アニミズムをみてきました。ここでは「霊魂」ということで説明しましたが、似たような言葉で「精霊」という言い方があります。最初に精霊に触れ、次ぎに「霊魂」について書いてみたいと思います。
<精霊>
西洋では「spirit」や「elemental」という言葉で表されています。漢語では精霊は、精怪とも同意で、妖怪、妖精、死者の霊、鬼神という意味があります。以下はウィキペデアからの抜粋です。
古代日本では自然物には生物も無生物も精霊が宿っていると信じ、それを「チ」と呼んで名称の語尾につけた。古事記や風土記などの古代文献には葉の精を「ハツチ(葉槌)」、岩の精を「イワツチ(磐土)」、野の精を「ノツチ(野椎)」、木の精を「ククノチ(久久能智)」、水の精を「ミツチ(水虬)」、火の精「カグツチ(軻遇突智)」、潮の精を「シオツチ(塩椎)」などと呼んでいたことが知られている。また、自然界の力の発現はその精霊の働きと信じ、雷を「イカツヂ」、蛇を「オロチ」などと呼んだ。こうした精霊の働きは人工物や人間の操作にも及び、刀の力は「タチ」、手の力は「テナツチ(手那豆智)」、足の力は「アシナツチ(足那豆智)」、幸福をもたらす力は「サチ(狭知)」などと呼ばれていた。人間の生命や力の源が、血液の「血」にあると信じられたところに、「チ」が起源しているとも言われている。土(ツチ)、道(ミチ)、父(チチ)も同じ考えが表現されたものと見ることができる。また神話や古代氏族、とりわけ国津神系の氏族の祖先には「チ」を名称の語尾につけているものが見出される。神話では「オオナムチ(意富阿那母知)」や「オオヒルメムチ(大日孁貴)」、氏族では物部氏の「ウマシマチ(宇摩志麻治)」や小椋氏の「トヨハチ(止与波知)」などである。神名や人名の語尾(正確には「〜神」、「〜命』の前の語)に「チ」がつく名前は最も古い名前のタイプで、草木が喋ると信じられていた自然主義的観念の時代を反映しているものと考えられている。
これらは誰が編集したものかはわかりませんが、様々なものに精霊が宿っていると考えた古代のことが分かります。ちなみに古代の日本語=やまとことばでは、言葉の1つ1つの音に意味があるのではということで、太平洋戦争以前は1つの学問として研究されてきていましたので、こうした系統からの仮説と思われます。
日本では精霊は「しょうりょう」とも言って、盆に迎えまつる祖霊をさしています。天寿を全うした者の霊は、死後33年ないし50年の弔いを終えると、死体から離れて清らかな霊となって、正月や盆、農耕儀式の際に、子孫のもとを訪れて見守ってくれるものと考えられています。盆の頃に飛ぶ赤とんぼを精霊とんぼともいって、先祖がこのとんぼに乗って帰ってくるという地方もあるようです。一般的には迎え火をたいて迎える形が多いようです。
<霊魂>
この霊魂は、いままで述べたように、肉体とは別の存在ではありながら、肉体にあるときには生命活動や精神活動をつかさどる存在で、肉体を離れるといわゆる五感では感じることのできない永遠の存在であるとされます。
古代エジプトでは、人が死ぬと肉体から離れるが、再び肉体に戻ってくるという考えがありました。また、古代インドでは、霊魂は何度もこの世に生まれ変わる輪廻転生という考え方がありました。さらに、人間だけでなく、全ての命あるものや無生物にも霊魂が宿ると考えられているのが一般的でした。
霊魂と言う言葉は、霊と魂の2語で成り立っていますが、「霊」というのは、たくえつした心や命、神的なもの、神秘的な力をもつもの、などの意味があるようです。「魂」の方は、精神をつかさどるもので、肉体をつかさどる「魄」と対比されていて、人の死には「魂」は天に帰り、「魄」は死体が埋葬されるのにともなって地に帰ると考えられていました(中国の道教の考え)。
<精霊と霊魂>
こうしてみると、精霊と霊魂は似たような意味と存在であると思われますが、精霊のイメージは、人間以外のものという感じもしないではないですが、日本では清らかな霊ということで、悪霊とは対照的で、子孫を繁栄を見守る霊というような意味合いがあるようです。ともあれ、今までのアニミズムを合わせて考えると、古代人が、肉体や動植物、無生物の中に、五感的認識ができない存在、目に見えない存在を考えだしたというのは、人類の知恵での革命的なできごとではないかと思います。
病や死、災害等への不可避な悲しい運命をどのように受け入れたり、乗り越えるのかという課題を、幾世代にもわたり、それこそ数千年単位で考えてきた解答の1つが、精霊や霊魂の存在であると思います。しかも、自然との一体感をもちその恩恵を充分に理解した上でのことですので、自ずと草木や動物、あるいは岩や山などの無生物にもその存在を認めたのでしょう。ここで「認める」と書きましたが、共感をもって感じ取っていたと思われます。
一般的に「信仰」というのは、科学的な裏付けあるものではありません。神や霊魂の存在も科学的な証明ができていません。しかし、大きな苦しみや迷いを乗り越える実践と論理的な思考などの中で信仰が生まれたと思うのです。ユダヤ教やキリスト教などの一神教では、科学的な裏付けがないことから、教義という論理を育んでいき、科学的論理的ではない神秘的な出来事を信じるという「意志」「信念」をもとにした宗教であるかもしれません。
