

この丘には2本のポプラが立っていますが、生憎にもその中間に撮影者の車と人がげがあって、それを避けるように撮影することになりました。

夕陽のやや赤味がかった強い光が特徴です。アングルによってはレンズフレアーが発生し、日除け傘の出番となります。遥か遠くの大雪山連峰での日の出とは、違った光を地上にもたらします。もっとハイキーにすると「サンセット・ドリーム」というタイトルにできそうです。

デジタルカメラになって、光景は膨大な信号の集まりとなりました。光の量や色などの情報が規則正しく並べられ、RAWデータとして保存されます。
データの基本は「0と1」ですから、フィルムのように画像として肉眼では見ることはできませんので、メーカー専用のカメラ内蔵のソフトウェアで変換して画像にしてから見るということになります。更に、カメラメーカー毎に、RAW形式も異なるのでカメラ内蔵のソフトも異なります。互換性はないということです。

<RAWデータの柔軟性>


<被写体の解釈>
撮影するものをどう捉え、どう写したのか。撮影者の意図や狙いがあって撮影したものですから、眼前にあった光景は意味あるものとして撮影者には位置付けられます。ここには全くの客観性はなく、あくまでも主観となります。
ここには必ずや撮影者の何らかの「光景=被写体への解釈」があります。だから撮影するわけですので。
そして、その解釈というのは、概略的には、主観的な趣向や好印象のもの、撮影の意図や意義(テーマとかコンセプト)、さらには、自然観や歴史観(郷土史理解や写真史も含め)、美的感覚などが、おそらく混在して、または集約されていると考えられるのです。
もしも、これが無意識にあるいは自動化されるまでに熟達していれば、これはプロ的な仕業ですし、プロならこうしたことへの解釈の説明を容易にするのかもしれません。熟達して無意識化や自動化されるまでに至ったり、あるいは本当に無意識的なものが撮影させてるならば、それは一応「感性」と言う短い語句に集約されてくるのだと思います。熟達してなるならば、それを説明し得るでしょう。本当に無意識だと、自己分析ができないので説明は難しいと言うことになるでしょう。
<現実とイメージ、そして、現像>

しかし、撮影時は眼前の、あるいはファインダー越しに現実と対峙していますから、現実がどのように見えて、何をイメージさせるかを瞬時に捉えてシャッターを切っています。
もしかして、現実を見る先に、イメージで見ているのかもしれません。できれば、こうしたイメージがたくさんあって、カメラを構える撮影モードに入ると、ある現実を見た時にイメージが喚起されてシャッターを切るという行為になるのかもしれません。これがテーマやコンセプトにかかわることです。単に写真が好きということだけではない以上のものを突き詰めようともしているからです。
「何を写して、どんな写真にするのか」を問うているのです。

キツネ等も追うことがありますが、やはり風景の中、自然に存在する動物として、風景が半分から3分の1程度はいった中での様子をとりたいですが、その表情やしぐさの面白さもあってか、接近したときはそれを撮影することになります。