


・元風景に流れるような変化を与える 霧は流れることは当然でも、元風景が刻々と変わっていくこと。
・私の日常的にはまれなことで、異世界の印象をもつこと。元風景の詳細を隠して、見えにくく、ときには見えなくすること。
・濃度にもよるが霧はそうした元風景に見え隠れする場所を与えること。
・日の出前後では、おそらく白である霧が、異なった色彩を見せること。さらに、元風景の色彩もかわることで、異世界観がさらに深まること。
・その発生や流れ、量は予測不可能の自然の成り行きであること。(発生しそうな条件は分かるが)
・空気中の水の小さなかたまりでしかないことだが、水自体が、みぞれ、雪、雨などと状態を変え、日常的な空気中では見えないこと。

グリム童話で有名なグリムの辞書でも同じようなものが見いだされるし、惑わし、欺く、間違ったものにも比喩される。日本の古典文学、源氏物語では、嘆きのため息が霧となっているし、古事記では命の息吹とされていたようです。西洋とはかなりの隔絶があり、西欧化された現代日本では、こうしたため息、息吹という比喩、象徴はないかもしれない。明瞭性、明解性を求める西欧は、それをさえぎるものとしての霧を認識するようだ(霧を「神のベール」とする詳細は不明)。西欧化された現代日本ではすでに負のイメージなのだろうか。
アミニズム的に自然の息吹、息づかいと捉えるのが、面白いかも、と思う。

・ローキーとハイキーの仕上げがある。
・ハイキーの場合 日の出の前後付近は光量が少なく、色彩も低いため、全体的に明るく仕上げて幻想的な仕上げにしている。
・ローキーの場合は、日の出後で光量が多く、雲がれば雲間からの光によってコントラスのある仕上げとなり、霧の明るさが印象的になるよう仕上げる。
・特に日の出前の天塩岳と山、丘のグラデーション的な光景がいい感じである。
・霧が地を這うようにして光景で丘の窪みに溜まる光景や林に立ち込んで光芒をつくるのもいい。
・今年多いのが霧がかなり高い位置まで達し、林や丘の稜線を見えなくすることがあり、丘と林などの微妙な見え隠れがすくなくなった。このことから、霧の流れによる動きにも注意をはって撮影すすようになった。
・霧光景とは言え、構図的には丘、林などの配置に気をつけて、複数箇所の候補を頭に入れて撮影する。
・霧光景でハイキーの写真を見た人は、絵のよう、パステル画みたいで、写真ですかと感想をもたれたことから。写真の一般的な特徴で言う明瞭さとは逆の光景を見せるのが霧光景と言えるかも知れません。
長くなりますので、これ以降は次回に……