PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

写真考

写真についての個人的なメモです!

「霧」の解釈 3

 10日間ほど、全く食欲がなくて、1日に水とヨーグルト3個ぐらいで終わらせていたら、4kgも体重減。何もやりたくないという状態だが、短いながらも勤務はつづけている。やっと、血液検査、エコー、胃カメラと医者に診てもらう。軽い胃炎があるとのことで、薬をもらった。食べないと胃の方もよくならないとのことで、パン食、サラダ、麺類と少しずつ食べるようにしているが、やはり朝の食欲はゼロである。したがって、撮影の方もずっとご無沙汰状態です。

 霧についての その他 (記事は貯めているので蔵出しということです)

 霧を主体にとは考えても、ただ白いだけのもの。それが霧と見えるには、

・背後に何がしらの物が潜んでいて、それがかろうじて見えるようなこと。
・霧の隙間や境界上に物が見えること。
 つまり、霧そのものと物の複数の存在があってこそ、認識される。こうした相互の関係性でしか霧は描写できないものがあるということになります。

 下の写真は、そのようなことが頭の中でよぎりながら撮ったものです。
 全体的に霧がかかっているのですが、上には帯状の霧があります。林と林の間にも霧があります。
 
030A2969

 そして、帯状の下全体に霧がかかっています。霧が霧であるためには、霧の薄いところで物が見えるよな描写、鮮明な描写ではないことでは霧を認識できるような描写が必要となるわけです。

030A2933
 
 これは、薄く見える部分と霧で見えない部分を約半分にしてみました。
 次のものは半分以上です。


030A2958

 このように、霧と他のものがなければ、霧というのは描写できない、認識できないということになります。何か、当たり前のようなことですが、これが分かったということになります。

 従って、霧光景では、どのように物を描写、見せることができるのか、その見せ方(捉え方、撮影チャンス)が大切なこととなります。そのような関係性が重要ということです。

 霧という状況の中で物が、
 ・霧の影響を受けずに明確に見える
 ・明確な部分もありながら、隠れていく部分がある
 ・霧に影響されるにしても、ボワッとしていて何かはわからないようなものから、丘、木々があると分かるようなものまであるということ。

 こうしてみると、非常に繊細な観察での撮影が大切か、ということがわかります。霧の量や流れ、さらに元景色との関係で、視界全体に様々な撮影状況が立ち現れきます。そこをどうフレーミングし撮影するのかは、それこそ無限だと考えます。従って、写真の技術や景色の捉え方などが試されるいい被写体ではないでしょうか。

 繰り返しになるかも知れませんが、霧のある状況は、コロナ禍でのいわゆる陰謀論とされるような様々な情報、さらに、日頃興味のあった日本近代史での自虐史観の要因、偏向的なマスコミなどなど、今まで知り得なかった情報にも触れることができたことによる世界観の変化がまさに「霧」を象徴しているかのように見えることも、惹かれる原因の1つかも知れないということです。

 世界は善意とか正義、愛では動いてはいないかもしれない。善意や正義、愛とかを求めて生きているのは、庶民でしかいないのではないか。過日の衆議院選挙も候補者達は地域課題ばかりを取り上げているのも、そうした庶民の意図を汲んだものでいいかとは思うのですが、国政を預かる国会議員として、世界の中での日本の在り方や進むべく道をしっかりと提示してもよかったのではないかと残念に思うのです。票が欲しいがための直近の課題ばかりで愛想を振りまくだけでは情けないです。

 私たち庶民は、善意とか正義、愛とかでは動かない資本主義や共産主義のよくない面の本質や両主義を貫くような世界のグローバル化による統制社会の実現という企みについては、十分に知り得るものではありませんが、そうしたものが企む善意や正義、愛を踏み潰すようなものを明確に分析して対処して、日本と国民を守り、世界に気骨のある発言をしていくのも国会議員の大きな使命だと思ってしまった前回の衆議院議員選挙でした。

