PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

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写真についての個人的なメモです!

視覚以前

 <同じような視覚だが>

 見える物を撮影するのが写真であり、デジタル処理されたデータによってPCやディスプレイで再現できます。はたまた、プリントして物として残すことができます。その出力されたものが見える物であるかもしれませんが、情感を醸し出したり、心象的なものを「表現」することができます。

 何を写すのか、どう写すのか、どのようなカメラ設定なのか、どのような現像処理なのかは、やや技術的でもありますが、見た物をどう表現するかということにもかかわってきますし、プロの写真家(写真作家)であれば、己だけの被写体や表現を求めているようです。そこには、被写体への独特の見方や選び方等があるようです。

 そして、プロといえども視覚は人よりも異なることはありません。被写体への独特の見方や選び方は、テーマやコンセプトといった哲学的な裏付けをもとに、被写体を見て、選んでいて表現するからこそ、他とは違った写真を生み出しています。

 <視覚以前の考え方>

 このようなテーマやコンセプトをもつことによって、今までの自然や世界に異なった見方(自然観、世界観)を与えたり、新たな意味をもたせることによって、写真を作品として生み出しているということになります。
 自然を見て写真を撮っているようですが、これは視覚以前の問題ではないかと思います。


 今までの自然観や世界観とは異なる! とまでは行かなくても、自分が求める世界を見つけたいものと常日頃思うのです。「霧」への拘りがどうして自分に生まれたのかというのもその突破口となるかもしれないとも思うのです。


  視覚は光を受容することで活性化される感覚ですが、脳の処理で様々な意識・認識を呼び起こします。視覚された肉体外の物・事象の理解の仕方・認識も一定ではなく、知識や経験で変わってきます。もちろん、子供と大人で違いますし、人によっても違います。

 しかし、この過程を逆にしてみれば、自ずと自然を見る見方も変わり、写真も変わってくるのではないかと思います。ここまでは、今まで考えてきたところです。

 <新たな見方、構えは、自己の中から>
 
 被写体である自然の「何を」「いつ」「どのように」切り取り、表現するのか。これが普通の構えです。しかし、そこにはいつも被写体と己が対峙しているだけです。もう少し深めたいところがこれです。あくまでも「写真を撮る」という主体は己です。しかし、そこにある被写体が自己の存在とは別にあり、写してやる(ショット=撃つ、撮る、)というようなことよりも、被写体は己なくしてはありえない存在であり、己なくしては意味を持ち得ないという存在の被写体であるならば、どうでしょうか。

 これを考え詰めていくと、自分が存在しているからこそ、自然があり世界がある。あるいは、自己という経験体が見る自然や世界は、突き詰めれば、自分だけがもっている理解の仕方や感じ方でしか自然や世界は現れないということです。確かに他人との共通項はありながらも、その共通項で写真を語るならば、観光パンフレットや誰かのマネになってしまう恐れがあります。インスタ映えならぬ「綺麗!」「鮮やか!」で終わることになります。絵画などの美術では、印象派の登場によって、古典的な美というものから脱却して、訳のわからなような抽象画へと変わってきました。以前に記した「鏡と窓」のようなものへと移ってきたということです。

 自らの心象や印象、はたまた世界観を反映した物が作品と言うことになります。これは重要な点だと思います。「自分だけが持っている理解の仕方や感じ方」とは書きましたが、それを反映させるのが作品と言うことになります。

 そうすると、この「自分」を知らなければなりません。そこにある物(自然、世界)への自分なりの理解や感じ方とは何かを知らなくてはなりません。とは言っても、理性的に理解の糸口がつかめるのかといえば難しい。とっかかりは、やはり、自分の趣向、好き嫌い、気持ちいいとか、安らぐでもいいでしょうし、ある種の緊張がある、興奮があるなど、惹かれるものでしょうか。

 そして、それらに「なぜ?」をつけて解明していく作業が必要なのではないかと思います。そして、
 
 ・惹かれる物について、辞書でも事典でも手にして調べる。
 ・自分の生い立ち、思い出にきっかけがあるかも知れないと、昔を思い出す。
 ・過去に読んだ書物や見たことのある映像の中にきっかけがあるかもしれないと思い出す。
 ・風景でも自然に近い風景という場合、はやり、西欧や日本での自然観に違いがあるかもしれないと
  調べる。
 ・さらに、宗教観にも触れる。(以前、アニミズムを紹介しました)
 ・そして、過去の写真の中で、自分の好きなものがどう残されているのかを調べるとともに、現代の流れ、傾向を調べる。

