
日本列島に人類の遺物があるのは、3万年以上前の旧石器時代で、その後1万年6000年前からの縄文時代となります。この時代は、間氷期で暖かくなり海進が進んだ時期で、鬼界カルデラの大噴火があった時期となります。
縄文時代の人が何を考えていたのか、どんなことを思って暮らしていたのかということは、記録としての文字がなかったというが定説ですので、遺跡から考えるしかないようです。
<縄文時代の埋葬>

さて、思想的なものとなると、死にまつわる埋葬方法、場所などがヒントになるかもしれません。

・土を掘るのを簡素化するため(労力節約説)
・胎児の形をさせて再生を願った(胎児位説)
・石を抱かせるのは、再び生き返らないようにするためとか(死霊鎮圧説)、遺族からの贈り物だとするもの
定説は、再生することによる災いを防ぐ、死霊鎮圧説というものです。日本にある後の神道の「穢れ」を念頭においた考え方であろうと想像されます。それならば、なぜ、足腰を曲げるために死者に触れたのだろうか、さらに人の往来のある場所に埋葬したのでしょうか。そこにはもっと深い意味、思想があったと思います。
個人的には、胎児位説に説得性があるように思っています。平均寿命が30歳程度の時代です。死に出遭う可能性は今よりも格段に多かったと思います。女性の出産可能なのは15歳としても、子供がその頃になると親が死ぬということになります。そうした中では家族間や親戚間の絆は今以上に強かったのではないでしょうか。季節が巡り草花がまた咲くようにと、大地に穴を掘って胎児の姿をさせることで、再生を願ったというのが意味ある解釈だと思います。特に幼児は壷に入れてそれこそ大切に埋葬したことを見ると、再び、お腹の中に子が授かることを願ったのだと思います。ムラ人もまた再生を祈り、身近な人の霊魂が人々の生活を守ってくれるものと願ったのかもしれません(このあたりは少し飛躍でしょう)。埋葬場所に草木が生えたり、虫がいることもまた、再生、転生の一つの現れであったかもしれないのです。
世界では旧石器人が埋葬時に花をたむけたようなことも読みましたが、弔いへの思いは、今日の宗教でも「再生」に似た考えがあるようです。それは神の国で復活するとか、極楽・浄土に行くとか、これもある種、どこかの国での再生ということですから。

<弥生時代の埋葬>

魏志倭人伝には、葬儀の様子が書かれています。「始めて死するや停喪すること十余日、時に当たりて肉を食わず、喪主は哭泣し他人は就きて歌舞し飲酒す」とあります。喪に服すというような習慣と今の通夜の飲食のようなことがあったと思われます。