 こうした意味では、日本は霧、モヤがかかっているような感じです。その見えない部分では心や身体が侵食されているのではないかとも夢想=霧想してしまいます。コロナ禍で被害妄想になった訳ではありませんが、光あれば影ありで、それらを効果的に生かすという写真目線では、こうした両面的な世間の見方もあながち間違いではないかもしれません。

 「霧を見ながら、世の闇も連想する」という、いささかへそ曲がりの面も書いておきます。霧の描写面積が多い ときは、善意や正義、愛を踏み潰すものへの霧のような無力な抵抗かもしれませんし、わずかに見える景色は仄かな希望を象徴しているかもしれません。

 (今までの世間話には政治や宗教の問題はタブーだったようですが、日常的に情報交換したり、意見を言い合うような土壌ができない限り、政治家は磨かれないし、馬鹿な政治家がのさばるだけです。つまり、政治家に騙され馬鹿にされている庶民であってはならないし、そんな政治家だからこそ海外の政治家に騙され馬鹿にされていると思うのです。デジタル庁が出来て、中央官庁や地方自治体の全情報のサーバーをアメリカの企業に任せるということが決まったのだそうです。日本企業も落札には参加しましたがダメだったのです。LINE情報が1部中国に流れていたようなことがあったのに、アメリカならいいのでしょうか。はたまた、日本でのシステム管理上=サイバー攻撃防衛やSpy防止法がないために防御できないと判断したのでしょうか。何か情けない感じです。)

 霧については、これくらいで終わります。次回の課題は、「古代人のこころと自然観」のようなことで、再度、日本や一部他国のアニミズム的なものをさぐってみたいと思っています。
 自然の全てのものに魂があるような、動物を神の使いとか、山や岩、木に神が宿るような見方や、そうした中での人との関係を探ってみたいと思います。

エッセンス 再来4 「scene」と「essence」


「scene」は「essence」への下準備

 ツアーで講師の写真家がここで撮影しましょうと薦められても、同じ画像にはならないことがあります。もちろん、カメラ設定を同じにしてもです。焦点距離、フレーミング、構図が違います。なにやら観点、場面の整理の仕方やおさめ方が違うようです。もちろん、もちろんそれらに合わせて枚数が違います。自分が決めた切り取り方が複数あるのです。なぜでしょうか。もちろん、技術や感性の違いです。

 さらにその1つとして考えられるのは、私にはない「鑑賞者がどう受け取ってくれるだろうか」という観点があるからだろうと思います。全くの独りよがりで、他者の視点への考慮がない撮影というのが実態です。実際に現像する際に様々なパターンを撮っておくことによって、撮影者の意図がどう伝わるのかを吟味するためでもあると考えています。いわゆる撮影者の感覚や感性で見つけた光景「scene」も、撮影者の意図と鑑賞者への見え方、見させ方と言った中で、撮影者の独りよがりではない客観的な思考、分析が働いて撮影されているのだと考えます。(この主観、客観については後日に)

 さらに、仕上がりを想定したり、もしかして複数のテーマに沿ったものの撮影も想定しているのもあります。
 風景は「見る」「感じる」ものでしょうが、撮影者は「view」での高速な思考・判断=抽出から「scene」を見つけるや否や、カメラを構えます。しかも、これもおそらくですが、「新たな見え方」「新たな感じ方」もしながら撮影・現像しているのだと考えます。これが楽しいのです。そうでなければ、数十年も通い続けられないと思うのです。

 「view」から「scene」へのスピードは実に早いのは、そこまで鍛錬し磨きあげられているいわゆる「感性」です。なおかつ、この「scene」では、すでに「essence」への下準備ができていることになります。

 「essence」

 一般的に「essence」には、本質、特質という意味があります。写真的には何の本質か特質かと言えば、何を表現するのか、鑑賞者にどう受け止めてもらいたいのかという写真家の目的、狙い、あるいはテーマにも関わることが表現できているかが重要ですし、鑑賞者を意識した見せ方なども考慮して、絵筆のように「現像、補正、調整」して表現したものを「essence」としています。
 
 
 こうしたような理想が実現するとすれば、オリジナリティのある作品となります。まだ十分な鍛錬がない私の場合は、クリシェでも少しマシな方であったり、新たな表現の幅を広げるもの、オリジナリティの兆しが見えるというようにでもなればいいところでしょうか。

