PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

リアリティ

写真についての個人的なメモです!

写真のリアリティ

 連日猛暑日がつづいた天気もなくなり、朝晩は10℃台前半で、肌寒さを感じるようになりました。北海道は急速に秋を迎えそうな気配です。本州は雨で大変な地域もあるようで、今後の天候が心配です。

 さて、「写真におけるリアリティ」ですが、下記のようなことをウェブにあげてみました。

「明暗のある光景や立体感・奥行き感があるリアリティが欲しい。私は、現実そのものをリアリティとすべきではなく、現実未満か現実以上で、心の真実に近いものや、遥か過去か未来にあるべきものをリアルとしたいと模索しているのだが。作品におけるリアリティというのは、実は現実ではないということだから。」

 ふっと感じたことを書いてみたのですが、あとあと考えるとどう解釈していいものなのか自分でも難しいですね。

 現実を記録化するにはスチールカメラやビデオカメラが最適な道具です。しかし、肉眼には敵わないために、肉 眼に近づけるには、カメラの各種設定や現像による調整が必要です。しかし、現実と同じなら美術品の写真などと同じです。とは言っても、カメラ設定、照明等を厳密にしなければ現実を写し取ることはできませんし、肉眼のダイナミックレンジにはかなわないので、ある意味省略されていることがあるかもしれません。
 それに平面の二次元表現ですから、立体感や奥行き感がでればと思っています。基本的には、ホワイトバランスや色相、細部の明暗や色彩の調整がなければならないと考えています。基本的には、これでリアリティを創りあげようと試みているという感じです。これが1つ目のリアリティです。

 2つ目は例えば印象的なもの、心象的なものが合う光景としたら、ハイキーやローキー、あるいは、鮮明さを弱くしたりします。これが現実未満や現実を越えたリアリティです。霧の光景は鮮明さがないのでこれが基本なのかもしれません。現実以後というのは、タイトルSurfaceでの表現のことで、肉眼では捉えられない光の違いを顕わにしたものと言えるかもしれません。

 これも2つ目だろうと思っているのですが、遙か過去と未来へのリアリティです。遙か過去と言えば「郷愁」や「懐かしさ」と言った印象を与えるような表現、もしくは、それを意図した写真です。未来というのは、過去から未来へと続くような普遍的なもの、あるいは幻想的で時間を超えたものという方がわかりやすいでしょうか。

 リアリティは現実という意味もありますが、真実というのもあります。文学小説、私小説などはフィクションですが、何らかの真実が綴られていて我々を感動させるのに似ているのではないかと思います。肉眼よりも心で見たようなもの、感じたものを上手く表現できればと考え、とりあえずはこのような解釈をしてみました。

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麦畑という群にあっても、トラクターの轍とピントのあった箇所には個体の麦がきれいに描かれていて、その個体が幾百、幾千万…と集まっているのです。

 なぜ、このようなことを考えるかというと、テーマやコンセプト、被写体に関わることで、私の1つの解釈だからです。写真が氾濫する時代ですので、何か特異な考えを持って写真を撮らなければ個性が出ないかもしれないからです。奇抜な写真、色彩鮮やかな写真も一般受けはしそうですが、個人的なテーマやコンセプトで撮る写真が重要になってくると思われるのです。

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 これはnoteのタイトル画像にも使っていますが、本当にこの時間に雪原がこのように青いのか?と思うことがあります。写真の技術書でも、雪の冷たさを表現するには青味を加えるといいと言われています。これは見た目、カメラ映像よりも、感覚や印象を付け加えなさいということになります。実際、逆光気味なのでカメラでの雪原はもっと暗いことになります。肉眼でもやや暗い青です。それをこのように明るくし、雪原の凹凸もわかるように現像し、空の青との同調と夕焼け色との対比を試みたのです。これはもう現実ではありません。

リアリズムと,個性

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 拓真館裏の赤い屋根の小屋のある丘で  農道も開通して,フキノトウが顔を覗かせていました。
 雪の残る十勝岳連峰を背景にしました。

 いい写真が撮れる場所も紹介する「パシャデリック」という投稿サイトがあります。アメリカ在住の日本人カメラマンが主催するものです。北海道にも撮影にくることがあるそうで,私の朝霧の写真にコメントをいただいたのを記憶しています。
 上記標題は,その方の文章を読んでいてメモしておかなければと思いました。
 彼がアメリカの風景写真家と話した中で,「どうして日本はまだリアリティにこだわっているの? アメリカではもう10年以上前に終わっている…」と言われたそうです。欧米化してきたと言われるにほんですが,どうも日本とアメリカとでは,写真についての考え方も異なるようで,すでにカメラで撮影するリアリズムを超えて,それを補正・加工して,個性的な作品づくりが主流ということらしいのです。
 さらに,日本では,「撮って出し」や「モノクロ」もいまだ重視され,加工や修正を嫌う人々も多いらしく,カラー化した今でも,肉眼では絶対に見えないモノクロを上等がっているような面もあるとか(自分自身の印象の誇張かな?)。また,アメリカでは,家族写真を飾るのはもちろんだそうですが,風景写真も飾っているとかで,写真の需要が多く,従って個性的な写真が好まれるとのことらしいです。

 私のめざす「視覚延長上の補正・修正」も,リアリティから外れないということですから「日本的」なんですね。それから彼は,日本の写真もアメリカのPhotographyもどちらもアート性があり,「一方はカメラの機能性に縛られた範囲で表現するアートで,もう一方は,可能性をみていくアート」と言っています。また,どちらのアートも個性を追求していくわけだが,横並びという日本の別な文化がアート性を制限させてしまっている気もすると言っています。

 最近,時節柄桜の写真が多いものです。猫も杓子もと言ってはいけないのですが,時期になれば花見をしてというような写真です。私も桜が咲けば撮りますが,あくまでも,桜の季節をより感じるためというのが,根底にあるような気がしてなりません。日本的な「風流」で自然を感じることがまずあるようで,それを被写体としてどう写し込み,見せるのかということを強く意識し思考し,行動に移すことに欠けているのではないかと思ってしまいます。どすれば個性的に撮って,個性的に仕上げるのか…足りないのかもしれませんし,心のどこかでリアリティが制限をかけるのでしょうか。こうなると,まだまだアメリカや海外の投稿サイトで,その表現とやらを見なくてはいけないような感じです。
 さて,今年の桜撮影ですが,早朝の朝日とのコラボもいいのですが,逆光では色が褪せます。そうすると,透過光で桜色を出すとか,水面反射とのコラボとか…。とはいえ,昨年は入院・リハビリの4月・5月で,桜撮影ができなかったので,方向性も計画もなしで行ってしまう可能性もありで,その場で判断とういうことにもなりそうです


  
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