前回からの続きですが。その最後の部分から。
「写真」は、当然に西洋文化の中で発展したものですので、完全性や完璧さは「神」を理解し、神に近づくような神聖な行為であるとされていると考えました。人間の肉眼での見え方はいわゆる曖昧であり、不完全であるとされていて、神がものを見る見方としての完全性を表すのが「パンフォーカス」であると個人的に考えるのです。これが前回でした。今回は下の表題です。
「自然」の見方、考え方の根底
この辺りの考えは、断片的な知識の寄せ集めで、しっかりとした論ではありません。しかし、西洋文化に深く根付いている宗教や、宗教と科学との関係には興味あることがあります。
その1つとしては「自然」についての考え方です。きびしい砂漠といった環境で熟成された一神教では、自然や動物などは神が造り、最後に造られた人間が支配すべきものとしているのです。こうした見方は、約1万年以上もの間、豊かな自然の中で生きてきた日本人の源流である縄文人から続く日本人の見方とは異なっていると思います。宗教的にはアニミズムといって、自然に霊的存在を感じ、畏敬とともに自然との心的一体感を享受するものがありました。山や巨木、岩などを神聖なものとしたり、はたまた一部の動物を神の使いとするようなことです。天照大神を祭るような神社・神道でさえ、このようなことが残っています。古くからの信仰的な精神を残してきたと思われます。
こうした自然や動物への感情や思いを反映した宗教はアニミズムと呼ばれ、西欧の人類学的にみれば「極めて原始的」であり、一神教では他のものを神とすることは許されないことから、「野蛮」とも称されるものです。しかし、後に伝来して広まった仏教(大乗仏教)には、「山川草木、森羅万象に仏性がある」ということが現代にも受け継がれていますが、ある意味、古くからの信仰的精神に似ているとも思うのです。全てのものー生命のないものでもー仏になることのできる仏性があるというのですから、西欧文化と日本文化でのこうした面での自然の捉え方の違いには大きな興味があります。
極端で誤謬をいとわなければ、自然風景の捉え方、は西欧の「客観的」「知的好奇心での美(やや曖昧、もっと吟味すべき表現です)」と日本の「主観的」「畏敬や憧憬、癒やしといった一体感を与える美」という両極端な捉え方を想像することができるのではないかということです。小鳥の鳴き声でも西欧は雑音と同じような脳の反応すると聞きましたが、日本人は言語領域にも反応したり心地よいものとして脳が反応するというらしいです。自然の征服と消費財として管理すべきものとしての自然と、豊かな恵(自然環境が叫ばれて自然のよさを見直していることも含め)を享受し、時には災害として損害を与えてその脅威をも充分知って愛されてきた自然、こうした差は大きいものと思います。
実際に西欧人や日本人が、どう自然風景や自然風景写真を捉えているのか興味津々です。この辺りを分析すれば、「自然」を見る視野や解釈が広がるかもしれませんし、日本人の自然風景写真が西欧でも理解されることがより深まるかもしれません。
撮影者の意図と鑑賞者の解釈
パンフォーカスから、ひょっとして自然観の違いが西欧と日本にはあるのではないかと書いてきました。
パンフォーカスでのよさについてもどると、パンフォーカスでの写真は、隅々まで鮮明に見えることから、どこに何があるか、何が写っているのかがわかるので、非常に情報量が多いということができます。情報量が多い「ウィリーを探せ」という絵本の1ページにも似ています。
写真家は巧みに視線を誘導するような技法や構図、色彩や明暗などの現像技術を組み込んで撮影者の意図を込めますが、情報量が多いだけに、鑑賞者の自由な読み取り、多様な受け取り方をも可能にしているのがパンフォーカスなのかもしれません。
また、別な言い方をすると、写真もまた鑑賞者にとっては1つの「view」として、鑑賞者自身が「scene」を選んだりして「essence」をも見いだせるような可能性を残すものかもしれません。