鏡と窓 表現性について

 「鏡と窓」展

“Mirrors and Windows”

 1978年7月28日から10月2日までニューヨーク近代美術館で開催された、60年以降の写真表現の動向を扱った展覧会。企画を担当したジョン・シャーコフスキーは、100名の作家による200点余りの作品を選び、それぞれを「鏡派」と「窓派」に分類して提示した。「鏡派」は写真を自己表現の手段として用いる写真家のことで、「窓派」は写真を通して外界を探求する写真家のことをさす。しかし。シャーコフスキー自身が述べているように、この二つは不連続な関係にあるのではない。どのさ写真の中にも二つの側面が存在しているのであり、1枚の写真を鏡派か窓派かのどちらかにのみ分けることは不可能である。こうした曖昧さをはらんだ分類をシャーコフスキーがあえて提示した背景には、当時の写真評論にみられた、「ストレート・フォトグラフィ」と「マニピュレイテッド・フォトグラフィ」を二項対立させることによって写真表現を分類しようとする傾向への抵抗があった。

 「鏡と窓」とは、うまい表現をしますね。連続性があると言うことでは境目がないということですし、混在しているものもあるということかもしれません。写真というのは外界をほぼ忠実に写し出すということでは画期的な発明であるとして登場しました。しかし、歴史の古い絵画との比較もあり、芸術性という点では写真も絵画の手法を取り入れてきて、写真でも芸術的なものへと高めようとする動きが出来てきたようです。これが「鏡派」です。そこでのもっとも極端なのは、フィルムや銀塩での現像の薬品に手を加えて表現したり、合成をしたりと、今で言うとかなりの加工と現像をおこなっていたようです。こうしたやり方は廃れたらしいですが、写真における「表現性」については、いかに他とは異なる希少性のある写真、オリジナリティのある写真を作り出し自己のアイデンティティーを出すかということでは、現代の写真家も工夫しているようです。
 
 写真の特徴
 写真というのは、音楽や絵画、演劇などといった表現(芸術)の1つの手法であるとされています。その手段を通して、何を伝えようとし、伝わるかを追求するのが、「表現性」です。また、「窓」として外界を視覚的に捉える写真は絵画よりも緻密で、複製もとれ記録として、多くの人や後世に伝え、残すものとしては最高のものです。これが写真の特質の基本です。記録性によって、絵画分野での肖像画等が廃れ、逆に絵画における表現性や創造性に大きな影響を与えたらしいのです。また、写真は今やデータとしてやりとりできる点では絵画よりも優れた「伝達性」があります。過去の場合でもネガがあれば多くの複製がつくれましたし。
 今はカメラの氾濫と画像の氾濫期(スマホのカメラ、画像のWebアップ)です。誰もが写して残して伝えて、ある種表現できる記録性と伝達性、表現性が身近なものであるからです。また、カメラの記録性は、センサーの進化とカメラの高機能化で精度も上がってきています。そうなると、誰もが写真で表現できるということになりますし、プロの方はいい写真としての「表現性」も、秀でていなくてはならないことになります。
 
 現実を記録する写真における表現性

 現像技術とも関わりますが、表現方法を簡単にあげると、モノクロ、HDR、ハイキー・ローキーというのがあります。カラーをあえてモノクロにしたり、露出を明るい方にしたり、暗めにするというのがあります。HDRというのは、逆光などでは、カメラが勝手に判断して、その明るさを抑えてしまって、その前にあるものが暗くなってしまう性質があるのを
補正する方法です。これは専用のソフトもありますし、カメラ機能としてついているものもあります。これは、カメラが現実を記録するとは言っても、肉眼にはかなわない点もあり、肉眼で見るように補正、修正するといってもいいでしょうか。これも強めにやると絵画的な雰囲気がでます。

 以上は、カメラが記録したものを、全面的に現像時に補正、修正することですが、実際的は、全体もありますが、写し出されたものの一部を部分的に補正、修正することが多い感じです。ある部分を強調したり、弱めたりすることです。現像ソフトの1つである「ライトルーム」の現像画面にあるスライドレバーの数だけ、修正が効き、その範囲や分量もレバーを左右に動かせば修正できます。

