PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

三内丸山遺跡

写真についての個人的なメモです!

古代人のこころと自然観 その18 三内丸山遺跡その2

三内丸山遺跡から考えられるのは以下のことでです。

 ・最盛期には500人ぐらいの縄文人が住んでたいたとされます。
 ・居住区の外には、管理された人工林があって、その外に自然林がある。
 ・保存食にもなるクリを栽培、管理していた。漆器作りに必要な漆林の区画を設けていた。
 ・いわゆる山里のような管理された林で野草を採り小動物などを狩っていた。
 ・魚介類や原生林で大型動物や薪炭を得る専門的、分業的な小集落との交流があった。時には、大集落の縄文人が手伝いに行っていたことも考えられる。
 ・食べ物では、クリの出土が多く、イモ類や山菜、マメ類やヒョウタンなども栽培されていた。動物ではムササビや野ウサギなどの小動物が多い。魚類では、マダイ、ブリ、サバ、ヒラメ、ニシン、サメ類が多く、フグも食べられていた。調理方法としては「焼く」よりも「煮る」が多いとされている。また、エゾニワトコを主に、サルナシ、クワ、キイチゴなどを発酵させた果実酒を飲んでいた。
 ・鏃では北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形件月山、新潟県佐渡、長野県霧ヶ峰など、日本海を中心とした産地から黒曜石が運ばれてきた。装飾品となる非常に硬いヒスイは、新潟県糸魚川周辺から運ばれてきています。これらをみると6,700kmもの交易圏があったと思われます。この点では、津軽海峡を横断したり、黒潮や親潮、対馬海流の潮の流れなどを知り、航海技術をもった「海洋の民」との交流があったと思われます。

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 上図は居住域の大集落の一部の復元図ですが、このような場所に最盛期に500人が住んでいたというのが通説です。これに疑問を持つ説もあり、多くて100人程度が、食料確保や排泄や廃棄物等での限界との意見もあります。

 500人説で考えてみると、1家族が多くて5人とすると、夫婦2人が働き手となるでしょうから、100人以上もの働き手が、狩猟採集、栽培、燃料集め、土器造りなどに携わっていたことでしょう。それぞれの仕事毎に詳しい人が中心となり分業していたことでしょう。子供や幼子をみるために留守番的な女性もいたかもしれません。さらに、時期的に忙しくなる秋のクリの収穫、山菜とりもあり、あらかじめあの大型住居に集まっていろいろな相談をしたかもしれません。この大型住居や櫓の建造を考えると、日々の建造に必要な大人の人数や食料確保の大人の人数からは100人程度の働き手がいないと、不可能かとも考えるのですが、いかがなものでしょうか。

古代人のこころと自然観 その17 三内丸山遺跡その1

 今回は、山内丸山遺跡の生活域ということから、自然との関わりを少し考えてみたいと思います。   

 縄文時代では定住が始まったのですが、定住といういうことは、自然の中に人間の居住地域というものができあがることです。それまでは、自然の洞窟や穴、大木の下で火をともし、風や寒さをしのいでいたという自然の中での生活でした。しかし、定住と言うことでは、大自然の中に人工的な空間ができるということです。さらによく考えると、食料や飲料水など生活に必要なものを得やすい場所を考えて居住地域を選ぶという能力があったということです。そしてまた、居住地域内とその周辺での都市計画ならぬ「ムラ設計やムラ計画」もあったということです。例の埋葬場所がそうです。

<山内丸山遺跡の集落>

 山内丸山遺跡の居住地域とその周辺地域の研究による「集落生態系」というものが明らかになってきています。これをみると、居住域から生活域、さらに離れた区域での原生林(自然)というムラの様子から、自然との関わり方をみることができます。まずは、山内丸山遺跡のあった最盛期の様子です。これは遺跡発掘の考古学以外に、地質学や植物学、植物の分子遺伝子学などとも協力して作成したそうです。赤い部分が居住域となります。


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   縄文時代は間氷期で温暖化してきますので、海進と言ってどんどんと海が近くなってきて内水域や湿地も北側にあります。赤い居住域一体は標高20mで、まだ海進による影響がなかった頃でしょう。
 居住域の周囲のピンク色の区域はクリの林で、野生種のとは違い大粒で、遺伝子解析で同じ遺伝子のものが発見されています。これを見ると、食料として適切なものを選んで作られた人工林であるという結論です。美味しいクリが植えられ、食料や暖房、煮炊き用燃料としても利用されていたとのことです。ちなみに高さ20m程の物見櫓の柱は直径1mのクリだったそうですので、近間かどうかは不明ですが、クリの木を保存可能な食料として大事にしていたとともに、古くなったクリの木を大切に使ったと思われます。

 ピンクのクリ林の西にはウルシ林もあり、漆器を作るために作られたと思われます。漆塗りの漆器や装飾品が発見されています。この漆については、福井県の鳥浜貝塚から赤色漆の櫛が発見されていて、同遺跡からは1万2000年前のものとされる漆の木片も発見されていることから、漆塗りは日本が発祥ではないかと言われています。9000年前とされる漆塗りの衣服も北海道から発見されているので、日本全国に漆塗りが伝わっていたと考えられています。

 さて、上の図に戻ります。緑色の区域は二次林と記されています。二次林というのは現代用語ですが、人工的に伐採されたり、火事等に遭ったあと再生させた林で、いわゆる里山と呼ばれれいるものです。縄文時代でも、薪や炭を得たり、小動物などを狩猟したりする管理された林であったとのことです。従って、ここも日常の生活域となるでしょう。それらの外側は落葉広葉樹の林で、自然林、原生林となり、狩りの場所にもなったことが考えられます。

 林以外を見ると、居住域側には川があります。真水は飲料や食事には欠かせないものです。淡水魚も獲れたことでしょうし、漁労で海に出る際の出入り口にもなります。自然にできた小さな池や湖、あるいは湿地では鳥や大型動物もいたでしょうし、住居の屋根や壁に使われた葦も多かったでしょう。ところどころに小集落がみられますが、専業の人たちが定住していたのか、季節的、時期的に大集落の人々が仮住まいしたのかは個人的には未調査ですが、機能的な集落から分業的集落、専業的集落が分かれていった可能性を示唆するものとなるのではと思います。 
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