縄文時代の人口分布をみると、東日本優位です。ピーク時では、東と西の人口差は圧倒的です。
 当時の人口は、時期毎の遺跡の数や小集団等の人数からシュミレートされたそうです。縄文早期は人口が2万人、前期11万人、中期26万人、後期16万人、晩期8万人という結果がでています。

1455667356

  東日本のやや寒い落葉広葉樹林地帯に人口が集中しているようです。これは、落葉広葉樹にはクリやトチノキ、クルミなどの保存できる実が得られることや、海や川でも捕れるサケを食料にしていたからだろうと考えられています。しかし、縄文晩期ではだんだんと暖かくなる中で、西日本の照葉樹林帯も東へと進み、食料が少なくなって人口が減っていったのではないだろうかと言われています。

 そして、弥生時代に入ってくると九州から稲作が始まって広がることになります。それから、縄文晩期・弥生早期に人口が減った関東地方、近畿地方も人口が増えて、西日本優勢の59万人という様相がみられてきていたようです。


 また、縄文時代にもどるのですが、縄文早期や晩期を除くと、関東地方と周辺の人口密度が高いということになりますし、「邪馬台国はどこか?」で有名な弥生時代にも、近畿地方と共に関東周辺が人口密度が高いということになります。古代史では、九州や近畿地方が注目されますが、関東地方にも縄文時代から何らかの有力な部族のようなものがあったのではと研究している1つの要因となっています。ちなみに千葉県には香取神宮、茨城県には鹿島神宮がありますが、ここのご祭神は、日本書紀での国譲りにもでてくる経津主(ふつぬし)や武甕槌・建御雷(たけみかづち)の神ですが、出雲の大国主命に武勇をしめして国譲りをさせた主役とされています。一般的には、日本の東国を勢力圏内にするための拠点として武神を祀ったとされています。しかし、他方、関東地方の勢力が天孫系であるアマテラスに協力して、国譲りが成功したと考えると、古くから有力な勢力があったことを物語っていると思われます。今は神宮と呼ばれる社は20以上ありますが、平安時代では関東のこの2社と伊勢神宮しかありませんでしたので、関東の位置づけはかなり重要だったと思われます。