 実はこうした作業が、「表現性」と関わってくきます。同じデータで現像しても、現像する人の数だけ違う写真ができあがるからです。違う理由としては、
 ・季節はいつで、何時頃撮られたのか。
 ・このデータを撮った人は何に惹かれて撮ったのか。
 ・これによって強調したり弱めたりするのはどこなのか。
などと考えるのですが、その際の修正の箇所や度合いの違いが生まれるからです。中には、実際の自然には見られないような色彩もあって、本当に10人10色なのです。 
 
 
 以上は現像時でのものですが、実際の撮影時においてもどうフレーミングするのか、どう現実を切り取るのかも表現性の1つであると考えます。プロとのプライベート・ツアーで同じ箇所(2,3m以内)で撮影しても、切り取りや焦点距離(画角)が違うからです。おそらく、プロはいい被写体があれば、天気や光の変化も考えて(イメージして)、その時をねらって撮影するでしょう。すでに撮影から「表現性」は始まっているのです。

 そして、もう一つ。「Follow me」が好きな理由でもあり、写真でのテーマということにも関わるものです。私もキツネを撮りますが、どうしてもその姿や表情に惹かれるのです。しかし、どうでしょうか。厳しい自然と共存して生態を表現しています。それも白と夕空という、もっともシンプルで美しい背景です。しかも、疾走時の脚の宙に浮いているのも見事です。厳しい冬の自然の中の束の間の美と戯れ、幸せ感も漂っています。そうしたものを、感じさせるには、キツネを小さく、背景を広くというフレーミングが必須でしょう。構図がどうだこうだの前に、こうした「表現したいテーマ」があるように感じるのです。別な感点では「被写体に撮られるな」ということも言われます。撮るのは「人(表現者、意思・思想・哲学などをもった存在)」なのです。
 

真相、真層、深層  続編

 前回の被写体は明かさなかったですが、今時の雪の表面です。

030A0037-Edit
 
 ・割と白い部分は、晴れの合間に熱せられて少し溶けた部分でしょうか。不思議なことに、マイナスの気温でも晴れには太陽の熱で雪の表面が溶けて、それが凍ることがあります。そこに雪が降り、風が吹いて雪が飛ばされたことでできた模様と考えられます。不思議な模様です。このようなものに気づくのは3月だったのですが、この時期に出会えたのはたまたまの偶然です。

 雪のイメージは白、あるいは青味のある白で、所々の陰によって起伏がわかります。影の濃淡も時刻によって変わります。降雪も暗い背景だといく筋もの白いラインで、フラッシュをたけば白い円としてカメラで捉えることができます。また、マクロレンズを使えばその結晶を捉えることができます。冬の自然風景写真には避けることのできないのが雪です。

 さて、表題の件です。「真相」ではありきたりなので、「真層」とか、「深層」と言うテーマにしてみました。「深層」とは言っても、雪を掘っていって断面を撮るというでことではありません。あくまでも表層の光景の中で、雪の起伏が作る少し変わった自然光景にスポットを当てたものもを面白いのではないかと言うことです。1月にもモノクロの「雪庇の写真」を載せたのですが、これもその1つと言えるでしょう。
 ・割とよく見かけるのは、下の写真のような凸凹の、起伏のある雪原です。

030A0023-Edit

 前回の写真もそうですが、意外性、奇妙なものとしては、こんなようなものも撮ってみた。

030A0033-Edit

 目のような窪みに風で飛ばされる雪を撮ってみたのですが、じっと観察しないと分からない被写体でもあるようい思います。

 別のサイトでは、こうしたテーマ群を「surface」とつけました。もちろん「表面」「上面」「外見」という意味ですが、さらに、「表面化すること」「明るみに出ること」とあります。見過ごしがちな単なる表面ですが、写真によってその真の姿、真相、真層を浮かび上がらせるということです。そんなのが多く集まれば、深層にもなってくるようなイメージとなります。これは、写真自体の目的でもあるかと思っていますが、いかがでしょうか。 