 こうしたことで、必ずしも見つけられるかは不明です。なぜなら、それは、惹かれる発端や理由を見つけられるかもしれませんが、そこに他にはない独自なものがあるかは、自分が創り出さなくてはならないからです。

 「守破離」 やはり師をもつことがいいのだが…。

 「守破離」という言葉があります。これは師をもちこれをとことん学ぶ=守。つぎに、これを破る、破壊するとなります。とことん師の通り行っていっても、必ず自分というものがあり、どうしてもここは少し違う、かなり違うという点がでてくるのではないでしょうか。そうして少しずつ崩れてきて「破」となります。しかし、これで本当に自分なりの創造を得るかといえば、師との対比での自分であることから、創造のきっかけをみつけただけに過ぎないと思います。だからこそ、最終の「離」があり、師の教えとそれへの改善をこえた、自分の独自の世界を創り出すことができるのだと思います。

 あの東川でのワークショップの中でも、中西氏になりたいという若者がいたようですが、中西氏はとことん真似ることで自分なりの世界が見つかるというようなことをおっしゃっていました。これも、「守破離」の「守破」までの道程を述べたものと思われます。誰の師ももたずに、そうした世界を創り出すのはごく一部の人間でしょう。少なくとも、師をもつこと、師に近い模範・目標をもつことが必要だと思います。真似ることで技術も得ることができます。もし会話の機会があれば、さまざまことを聞くことができます。それこそ、プロが生活をかける中で得た貴重なことを得ることもできます。素人が数年して得たことが数時間で得ることさえできると思います。
 しかし、テーマやコンセプトは自分でしか考えることはできません。たとえ、師を得ても多くのヒントをえるかもしれませんが、所詮は自分で見つけるしかないのだと思います。

写真を読み解く 4 主観と客観

 前回で終わりにしようとしましたが、さらに続けます。

 前回のまとめとして
 「第一印象よりも写っているものを、じっくり隅々まで見ること。そして、ここが大事ですが、自問自答なので、「自分が撮るならばあるいは現像するならどうするか」という視点を持つことで、いわば「自分の写真」として見て解釈することが大事となります。」と書きました。しかし、写真には、技術的な面と、テーマなどについての思考・哲学的な面があると思うのです。前回までだと、まさしく技術面のみを書いたように思うのです。


 思考・哲学的な面とは、なぜ写真を撮り表現するのか。作品を残すのか。何を伝えたいのか、などを読み解くことも重要と言うことになります。写真のキュレーターのように、写真の歴史を知り、現代や未来の写真の傾向などからの読み解きは極めて難しいとは思います。鑑賞の経験があまりない、しかも、自分の好みで限られた写真を見てきたので、ごく限られた経験での想像でしか解釈できないこととなりますが、自分の写真を求める上では必要なことだと考えるのです。

 繰り返しになりますが、まずは「じっくり隅々までみる」、そして、「自分が撮るならば…」と自問自答する、としましたが、この自問の中に
「この写真のテーマは何か?」
「伝えたかったことは何か?」
「感じてもらいたかったことは何か?」を付け加えることです。

 もし写真集ならば、タイトルや巻頭言や後書きである程度の情報が入りますので、それがそうなのかを確かめるような問いとなるでしょう。単写真であればタイトルになります。写真を投稿する際もタイトル付けには悩まされますが、何らかのヒントにはなるかと思います。意外と写真を見た感じそのままと言うのもありますが、そうではないものもあります。さらには、「無題」とか記号や数字と言うのもありますが、これは手探りとなるでしょう。タイトルは、一般的には何を表現したかったのか、その意図が伝わるものがいいと言われています。従って、そのタイトルの理解というのが参考にはなると思います。いずれにしてもテーマなどの読み解きは、自分の限られた経験、知識での「主観」となるでしょう。とは言え、いくら経験を積んで知識を増やしても、主観的な見方からは離れることはできないのが素人だと思います。

