自然観 その4 縄文の人口分布

 縄文時代の人口分布をみると、東日本優位です。ピーク時では、東と西の人口差は圧倒的です。
 当時の人口は、時期毎の遺跡の数や小集団等の人数からシュミレートされたそうです。縄文早期は人口が2万人、前期11万人、中期26万人、後期16万人、晩期8万人という結果がでています。

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  東日本のやや寒い落葉広葉樹林地帯に人口が集中しているようです。これは、落葉広葉樹にはクリやトチノキ、クルミなどの保存できる実が得られることや、海や川でも捕れるサケを食料にしていたからだろうと考えられています。しかし、縄文晩期ではだんだんと暖かくなる中で、西日本の照葉樹林帯も東へと進み、食料が少なくなって人口が減っていったのではないだろうかと言われています。

 そして、弥生時代に入ってくると九州から稲作が始まって広がることになります。それから、縄文晩期・弥生早期に人口が減った関東地方、近畿地方も人口が増えて、西日本優勢の59万人という様相がみられてきていたようです。


 また、縄文時代にもどるのですが、縄文早期や晩期を除くと、関東地方と周辺の人口密度が高いということになりますし、「邪馬台国はどこか?」で有名な弥生時代にも、近畿地方と共に関東周辺が人口密度が高いということになります。古代史では、九州や近畿地方が注目されますが、関東地方にも縄文時代から何らかの有力な部族のようなものがあったのではと研究している1つの要因となっています。ちなみに千葉県には香取神宮、茨城県には鹿島神宮がありますが、ここのご祭神は、日本書紀での国譲りにもでてくる経津主(ふつぬし)や武甕槌・建御雷(たけみかづち)の神ですが、出雲の大国主命に武勇をしめして国譲りをさせた主役とされています。一般的には、日本の東国を勢力圏内にするための拠点として武神を祀ったとされています。しかし、他方、関東地方の勢力が天孫系であるアマテラスに協力して、国譲りが成功したと考えると、古くから有力な勢力があったことを物語っていると思われます。今は神宮と呼ばれる社は20以上ありますが、平安時代では関東のこの2社と伊勢神宮しかありませんでしたので、関東の位置づけはかなり重要だったと思われます。

古代人のこころと自然観 その3 気温変化

  謹賀新年 カラオケ忘年会に年明け温泉泊で、少しのんびりした日々を送っています。
真っ白の冬景色ですが、撮影はボチボチ。今年も宜しくお願いします。

 シリーズ「古代人……」を続けます。


 今度は気温を中心に縄文時代を見てみます。
 日本における新石器時代は縄文時代からはじまるのですが、最終の氷河期が終える間氷期に入って気温が上昇して海進が始まる時代です。

 資料は少し古いのですが、縄文から現在までの気温変化をみると下図のようになるそうです。縄文草創期の気温上昇8℃はすごいですが、気温が上昇すれば人間は北の方にも移動して住むことが可能になります。紀元後も温暖期や寒冷期があることがわかりますが、縄文や弥生時代の変化と比べるとやや少ないということです。大きな気温や海水面の変化は、数百年から千年単位のものですが、植生や生態系への変化もあったことと思います。

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 少し別な話で。ここ2000年の表が2倍に拡大されていますが、紀元後も±2℃の気温変化がありました。また、下に別図を提示しましたが、世界的な変化を表しています。

 現在温暖化を問題視して「脱炭素社会」等をめざしていますが、長いスパンで見ると、人類のCO2排出量に相当する気温上昇にはなっていないとの指摘もあります。実は、地球規模の氷期と間氷期の原因や気候変動のシステムは分かっていないとのことです。これらの表からも、当時は当然の工業化前、人口も少ないのに気温変化をしています。環境問題は、国際政治・経済上の覇権争いでもあり、太陽光パネル、風力発電、バッテリーで世界を席巻している中国は、自由主義圏の環境学者、環境NPOをも抱き込んで、脱炭素で漁夫の利をえようとしているとも言われています。


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