撮影スポット=クリシェ

 今日は昨晩から星空でマイナス20℃以下の予報で、美瑛の菊地プロの4k特番の追加撮影だったようですが、ダイヤモンドダストは出なかったとのことです。ダイヤモンドダストで有名なスポットには50台以上の車があって過密状態だったとのことです。氏は過密を避け別な場所で撮影セッティングとのことでした。有名スポットではダイヤモンドダストはある程度は発生していたのかも知れません。

 この有名スポットも5、6年前まではそんなに多くはなかったのですが、冬の美瑛がテレビ等で紹介される毎に増えてきたようです。車50台以上だと、5、60人は集まるのでしょうが、場所取りのようなことがあって大変ですし、片側に路上駐車ですから三脚を持っての移動も大変です。ややもすると、通勤者からの苦情も110番ということになりそうです。したがって、移動は差し控えるということになります。
 固定された箇所からの撮影だとしたら、背景の選択はなくなってしまいます。ダストそのものを2、300mm以上の望遠で切り取るしかないような状況となります。過日にあげた樹氷とのコラボ撮影もしにくくなってしまいます。サンピラーでも発生すれば価値はありそうですが、非常に不自由な撮影ですね。私の場合は幸運にも平日でも撮影できますので、平日狙いとなります。また、それほど期待ができない、規模が小さいとなれば、移動します。晴天であれば、もっと寒い山間部や富良野の空知川で厳寒光景を撮った方がいいと思っています。曇りであれば、太陽光が漏れる地点や川霧でも出ないかと、あちらこちらと走り回ります。

017A7203-Edit
 
 この写真や過日の霧の写真もこんな判断から、有名スポットから離れての撮影となります。こんなのも撮りました。

IMG_8702

 雪原での撮影です。すでに枯れた植物ですが、枯れた褐色姿に健気さを感じて撮影してみました。

クリシェ

 定番の撮影スポットでの撮影もそれなりには意味があります。撮影技術やカメラ設定に慣れるということです。また、自分でも感じているのですが、撮影スポットと呼ばれる写真作品の影響を受けていて、「このような写真を撮ってみたい」という思いがどこかにあるのでしょうね。先人、先輩の後を追っているのです。

 しかも、現代はSNS等、インターネットや映像機器の発達で、誰もが写真を撮りWebに公開できますから、撮影スポットの写真も数え切れないくらいあります。従って、見慣れた光景、見飽きた光景=「クリシェ」となります。目新しさがない光景となるわけですから、個人的な撮影と作品としての意味はあっても、余程の自然条件や表現方法(現像方法、手法)がないと新たな写真としての意味はないことになります。あるプロはそれを「上書き」といっています。

 これを考えると、クリシェはあくまでも習作としての一段階といえそうですが、時間と空間を経れば新たなものとして再認識されるということもあり得ます。その1例が、美瑛の青い池です。

 青い池と言えば、初雪降る青い池が有名ですが、青い池の発見者は高橋真澄氏と言われています。氏は西暦2000年前から撮影していて、写真愛好家達に広まったとされています。それが10数年の時を経て、ケント白石氏の作品がアップル社の壁紙になって世界的に知れ渡ることになります。国内ではクリシェでも、海外的には新たなものとして受け入れられたということになります。最初に書いた「それなりの意味」というのは、習作とともにまれに再発見されることを含むということです。

 美瑛のプロ写真家の方々は、こうした意味で新たな作品作り、被写体を探し発表て、自分の写真家としての独自の存在価値を見出しているように思います。

肉眼とカメラ 2

40

 同じ図となりますが,今回は,赤丸部分のことです。

 前回までいろいろと書いたのですが,「人間の視覚は視点を合わせた部分をつなぎ合わせて,光景全体を認識している。」こと,また,個々部分部分に見ているので,カメラのように,1つの露出,1つのホワイトバランスで撮影したイメージにはならないと思います。従って,人間の方がカメラよりも勝っているということになります。

