PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

アニミズム

写真についての個人的なメモです!

古代人のこころと自然観 その12 精霊と霊魂

 アニミズムをみてきました。ここでは「霊魂」ということで説明しましたが、似たような言葉で「精霊」という言い方があります。最初に精霊に触れ、次ぎに「霊魂」について書いてみたいと思います。 

<精霊>

 西洋では「spirit」や「elemental」という言葉で表されています。漢語では精霊は、精怪とも同意で、妖怪、妖精、死者の霊、鬼神という意味があります。以下はウィキペデアからの抜粋です。 


 古代日本では自然物には生物も無生物も精霊が宿っていると信じ、それを「チ」と呼んで名称の語尾につけた。古事記や風土記などの古代文献には葉の精を「ハツチ(葉槌)」、岩の精を「イワツチ(磐土)」、野の精を「ノツチ(野椎)」、木の精を「ククノチ(久久能智)」、水の精を「ミツチ(水虬)」、火の精「カグツチ(軻遇突智)」、潮の精を「シオツチ(塩椎)」などと呼んでいたことが知られている。また、自然界の力の発現はその精霊の働きと信じ、雷を「イカツヂ」、蛇を「オロチ」などと呼んだ。こうした精霊の働きは人工物や人間の操作にも及び、刀の力は「タチ」、手の力は「テナツチ(手那豆智)」、足の力は「アシナツチ(足那豆智)」、幸福をもたらす力は「サチ(狭知)」などと呼ばれていた。人間の生命や力の源が、血液の「血」にあると信じられたところに、「チ」が起源しているとも言われている。土(ツチ)、道(ミチ)、父(チチ)も同じ考えが表現されたものと見ることができる。また神話や古代氏族、とりわけ国津神系の氏族の祖先には「チ」を名称の語尾につけているものが見出される。神話では「オオナムチ(意富阿那母知)」や「オオヒルメムチ(大日孁貴)」、氏族では物部氏の「ウマシマチ(宇摩志麻治)」や小椋氏の「トヨハチ(止与波知)」などである。神名や人名の語尾(正確には「〜神」、「〜命』の前の語)に「チ」がつく名前は最も古い名前のタイプで、草木が喋ると信じられていた自然主義的観念の時代を反映しているものと考えられている。

 これらは誰が編集したものかはわかりませんが、様々なものに精霊が宿っていると考えた古代のことが分かります。ちなみに古代の日本語=やまとことばでは、言葉の1つ1つの音に意味があるのではということで、太平洋戦争以前は1つの学問として研究されてきていましたので、こうした系統からの仮説と思われます。

 日本では精霊は「しょうりょう」とも言って、盆に迎えまつる祖霊をさしています。天寿を全うした者の霊は、死後33年ないし50年の弔いを終えると、死体から離れて清らかな霊となって、正月や盆、農耕儀式の際に、子孫のもとを訪れて見守ってくれるものと考えられています。盆の頃に飛ぶ赤とんぼを精霊とんぼともいって、先祖がこのとんぼに乗って帰ってくるという地方もあるようです。一般的には迎え火をたいて迎える形が多いようです。


<霊魂>

  この霊魂は、いままで述べたように、肉体とは別の存在ではありながら、肉体にあるときには生命活動や精神活動をつかさどる存在で、肉体を離れるといわゆる五感では感じることのできない永遠の存在であるとされます。

 古代エジプトでは、人が死ぬと肉体から離れるが、再び肉体に戻ってくるという考えがありました。また、古代インドでは、霊魂は何度もこの世に生まれ変わる輪廻転生という考え方がありました。さらに、人間だけでなく、全ての命あるものや無生物にも霊魂が宿ると考えられているのが一般的でした。

 霊魂と言う言葉は、霊と魂の2語で成り立っていますが、「霊」というのは、たくえつした心や命、神的なもの、神秘的な力をもつもの、などの意味があるようです。「魂」の方は、精神をつかさどるもので、肉体をつかさどる「魄」と対比されていて、人の死には「魂」は天に帰り、「魄」は死体が埋葬されるのにともなって地に帰ると考えられていました(中国の道教の考え)。

<精霊と霊魂>

 こうしてみると、精霊と霊魂は似たような意味と存在であると思われますが、精霊のイメージは、人間以外のものという感じもしないではないですが、日本では清らかな霊ということで、悪霊とは対照的で、子孫を繁栄を見守る霊というような意味合いがあるようです。ともあれ、今までのアニミズムを合わせて考えると、古代人が、肉体や動植物、無生物の中に、五感的認識ができない存在、目に見えない存在を考えだしたというのは、人類の知恵での革命的なできごとではないかと思います。

 病や死、災害等への不可避な悲しい運命をどのように受け入れたり、乗り越えるのかという課題を、幾世代にもわたり、それこそ数千年単位で考えてきた解答の1つが、精霊や霊魂の存在であると思います。しかも、自然との一体感をもちその恩恵を充分に理解した上でのことですので、自ずと草木や動物、あるいは岩や山などの無生物にもその存在を認めたのでしょう。ここで「認める」と書きましたが、共感をもって感じ取っていたと思われます。