足跡 光と影

 夏季間には意識しない生き物。冬になると雪原の丘にはいく筋もの足跡を見ることができます。よく見るのはキツネです。下図の左です。たまに見るのが、中央と右です。中央がピョンピョンはねるウサギ。2つ並んでいるのがイタチらしいです。鹿は、キツネの足跡がもっと大きくて足跡の距離が長いでしょう。熊は冬は冬眠ですからないようです。

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 キツネは人家の近くまで寄ってきて餌をあさるようですし、早朝だと車道にも見かけます。除雪され車も通って硬くなっているために歩きやすいのでしょう(道路脇の側溝をネズミが通るとうのも聞いています)。
 日中は光の関係で足跡は見にくいですし、ファインダーでも確認できないことがあります。やはり、太陽が東か西の近くだと、足跡が見やすいです。

 下の写真もビニルハウスと丘を撮ったのですが、ファインダーでは全く見えませんし、現像の際もよくわかりませんでした。しかし、モノクロにすると明確に見えてくるのです。

 カラーでは隠れていた形状を露わにするもの、モノクロの凄さです。
 それとモノクロ・テレビも経験した年代ですので、モノクロ写真を見ると色彩を想像します。最近、モノクロの現像も増えたのは、「surface」的なテーマの関係もあります。「surface」というのは、色彩の下に隠れたものを露わにすると共に、見る側、鑑賞者に色彩などを考える余地を残すというようなテーマです。光の強弱のみのモノクロ表現で、カラー写真では見えないものを顕わにし、新たな見え方を表現するというものです。

 過日は単なる雪面を撮影しましたが、風景となると、鑑賞者それぞれが色彩をイメージするのではないかと考えます。昔の写真はモノクロでしか表現できませんでしたが、写真がカラーを獲得した後も廃れることなくモノクロが存続しています。色彩あるれる現代を「モノクロで表現」できるのも写真の特質です。

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 上の写真はカラーの時は足跡も見えなかったものです。身長よりも高いビニルハウスも積雪で半分以上が埋まっています。骨組みがうまくクロスする地点を選んでの撮影です。雪に埋もれた骨組みでは、この辺りが人が働く農地であることが理解できます。しかし、冬の休耕期ではキツネが自由に徘徊する土地でもあること(夏も来ているかもしれませんが)。人と動物の共生というか、両者の境界線上に農家の人は暮らしていることが読み取れます。この写真の雪の光に何を感じるでしょうか。
 と書いてみると、新たなテーマのき1つであったり、写真はテーマで撮るものでもあることにも気付かされます。

鏡と窓 その2

 前回は、「鏡と窓」から、写真の特徴、撮影時や現像時の表現性について考えてみました。

 「鏡と窓」は右脳と左脳 
 これを今の時代に当てはめて説明したある写真家によると、その分類の根拠は人間の脳の働きの違いから生まれるそうです。右脳と左脳です。右脳はアート感覚で、知覚、感覚、感情をつかさどっていて、左脳はロジック思考で論理、思考、分析をつかさどるものです。鏡派は、右脳で表現する写真で、窓派は左脳で表現する写真と説明しています。
 そして、なによりも、その両方が大事と言っていました。写真のテクニックが上手くても、好奇心をもって撮られたものがなければ「共感」のある写真は撮れないのではないか。しかし、写し出されたものを、論理的に説明できるものを持たないといけない。つまり、感覚に訴えつつ、論理的に説明できる写真を撮ることであると言っています。

 個人的には、被写体を見つけると、構図はどうしよう、カメラ設定はこれでいいだろうか、などと考えてしまいます。しかし、その思考・ロジックが過ぎると、その時の被写体のよさ、感覚的に惹きつけたものを見失うこともあるのかなと感じることもあります。最初の発見の感覚を保ちつつ、焦点距離を変え、フレームを変えて自由奔放に撮り続けることも大事かもしれないと感じました。連写だと同じフレームになりますので、少し変え、焦点距離も変えて撮り続けるといいのでは、きっちり3分割でなくてもいいです。主役や脇役はなどと、風景ではうまく行きませんので、とにかく撮って楽しめばいいのではかなだろうかということです。これは、アマチュアにとって大事なことなのではないかとも思います。