 露出でいうと,逆光での人物を普通に撮ると,背後の光が強く,カメラの方が勝手に暗く写していまい,せっかくの人物が暗く写ってしまいます。そこで,そうした場合のコツとして,露出補正をプラスにして撮影すると,人物は明るく写りますが,背後にある青空も白飛びかそれに近い明るさとなってしまいます。この写真違う! と思っても,そこは肉眼とは違い機械の仕事というわけです。人間の認識では,人の顔も逆光でありながらも暗くは感じませんし,空の青さも見えるのですが,それは個々に見て認識しているからです。頭脳では,どちらもよく写っている状態なのです。

 そこで,この人間の「見た目どおり」に近づけるのが「現像ソフト」を使った現像の1つの目的になります。上記では露出のことでしたが,明るさが異なると色にも違いを及ぼします。つまり,空や大地・農地,農作物などの諸々のものの色にも違いを及ぼすものですので,露出の補正だけでだめな場合は,ホワイトバランスを変えることも重要になってきます。ところが,その現像ソフトが,全画面を一律にしか補正できないとなると,カメラと同じです。前にも書いたように,どのカメラも元となる光のデータを解析したものをもっているのですが,液晶画面で確認などをする画像は,カメラ内ですでに均一の補正を行った(つまりカメラ内現像して)ものです。

 そうなると,上記の逆光・人物の画像の現像だと,人物の部分とその背後の部分と別々に補正をしなければなりません。ここで重要なのは,使っている現像ソフトが,「部分的に範囲を指定して補正をかけられる現像ソフト」かどうかということになります。どうでしょうか。(まあ,大体が写っていればよしとすれば,それでいいのですが。)
 まさに,人間が個々を見て,明るさや色を確認したように(見たように),写真データを部分・領域ごとに現像できるソフトを使ってこそ,人間の見た目,見た目どうりになるのだと思います。

 肉眼,眼球から書き続けて,やっと1つの結論となります。カメラは人間の認識どおりには写せない。従って,部分・領域毎に補正のできる現像ソフトを使って補正しなければ,「見た目どおり」の写真には近づけない,ということになります。

 このシリーズというか,この写真考は,これから,その見た目どおりに現像することの難しさ,そもそも見た目の色をどう再現するのか,そのためにどうするのか,といった方向へといくことになるでしょうか。テーマ,モチーフなどとともに,厄介でありながらも,ステップアップには必要な考察事項だと思っています。
 
  

求める写真(2)

25


 求める写真(1)の続きです。

 プロと同行して撮影しても、やはり見所が違いますし、写真としての出来が違います。焦点距離も、カメラ設定も違い、構図になる場面を切り取っていて、描画性も違います。

 眼前の風景は変わらないのですが、素人とプロとでは違います。見る視点、切り取る視点、それにカメラ設定や現像が違うのだと思っています。そこをなんとかして埋めたいものです。何がしらの学習や工夫、感覚等の練習、訓練(この言葉は高橋氏でした。中西氏は修行と言っていました。)で、Essenceまでとはいかなくても、「Essenceを含んだScene」の範疇の光景を見出して写真が撮れるのではないかと思うのです。

 まだ、View、Scene、Essence、それぞれの概念は漠然としていますが、Sceneあたりから、構図やカメラ設定、焦点距離の選択、Raw現像技術などの写真技術の巧さが加わってくると考えます。無論、風景ですので、時間や季節といった状況の選択が大きいかと思いますが、それに巡り合うこと(さらにいうと積極的に撮りに行くこと)が大切かと思っています。そして、それらが全て整ったベストのものが「Essence」ある写真ということでイメージしています。まあ、これは難しいでしょうから、Essenceを捉えきれなかったScene、あるいは、Esseneを含んだScene写真あたりだと可能性はありそうだと思っています(構図的な切り取り方の点で)。

 「Essence」について。
 おそらく、構図的には意外とシンプルで明確かもしれません。風景では安定感が要素の1つですが、大胆さや動き、勢いが感じられるものも含まれるでしょう。派手な色彩もあるかもしれませんが、グラデーションの美しさをも含むもの。やはり描画性は高く、繊細さもあること。そして、何よりも、写真としての新鮮さ、誰かに似ているのや、かって見たことのあるような、オリジナリティーのないのはダメでしょう。まあ、これについては、感覚や感性が人と同じになるわけではないので、突き詰めていけば、オリジナリティーとなるのではないかと思います。