 一般的に「信仰」というのは、科学的な裏付けあるものではありません。神や霊魂の存在も科学的な証明ができていません。しかし、大きな苦しみや迷いを乗り越える実践と論理的な思考などの中で信仰が生まれたと思うのです。ユダヤ教やキリスト教などの一神教では、科学的な裏付けがないことから、教義という論理を育んでいき、科学的論理的ではない神秘的な出来事を信じるという「意志」「信念」をもとにした宗教であるかもしれません。
 そうなると、霊魂や精霊は一神教では異端になるようです。一神教にはどうも排他的な面があります。しかし、砂漠などの過酷な環境の下で生まれたような一神教とは異なり、豊かな自然や動植物に囲まれた日本では、いわば多神教的で、いたるところに霊魂や精霊が身近にあり、それらを感じるような繊細な感性もあったために、後世に至っても「感じる宗教観」のまま、無宗教とか無神論者のような日本の宗教風土を醸成してきたのではないでしょうか。西洋ではアニミズムや多神教は「遅れた宗教」とされているものを、少し考えて、感じてみるのも「(古代日本人の)心の原風景」を呼び起こすことになるかもしれません。

古代人のこころと自然観 その11 アニミズム

 幼児期に人形やおもちゃに話しかけることがありますが、あたかも命や意志があるものとして話しかける思考傾向を、擬人化されたアニミズム的思考といいます。我々現代人は、特に大人は科学的な知識が組み込まれていて、アニミズムも擬人化程度にしか想像できないのではと思っています。
 これが旧石器人や新石器人が生死をかけた生活を行っていた者が幼児の思考レベルだったのかについては疑問を持っています。生存に賭ける勇気や忍耐、人や仲間、動植物への情愛などは現代人を超えるものを持って暮らしていたと思われます。また、知識というのは生きる術であり、そのために自分を理解し、他者や外界の事象を理解してこそ、衣食住や楽しみ、癒しなどを手に入れて生き抜く術でもあります。

images

 人間は猿からの進化とは言いますが、全身を覆う毛もなく、牙もなく、他の中型動物とは異なって、皮膚を露出させた裸の存在で生まれ成長します。まるで突然変異のようなか弱い生き物です。しかし、それが本能に隷属しない柔軟性のある脳機能を持って、事態を解決していく思考力を持っていたのです。
 動物のような力を得るために切れ味を高めた打製石器や磨製石器を考え、火をつかいました。骨から釣り針を作り漁労もします。更に船を作りました。装身具も作り、クリなどの栽培管理を行いました。黒曜石や翡翠などの原石は遠い地方からの交易で得ました。漆の栽培や漆塗りも1万年前からということも言われています。動物とはことなり、知恵で優れた生存能力を身に付け、動物並みの力を付けました。しかも、縄文時代には野生動物とは異なり、集団として自然を改善し定住生活と近隣に生活圏をつくりました、とはいえ、他の動物と同じように自然の恵みに依存する存在でした。

 そうした中で、目に見えぬであろう霊魂を信じ、自然や動植物に話かけたり、お願いをしたりしていたかもしれないのです。こうしたものが人類が初めに持った宗教的な考え方であったらしいです。擬人化が宗教へと昇華したとなると、今の私たちにおける「科学的な知識、科学的な信頼」あるいは「こころの救済や癒やし、希望=宗教」と同じような価値をもったものではなかったかと思うのです。

 霊魂の存在は、今の科学では証明はできてはいませんし、「信じる?」と聞かれれば、ほぼ信じないという意見が多いと思います。しかし、習慣や風習の中ではどうでしょうか。それはお盆に先祖の霊が帰ってくるというものですし、死んだのちも天国(草葉の陰)から見守っているというような考えです。仏教にしても魂は成仏して極楽や浄土にいくというのも、そうした古代からの宗教観が残っているかもしれないのです。輪廻転生というのも、命ある物全ての魂が再生を繰り返し、あるものは虫に、花にと生まれ変わり輪のように転生をするというアニミズム的な発想です。
 数年前に「千の風になって」という曲が流行りましたが、これは外国の詩です。亡くなった自分は風、雪、雨、星の光、花、全ての素敵なものの中にいるという詩です。まさしくアニミズムの内容ですが、90年代からアメリカやイギリスで読まれてきたという経緯があります。日本でも癒しや不思議な力を感じさせるものとして、共感をもって受け入れられたと思われます。アニミズムの癒し効果とでもいうのでしょうか。

 自然は時には恐ろしいこともあります。自然災害や病気、動植物による死などです。そうなると、霊魂は悪い一面もあるかもしれないということです。自然の凶暴さにうろたえたことや家族隣人が滅ぼされることもあるのが人の世です。同じような霊魂に善と悪があると考えたのなら、アニミズムはどう捉えたのでしょうか。祈りや儀式という形で悪霊を封じ込めたり、善なる霊を招来するという方法を取ったかもしれません。そして、その中心となっていく古老や、霊魂の声をきいたり、悪霊を追い払うシャーマンが登場してくるのではと思います。