 こうしていくことが、あれがいい被写体だと感じる感覚(発見の感覚)が磨かれていくことにもつながると思うのです。そのためにも、たくさん撮って、たくさんのデータを持ち帰って、現像前に見比べて、自分の感覚にあう写真と、自分のロジックや、もしあれば「テーマ」にあうようなものを選んでいけばいいのかと思います。これが、「鏡と窓」を読んだ結論です。そして、さらに‥‥。

 楽しく、鍛錬、修行、テーマ探し
 
 撮影は鍛錬!と、あるプロ。私も一時は「修行」と言い聞かせたこともあります。勿論、カメラ設定も現像のノウハウも全くの初心者だったからです。それでも楽しかったのですが、初心者から次の段階(?)でキツくなりました。それで中断、休止だったのかもしれません。

 何よりも「撮影や現像を楽しむ」ことが大事なのかと思うようになりました。

 いわゆる被写体探しも、今日は「何が撮れるかな?」と、雪の日も、曇りの日でも出かけることにしています。こうした中で、時には「これはいいぞ!」とワクワク感があればいいのではないでしょうか。そして、フレーム(構図?)や作風にも影響するであろう「写真のテーマ」等を持てばいいのではないかと思うのです。
 そうしていくうちに、自分なりの発見の感覚が磨かれたり、ロジックと少しずつ噛み合う、フレーム感覚なども磨かれ、「テーマ」を含んだ写真を撮り、そして現像し、記憶に残る記録ができればいいのではないかと思います。

 プロとアマで、技術やセンス、立場はちがっても、いい光景に巡り逢いたいと願う気持ちは同じです。とは言え、それに出会うには、加齢による体力の弱化を抑えるような、歩いて撮影する鍛錬や、通い続けてカメラ設定や操作等が俊敏にできる修行が大切でもあるのかなァとも思う昨今です。

写真のテーマ 再考2

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 雪の結晶(別名:六花)
 大雪に雨という不安定な天候ですが、冷えた日にコンデジで撮影。まだ、2mm以下の小さなものですが、立派な形をしています。冷えてサラサラの乾いた雪に見られる自然のミクロの造形美だと思います。
 
 また、テーマ関係です。
 前回はモチーフ(オブジェクト)からでもいいのではと書きましたが。再度、テーマなどの名称それぞれを定義したものをあげて、書き込もうとしてみましたが、やはり、「テーマ」というのは難しく、キーボード上の指も止まってしまいます。定義自体が、いろいろあるようで、再定義の必要もあるかと思うのですが。

❶ 「テーマ」 写真で伝えたいこと。自分における写真の意味。
❷「コンセプト」 一連の作品を貫く骨格となる発想や観点。
❸「モチーフ(オブジェクト)」 もともとは動機を指す。素材・被写体の要素の方向性。

 よく聞くのは、好きなものを見つけて、とことん撮りなさい。そして、なぜそれが好きなのかを自問自答しなさい。そうすれば、テーマなどは自ずと決まってくる。自問自答を超えたら、また、別の次元の写真へと近づける。‥というようなことです。好きなものを、撮りたいものを見つけるという意味では、先にモチーフ(オブジェクト)が決まるのでしょうか。カメラを持ち始めた当初は、いわゆる手当たり次第に撮っていましたが、やはり、自然に好きなものへと移行していきます。そして、好きなものだけに、上手く撮りたいと思うようになります。「何を撮るか」から「どう撮るか」へとシフトしていくような過程を辿ります。この辺りに、モチーフやコンセプトのヒントがあるように思うのです。

 そういう歳ではないのですが、もし恋人ができ写真を撮るとしたら、初めは思い出とばかりにパシャパシャと撮るでしょうか。そのうち、こんな表情や仕草がいいと感じ、もっと違う表情や仕草も撮ってみたいと思うかもしれません。撮った写真を見せることもあるでしょう。すると、恋人が喜んだり、もっと綺麗に撮ってよとか、こんな表情や姿は嫌だなどということもあるかもしれません。ただ機械任せに撮っていただけが、上達を目指すようになります。彼女が好きな表情や仕草と、撮影者が好きなものが違うこともあるでしょうね。花や小物の脇役も工夫したり、ポーズを勉強したりとしながら撮影していくことになるかと思います。横顔は横何度の時がいい。笑顔よりも真顔、ハイキーの方がいいなどと写真の方向性も決まってくるような感じがします。モチーフは「小悪魔な顔」でもいいでしょうし、そうなるとハイキーよりもローキーという方向性もあります。テーマは「恋人」ではなくて、自分の「かけがえのない愛・Love」かもしれません(これじゃ広すぎるかも)。いろいろなことが考えられます。ここで、恋人を例に出したのは、もし被写体が恋人のような存在だとしたら、好きでたまらないとしたら、いろいろなことが真剣みを帯びて、切実なものとして考えていくことになるかなぁと、想像してみたわけです。