 求める写真としてのEssenceの大きな要素については、自然条件や光,あるいは地形的などの条件が重なり,普段は見られない非日常性という点だと思います。極端な例としては,まさに自然界の奇跡的光景というところです。美瑛・その周辺であり得るのでしょうか。この意味では,時々出かけて出会う光景にいつもEssenceがあるわけではないかと思います。従って,朝夕の斜光,逆光,雲間のスポットライトといった光や,パッチワークといったパターン,そして,四季の変化など,ある程度写真を撮る方々だったら選ぶであろう条件の中でEssenceに近いものを追いかけるということになります。そして,運が良ければ,その中で偶然か,先読み移動してEssenceを撮影できるという幸運に巡り合えるかもしれないということになります。
 もう一つの可能性として。Essenceには本質,真髄,基本要素(エキス),精などの意味があります。写真としては,上記に述べたように,まさに誰も見たことがないものを撮るのが写真の本質であり真髄です。奇跡的光景,絶景というようなことですが,日常的にも誰もが見過ごすような,誰もが気づかないような事象をとらえるのも写真の本質,真髄かとも考えます。この意味では,常識的なものの見方や考え方から離れた感覚,視覚からの撮影というのも,このEssenceに含まれてくるのではないかとも考えます。
更に「精」という意味からも,撮影し現像できるかどうかは不明ですが,心象的な風景の描写もありかとも考えます。
    (つまらないかどうかは分かりませんが,読んでいただいてありがとうございます。でかける毎に,Sceneを選び,Essenceを問い直しながら写真を撮るようにしています。)
 

求める写真(1)

05
 自分の写真はどこを?目指すのか。  英語ですみません。ニュアンスとして近いか、自分なりの意味合いも込められるかと思い英語にしてみました。

 いつも写真を撮り、それを選択してRaw現像を行っていますが 、私自身は写真で一体何を求めているのかということに、写真から離れた時間にフッと思うのです。撮影技術はもちろんですが、写真の仕上がりやその内容への満足がイマイチなのです。「楽しければいいじゃない」というのも聞きますが、それだけでは満足できない自分がいます。とは言っても最終的には感覚的に満足するわけなのですが。思考的にも、願望的にも満足するような方向性もなければ、という,これまた感じなのですが。

 今まで、3人のプロの方と写真を撮ったり、様々な本も読んだりして、自らの写真とは何なのかということで、また考えたことを書きたいと思います。
 直接的には,過日の東川写真塾講師の上富良野在住のプロ写真家の高橋真澄氏のお話がきっかけでもあります。高橋真澄氏の「状況写真」という,ありふれた,行き当たりばったり的な写真,構図にも甘い写真というご指摘から始まり,プロの写真でも博物館所蔵ではなく,美術館所蔵にしたいと語っていた思いも加味してみたいと思いますが,氏からはこうした英語の概念もでていません。あくまでも個人的な位置付けということで書きます。

 まずは、この図全体の意味合いから。
 これ全体が風景、光景と呼ばれ、肉眼的に「綺麗!面白い!」と目に入るものです。そして、その中には、「写真として優れたものが撮影出来る光景」が含まれているということを表しています。ただ見て綺麗という感じが強い「View」から、写真としても美しいものが撮れる光景である「Scene」。そして、ハイレベルな人やプロの人達が撮るような光景の「Essence」,と位置付けてみましたが、それらが同時に含まれているということを表します。詳しく言えば,空間的・地形的,時間的に優れた光景を含んでいるということで,それを如何に捉えるのかということが課題となります。以前に使った言葉だと「フォトジェニック」というのが「SceneからEssence級」という感じです。  (2)に続く。

 

 


 
 



 

虹と雲4

 虹

 今回、東川の撮影ツアーである東川写真塾に参加して、いろいろなことを学びました。講師の高橋真澄氏のご自身の作品の解説と、参加者提出作品の講評がとても参考になりました。今、記憶を辿りながら印象的な文言をメモしているところです。今回の写真はその塾後の撮影ですが、一応の成果を極端に表しています。