「写真」は、当然に西洋文化の中で発展したものですので、完全性や完璧さは「神」を理解し、神に近づくような神聖な行為であるとされていると考えました。人間の肉眼での見え方はいわゆる曖昧であり、不完全であるとされていて、神がものを見る見方としての完全性を表すのが「パンフォーカス」であると個人的に考えるのです。これが前回でした。今回は下の表題です。
「自然」の見方、考え方の根底
この辺りの考えは、断片的な知識の寄せ集めで、しっかりとした論ではありません。しかし、西洋文化に深く根付いている宗教や、宗教と科学との関係には興味あることがあります。
その1つとしては「自然」についての考え方です。きびしい砂漠といった環境で熟成された一神教では、自然や動物などは神が造り、最後に造られた人間が支配すべきものとしているのです。こうした見方は、約1万年以上もの間、豊かな自然の中で生きてきた日本人の源流である縄文人から続く日本人の見方とは異なっていると思います。宗教的にはアニミズムといって、自然に霊的存在を感じ、畏敬とともに自然との心的一体感を享受するものがありました。山や巨木、岩などを神聖なものとしたり、はたまた一部の動物を神の使いとするようなことです。天照大神を祭るような神社・神道でさえ、このようなことが残っています。古くからの信仰的な精神を残してきたと思われます。
こうした自然や動物への感情や思いを反映した宗教はアニミズムと呼ばれ、西欧の人類学的にみれば「極めて原始的」であり、一神教では他のものを神とすることは許されないことから、「野蛮」とも称されるものです。しかし、後に伝来して広まった仏教(大乗仏教)には、「山川草木、森羅万象に仏性がある」ということが現代にも受け継がれていますが、ある意味、古くからの信仰的精神に似ているとも思うのです。全てのものー生命のないものでもー仏になることのできる仏性があるというのですから、西欧文化と日本文化でのこうした面での自然の捉え方の違いには大きな興味があります。
極端で誤謬をいとわなければ、自然風景の捉え方、は西欧の「客観的」「知的好奇心での美(やや曖昧、もっと吟味すべき表現です)」と日本の「主観的」「畏敬や憧憬、癒やしといった一体感を与える美」という両極端な捉え方を想像することができるのではないかということです。小鳥の鳴き声でも西欧は雑音と同じような脳の反応すると聞きましたが、日本人は言語領域にも反応したり心地よいものとして脳が反応するというらしいです。自然の征服と消費財として管理すべきものとしての自然と、豊かな恵(自然環境が叫ばれて自然のよさを見直していることも含め)を享受し、時には災害として損害を与えてその脅威をも充分知って愛されてきた自然、こうした差は大きいものと思います。
実際に西欧人や日本人が、どう自然風景や自然風景写真を捉えているのか興味津々です。この辺りを分析すれば、「自然」を見る視野や解釈が広がるかもしれませんし、日本人の自然風景写真が西欧でも理解されることがより深まるかもしれません。
撮影者の意図と鑑賞者の解釈
パンフォーカスから、ひょっとして自然観の違いが西欧と日本にはあるのではないかと書いてきました。
パンフォーカスでのよさについてもどると、パンフォーカスでの写真は、隅々まで鮮明に見えることから、どこに何があるか、何が写っているのかがわかるので、非常に情報量が多いということができます。情報量が多い「ウィリーを探せ」という絵本の1ページにも似ています。
写真家は巧みに視線を誘導するような技法や構図、色彩や明暗などの現像技術を組み込んで撮影者の意図を込めますが、情報量が多いだけに、鑑賞者の自由な読み取り、多様な受け取り方をも可能にしているのがパンフォーカスなのかもしれません。
また、別な言い方をすると、写真もまた鑑賞者にとっては1つの「view」として、鑑賞者自身が「scene」を選んだりして「essence」をも見いだせるような可能性を残すものかもしれません。