 すると、まだ、そこまでには至らない自分がいるのかもしれません。なにせ美瑛の丘は様々です。小悪魔と呼ぶにはふさわしくない大悪魔でもありますし、天使でもあります。それに、光、雲、雪などの自然条件を加えると、思ったような、あるいは意外な表情を見るには、かなりの辛抱強さがいる恋人のようです。

 上記とは少し別な言葉を書き出しています。
「自然・田園風景」「美瑛とその周辺」 といえば、これは上記とは別なジャンルと呼ばれるものです。
求めていて納得するのは、心情的な「癒し」「感動」。端的なのは、朝夕の短い光と色彩のドラマ。この辺りを書いていくと、どうもどこかの写真集のような場面を思い起こします。まあ、それほどポピュラーな場所でもあるのですが、そこに何か私だけの恋人がいるんじゃないかと思うわけですし、それをどのように撮って現像するのかということでの 悩みもあるわけです。美瑛を撮りたいのではなく、美瑛にある丘や木々と光の戯れやドラマ。雪原の光、白の中の色彩、などなど。

 こうしていろいろな言葉、イメージを連ねているところです。テーマとなると、自分の過去を振り返り、なぜこうしたものに惹かれるのかの根源、原イメージをも遡る必要があるのでしょうか。なぜ、それが伝えたいものなのか、誰に伝えたいのか、残したいのか。私の人生と写真と重なり合った理由、これから進もうとする写真についてなど。これらはもう哲学?精神分析? 美瑛撮影は地理学、気象学? デジタルカメラは科学、光学? いっぱい考えることの多い、写真です。

 

写真のテーマ 再考1

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 再掲です。 オブジェクトのところに「モチーフ」を追加しました。
 


 「いい写真を撮りたい!」と思う自分がいて,「なぜ写真を撮るのか?」「写真で何を伝えたいのか?」と思い悩む自分がいます。

 なぜ,こんなことに気にかかるのかと言えば,将来の時間に保証がもてないことでしょうか。明日のことは老若男女,誰もわからないのですが,若い頃には考えもしなかった,自分の年齢・経済地盤,そして,家族の健康状況(病気,介護など)でも左右されてくるからです。いつ,写真が撮れなくなるのかは,個人的な1つの脅迫観念かもしれませんが,誰にでも迫っていることだと,自分だけでは寂しので拡大解釈をしているだけなのかもしれませんが。

 スマホやインスタグラムなど,巷では1億総写真家と言われる時代とも聞きます。中には写真が目的というよりも,話のネタ,全くの「私小説的な記録」の一部でしかないというのも見かけます。「半径2m」の個人的,家族的な写真が,Webによって世界まで拡散するという,よき時代です。
 私の写真も,まあその手のややこしいもので,私生活は隠したい,何とか写真の質を上げていきたいというものでしかありません。
 
 また,テーマです。
 決まった!となれば嬉しいのですが,やはり手探り状態のままです。
 しかし,手探りの中で,

・写真の世界では、「テーマを持つこと」の大切さを強調する写真家は(とくに日本には)多いが、「モチーフを持つこと」を説く写真家は少数だ。

 その結果かどうか分からないが、日本人では、文学的なテーマを模索する人が(西洋に較べて)多いと感じる。作者の主観、心理描写を重んじ、ウェットなテーマを選ぶことを好む。撮影のときも「何を感じて撮ったか」を大切にする。

 他方西洋では、心配性で勤勉な国民性が日本人に似ていると言われるドイツ人でさえ、写真においてはむしろ正反対で、テーマよりモチーフを重んじるように私には映る。ベッヒャー夫妻が、その最たる例で、主観を排し、ドライにモチーフを繰り返し描写する(同じ東アジアでも、韓国の写真家は、モチーフを重視する人が多いように私は感じている)。