 ・虹が主役としたら、「主役を強調すること」ということで、手前のグリーンが雲で隠れ暗くなるまで待ったこと(明暗差による強調)。しかも、主役にピントが来ることで、グリーンや林にはピンがあっていません (ピントによる強調)。ピントの方は、主役へのピンボケがダメということで、あえて他はピンボケになるようにしていますが、自然風景はパンフォーカスが主流ですが。

 撮影ツアーも、こうした講評などがあると、参加者が同じような写真を撮っていますので、たとえ自分が提出した写真でなくても、講評が得られるということでは、大変に良いものです。撮影だけのツアーもプロの目による撮影スポットの追跡方法がわかるのがいいですが、撮影した写真のプロによる評価が聞けるというのが最高だと思いました。

 今までのメモでは、「半径2mの写真」とか、「状況写真」とか、「雰囲気は感じる写真」など、「アマチュアらしい写真」の評価の言葉も多く聞くことができました。少々汗ものなのです。半径2mというのは家族に見せて、どこに行ったかなどで、いいねと言われる写真。状況写真というのは、例えば、たまたま虹に出会って、それを撮影したというようなその場の状況を写した写真で、普段では見られないような光景・状況を撮影した写真ということ。いずれも、旅行写真的なものかもしれないということでしょうか。雰囲気というのは、撮影者が何を撮りたいのかは感じれるようなものということでしょうか。やはり、何を撮りたかったのか、不明な写真ということです。

 東川写真塾では、たまたま虹の出る状況をかなり追跡しました。虹の撮影では世界一と豪語してもいる高橋真澄氏ですので、その一端を学ぶことができ、上の低い虹を追いかけることができました。その後、再度、天人峡や十勝岳に出向き復習をしながら、塾当時を思い出しています。 
  

写真とは? 

51

 20日は朝から絶え間のない雨。午後6時半頃には土砂災害警報が発令。一部地区には避難勧告も出たとのことです。自宅位置は市内でも高いところにあるとはいえ、庭と自宅の間には一時5cm程のプール状態にもなり、家の土台が半地下の車庫と部屋があるということで、雨水の排水ポンプがフル活動しています。明日も台風が来るようです。

 こんな雨の日はということで。「写真の性質」を考えていくうちに、写真には撮影者と鑑賞者の2つの立場があることや、撮影者として写真の性質を考えると、その断片性と表現性には撮影者の意図が深く関与していることに気づきました(当然のことですが)。どんな被写体をいつどう切り取るか、さらに、カメラ設定や現像を含めての写真技術を駆使してつくられた写真ですので、撮影者の感性や知的な動機による意図が込められていることを「写真の性質」に加えました。
 ・写真の性質 記録性、二次元・平面性、複写性(デジタルということで追加)、そして、断片性、表現性。 時間的断片にフレーミング・構図を関連させましたが、撮影時刻を選ぶことも「時のフレーミング」ということです。その前までは、シャッタースピードや長時間露光をイメージしたのですが、風景写真としては、時刻の方がより現実的かと思います。
 ・表現性について これも「断片性」に関連づけできそうですが、撮影者という立場からは、独立させた方がわかりやすいかと思いました。表現性から記録性への矢印を付けたのは、作品としてよりも、思い出や記念写真的なことを想定したものです。
 ・左の鑑賞者側は、参考までにということで、写真を見た際の印象や鑑賞の方法、評価を簡単にえがいたものです。中に「文化的背景」とあるのは、おそらく外国や、関東・関西、都会と田舎等の文化的違いで、受け取り方が異なることもあるかと思ったからです。

 写真の性質を考えていくうちに,このマインドマップからは,「うまく撮る写真技術」から「表現のための写真技術」への意識転換が重要かと感じました。風景の場合は,撮影者が人為的に被写体を動かしたり加えたりして構成できないので,フォトジェニックな被写体の出会いと,その際のフレーミング(焦点距離も含め)が重要だと改めて考えさせられました。
記事検索