古代人のこころと自然観 その10 アニミズム

<死とアニミズム>

 死に対しては、理解しがたいような深い悲しみなど、何らかの強い感情を生み出します。そして、その死を受け入れがたいからこそ、それを乗り越える様々な解決方法をあみだしていくのが人間でしょうか(宗教的な祈りや救い、希望‥‥)。

 死者を放っておけばウジがわき腐乱して気持ち悪く、不吉な気配もするでしょう。それを避ける意味で、土に返すという埋葬法を考えたのでしょう。「土に返す」というのも飛躍的な表現かもしれませんが、自然は生き物の盛衰や生死の場所であり、人もまた大地に眠るものであるということかもしれません。(他に、川に流す水葬、死骸を鳥に食べさせる鳥葬もあります)

 太陽は東西を行き来しますが、それは太陽の日々の生死であるかもしれません。草木や動物の生死もそうした自然の摂理の1つです。あるいは、諸々の生死はそのものの状態から、自然は死を乗り越える再生をも人間に見せたのかもしれません。季節が変われば、また再び実らせる木々、いなくなった虫たちがまた訪れること。自然界は「死と再生」に満ち溢れ、今以上にそれを感じることのできる時代だったかもしれません。そして、死の悲しみや不安を乗り越える方法として、再生と肉体とは別の霊魂というものを考え出したのだと思います。

 アニミズムという概念がありますが、今から6〜3万年前に人類が持ち得た考え方だといいます(認知考古学=心理学+考古学で)。人間は移動しながら様々な事物を見、採集等の経験を通して、その事物に人間と同じような性質を見出し、その関係性をより深めたりする中で、事象にも人と同じ様な意思や意識、祈りや願い=魂があるのだということです。

 ここで重要なのは、人間の内面を外界に投影したのがアニミズムと言われていたのですが(人間と非人間との断絶:人類学者タイラー)、そうではなくて、元々内面性を持っていた人間・非人間との「共通性、共存性、流動性」というものがアニミズムであるという見方もあるようです。ここでの共通性や共存性については、人間、動植物、自然の霊魂が同等であること、流動性というのは、おそらくは魂=霊魂が行き来するのは人間、動植物等の区別なく宿ったりする様なことを指すのかもしれません。

 そうなれば、身体(物)と霊魂が離れていくというような考え方、すなわち、死は身体から霊魂が離れること、生は身体に霊魂が宿ること、という考えにもなります。太陽の生死、再生も大いなる霊魂が太陽を再生させるとも考えるのです。この世には様々な霊魂があり事象とともに生死と再生を繰り返すという循環的な自然観です。梅原猛氏がアニミズムの中で、樹木崇拝や動物崇拝にも触れていますが、長寿である樹木、優れて特異な能力を持つ動物への憧れから、崇拝という祈り・願いからその霊魂を取り入れようとすることである様なことをいっています。様々な霊魂が生を生み出すと共に、特定の霊魂を取り入れようとする信仰もまたアニミズムなのかもしれません。

主観と客観 再来

 ある写真家の「主観と客観」の捉え方を考えてきたシリーズの続きとなります。新しい情報が入ったことから、ようやく分かりかけてきました。「鏡と窓」も、彼の獲得した写真スタイルの1つの説明であることもわかりました。

 彼のスタイル

その一つの方法論が、毎朝日の出前に起き、撮って撮って撮りまくることだったのです。つまり、身体性を伴うことで「無」の境地で自然を捉えることができるんじゃないかと考えたわけです。そして写真には「カメラ」もしくはそれに類する何かが必要です。つまりそこで一旦客観視される。無意識の領域で捉えた世界がそこで「客観」として立ち上がってくるのです。
アミニズムの精神が根底に流れていて、カメラを使う際にもアミニズム的な気持ちが宿る。身体性を伴い、時にはシャーマニズム的なニュアンスを漂わせながら、生々しく描くのが日本人写真家の個性なのですよ、と。

 そして、文章にすると分かりにくいかもしれないことと、まだ、情報が入ってくる可能性もあって、簡単な図で表してみました。

撮影スタイル

 ・「写真を撮る」という意識よりも、「無意識的な領域」で自然の気配(アニミズム的な感覚、感性)で、カメラで撮り、客観としての画像が保存される。撮影は主観で無意識的だが、そこに客観性が立ち上がるということです。その道具というカメラでさえ、アニミズム的な精神性が宿るとさえ言っていますので、客観的な自然風景というよりも、アニミズム的な日本人の自然観もあるだろうということです。だからこそ「気配」が感じ取れるということです。
 ・そして、写真はそうした無意識的な主観で客観的に表出されたものであり、また、写真家にとっての表現方法である以上、その表現性を常に高め、広げるということでは表現性の具現の1つでもある。
 ・鑑賞者にとっては、そうした写真作品は1つの客観的存在ではあるが、それぞれの主観や客観的見方で解釈される。そこでは写真の忠実性よりも距離間を置くという表現がより広い解釈をあたえる。

 このようなことが言えるのではないかと思います。

記事検索