 
 という文章が目に入りました。音楽家でもあり写真家でもある某ロベルト氏のブログ「焦点」です。もちろん個人的な見解でしょうが,これを読んだときに,テーマについて大上段に構えすぎるのか?と思いました。彼の作品は全てはみてはいませんが,かい間見た所,先端的な現代写真風で,モノクロです。全く自然風景写真ではありません。更に,写真撮影で「何を感じ取ったか」ということを大事にするという点でも,その後の文中では,世界(被写体)から意味を読み取る日本人と,世界(被写体)に意味を与える西欧人ということも言っておられます。やはり大衆が認めるような大義名分にすがる日本人との,個人主義や自然観(あるいは宗教)の差なのでしょうか。しかも,プロなのに,テーマを,ジャンルと間違えたり,オブジェクト(モチーフ)と間違えて,アマチュアに紹介しているのもあったりして,ピンキリの日本の写真界?のようでもあります。

 さて,これが引っかかったのは,やはり,モチーフということばです。写真では,何を撮るのかの被写体にあたるかと思います。どうやら,このモチーフの1つが固まりつつあるからです。もう少し考えてみて,このモチーフだでいいとすれば,「テーマは何だ!」と大上段でなくてもいいことになります(とはいえ,ロベルト氏の話は現代写真の先端の話らしいですので,自然風景写真にはほど遠く,勝手な解釈です)。

 撮影が少しおろそかになっていますが,自分にとってのオブジェクト(モチーフ)を再度確認するために,数千枚の写真データを見直しているところです(Lightroomも3代目で,別パソコンWinにも数千枚以上もありますので,さすがこれは見直す気がしません。)。すると,過去のものですので,見つけるとまた現像のし直しといったこともしてしまいます。すでに遠い記憶色の範疇となりますが,どのように表現したらいいのかということでの,試作にもなるかと思ってやっています。

 とはいえ,モチーフだけというのも,腑に落ちないので,それをどう表現できるのか(このあたりがコンセプト的かも),時期的季節的なものとすれば,他の時期にはどんなモチーフがあるのか,なども考えています。好きな被写体,気になる被写体ともなれば,誰にでもあるかと思います。好きだからこそ,綺麗に,高品質に撮り,仕上げたいものです。

 大上段にテーマ→サブテーマ→オブジェクト・モチーフではなくても,モチーフ・オブジェクトからでもいいのではないか。そう思うようにもなってきた年の暮れ・師走です。 

  
  

雲間に期待 光芒?虹?

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 雲間からの光芒スポットライト  ポプラに当たることを待ったのだが
 ここはよく来るマイルドセブンの丘の奥 右にもう1本のポプラがある箇所です。

 空を見て1日が始まります。快晴よりも,雲があった方がベストです。空一面のどんよりとした鉛色よりも,濃淡のある雲がいいです。さらに所々に青い箇所の見える曇り空もいいです。そして,この空に,小雨が降ったり止んだりと気ままなのも,虹が期待できて楽しみです。

 さて,本日は朝から鉛色の空で,午後から雨。しかし,所用で出かけるときは西空が明るく,雲間の青も見受けられました。そして,たまたま外を見た午後7時過ぎ。東の空に夕焼けと,大雪・十勝岳の山裾から白雲が上昇していくような,今まで見たことのない光景に,虹もでているではありませんか。ところが,所用の途中で,駆けつけるには至りませんでした。

 今,書き留めているのは,美瑛の特徴や,光の捉え方,四季の色合い,私がいいと感じる写真の要素などです。書き留めるというよりも,考えをまとめる際に使うマインドマップにしています。上記の点で概念などを連想しつつ,関連付けたりしているわけです。

 目的は,これからの撮影のモチベーションをあげるためです。いろいろと撮っているのですが,相手は自然なので自由にならない分,感性的まかせといえばカッコいいのですが,「どうも被写体に撮らされているのではないか」、「偶然を期待して,偶然に撮らされているのではないか」,現像もまた「その時の感じで現像しているのではないか」と思うようになっていたからです。 
 少しでも意図的で,様々なシチュエーションを想定し,分類,構成的なものを持てば,撮り方・現像の仕方=見方が変わるのではないかと思っているのです。例えば,今撮ろうといている写真が、過去に撮った写真のどのテーマやサブテーマに入るのかを想定できるようなこと。または、新たなテーマや意図での被写体にあうのか、あわないのか、など。Lightroomでは、コレクションという分類方法があるようですが、そのもとになるようなものを考えることでもあるかもしれません。
 

写真…への独りよがり  4  撮りたいもの‥テーマ、主題?

残照メモリーss

 夕陽の木(美瑛) 以前からもっていたイメージと何かピッタリとするものが撮れた。木の中での光条、動きある雲、樹影‥。哲学の木伐採以後から、「樹木への思い」が天にも通じたような心地で撮影させてもらった。そして、この後移動して再度戻ったときの日没後の美しく激しいような夕焼けにも出合うことができた。こんな時は、フッとありがとうとつぶやくのである。

 自然風景、田園風景はいいものです。しかし、フッと自然風景だけでいいの?と囁く声も聞くのです。それは、花でも鳥でもなく、人です。妻の願いもあって、大正生まれの一人暮らしの義母を撮ってみたいとも思っているのです。皺のある顔、そして、喜怒哀楽。既に高齢化から超高齢化を迎える中での哀愁、あるいは喜びというのも魅力的です。「限界集落」「独居老人」‥記録性も高いと思っています。いずれ私の道でもあるからですし‥、気兼ねのないところでは、田舎に住んで自分をとればいいということになるのでしょうが、それにはまだ少し‥若い?!
 そして、やはり質のことが気にかかりますし、写真が記録性を越えるものとして、記録を一歩でも越える何かを模索しながら、撮り続けるモチベーションを維持、高めたいと思っています。
 すでに3年巡った美瑛の丘。もう少し違った見方、視点から撮れないものかと言うことです。もっといいレンズで?ということも、小さな望みですが、そうした手段ではなくて、「美瑛の丘の光景」という被写体を通して、何を見つめ、考え、何を撮したいのかということです。これについては、「テーマ」とか、「主題」、「コンセプト」、「サブジェクト」と呼ばれているものについて基本的な理解をしてから、自分の考えを整理して、組み立て直さなくてはならないようです。 

 いつまで写真がとれるのかという将来的な不安もある中で、下記のような言葉にであいました。

  「One should really use the camera as though tomorrow you’d be stricken blind.
 (明日突然目が見えなくなるかもしれない、そう考えてカメラを真剣に使うべきだ。) ドロシア・ラング」

  そして、テーマやサブジェクトについても、写真家のドロシア・ラングは述べています‥。
   「Pick a theme and work it to exhaustion… the subject must be something you truly love or truly hate.  (テーマを決めたら、疲弊する極限までやってみなさい。サブジェクトは心から愛しているもの、または心から憎むものでなければならない。)

  この日本語訳では、ほとんどがサブジェクトを「主題」としているものが多いようです。辞書では、どちらも「主題」という意味もあり、訳が分からなくなります。しかし、意味で異なるものをあげると‥
 
「テーマ」:題目、根本意図、中心課題、中心的内容、本題‥
  「サブジェクト」:話題、論題、項目、対象、材料、被写体‥

 となります。写真ということからすると、サブジェクトは被写体とした方が分かりやすいかもしれません。絵画では、「モチーフ」に近い意味でしょう。また、テーマが1つの文言であるとすれば、それを伝えるための複数の要素や構想がオブジェクトということで、写真という実体、撮された被写体というのではないかもしれません。

  また、「テーマ」を検索していくと、「コンセプト」との関連についても述べられています。単に「概念」とありますが、「創造された作品や商品の全体につらぬかれた、骨格となる発想や観点」というのもあるようです。写真関係ではあまり目に触れない言葉ですが、デザイナー関係で使われるようで、「既成概念を壊すもの」「新しい価値観を創るもの」というのも含まれ、いわゆる個々の「オリジナリティーにも関わるアイディア」という点も面白いところです。写真家は写真そのもので勝負という面が多いようですが、デザイナーは、自らのデザインとともに、クライアントへの作品の主張が必然的なことから強く意識されているのだと思います。とはいえ、写真家がもっていないということではないと思いますし、特にプロとなれば、これがないと写真における自己存在、独自性が危ういということになります。 アマチュアは幅がありますので、自分の立ち位置も気になるところです。
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