そうなると、霊魂や精霊は一神教では異端になるようです。一神教にはどうも排他的な面があります。しかし、砂漠などの過酷な環境の下で生まれたような一神教とは異なり、豊かな自然や動植物に囲まれた日本では、いわば多神教的で、いたるところに霊魂や精霊が身近にあり、それらを感じるような繊細な感性もあったために、後世に至っても「感じる宗教観」のまま、無宗教とか無神論者のような日本の宗教風土を醸成してきたのではないでしょうか。西洋ではアニミズムや多神教は「遅れた宗教」とされているものを、少し考えて、感じてみるのも「(古代日本人の)心の原風景」を呼び起こすことになるかもしれません。
<精霊>
西洋では「spirit」や「elemental」という言葉で表されています。漢語では精霊は、精怪とも同意で、妖怪、妖精、死者の霊、鬼神という意味があります。以下はウィキペデアからの抜粋です。
古代日本では自然物には生物も無生物も精霊が宿っていると信じ、それを「チ」と呼んで名称の語尾につけた。古事記や風土記などの古代文献には葉の精を「ハツチ(葉槌)」、岩の精を「イワツチ(磐土)」、野の精を「ノツチ(野椎)」、木の精を「ククノチ(久久能智)」、水の精を「ミツチ(水虬)」、火の精「カグツチ(軻遇突智)」、潮の精を「シオツチ(塩椎)」などと呼んでいたことが知られている。また、自然界の力の発現はその精霊の働きと信じ、雷を「イカツヂ」、蛇を「オロチ」などと呼んだ。こうした精霊の働きは人工物や人間の操作にも及び、刀の力は「タチ」、手の力は「テナツチ(手那豆智)」、足の力は「アシナツチ(足那豆智)」、幸福をもたらす力は「サチ(狭知)」などと呼ばれていた。人間の生命や力の源が、血液の「血」にあると信じられたところに、「チ」が起源しているとも言われている。土(ツチ)、道(ミチ)、父(チチ)も同じ考えが表現されたものと見ることができる。また神話や古代氏族、とりわけ国津神系の氏族の祖先には「チ」を名称の語尾につけているものが見出される。神話では「オオナムチ(意富阿那母知)」や「オオヒルメムチ(大日孁貴)」、氏族では物部氏の「ウマシマチ(宇摩志麻治)」や小椋氏の「トヨハチ(止与波知)」などである。神名や人名の語尾(正確には「〜神」、「〜命』の前の語)に「チ」がつく名前は最も古い名前のタイプで、草木が喋ると信じられていた自然主義的観念の時代を反映しているものと考えられている。
これらは誰が編集したものかはわかりませんが、様々なものに精霊が宿っていると考えた古代のことが分かります。ちなみに古代の日本語=やまとことばでは、言葉の1つ1つの音に意味があるのではということで、太平洋戦争以前は1つの学問として研究されてきていましたので、こうした系統からの仮説と思われます。
日本では精霊は「しょうりょう」とも言って、盆に迎えまつる祖霊をさしています。天寿を全うした者の霊は、死後33年ないし50年の弔いを終えると、死体から離れて清らかな霊となって、正月や盆、農耕儀式の際に、子孫のもとを訪れて見守ってくれるものと考えられています。盆の頃に飛ぶ赤とんぼを精霊とんぼともいって、先祖がこのとんぼに乗って帰ってくるという地方もあるようです。一般的には迎え火をたいて迎える形が多いようです。
<霊魂>
この霊魂は、いままで述べたように、肉体とは別の存在ではありながら、肉体にあるときには生命活動や精神活動をつかさどる存在で、肉体を離れるといわゆる五感では感じることのできない永遠の存在であるとされます。
古代エジプトでは、人が死ぬと肉体から離れるが、再び肉体に戻ってくるという考えがありました。また、古代インドでは、霊魂は何度もこの世に生まれ変わる輪廻転生という考え方がありました。さらに、人間だけでなく、全ての命あるものや無生物にも霊魂が宿ると考えられているのが一般的でした。
霊魂と言う言葉は、霊と魂の2語で成り立っていますが、「霊」というのは、たくえつした心や命、神的なもの、神秘的な力をもつもの、などの意味があるようです。「魂」の方は、精神をつかさどるもので、肉体をつかさどる「魄」と対比されていて、人の死には「魂」は天に帰り、「魄」は死体が埋葬されるのにともなって地に帰ると考えられていました(中国の道教の考え)。
<精霊と霊魂>
こうしてみると、精霊と霊魂は似たような意味と存在であると思われますが、精霊のイメージは、人間以外のものという感じもしないではないですが、日本では清らかな霊ということで、悪霊とは対照的で、子孫を繁栄を見守る霊というような意味合いがあるようです。ともあれ、今までのアニミズムを合わせて考えると、古代人が、肉体や動植物、無生物の中に、五感的認識ができない存在、目に見えない存在を考えだしたというのは、人類の知恵での革命的なできごとではないかと思います。
病や死、災害等への不可避な悲しい運命をどのように受け入れたり、乗り越えるのかという課題を、幾世代にもわたり、それこそ数千年単位で考えてきた解答の1つが、精霊や霊魂の存在であると思います。しかも、自然との一体感をもちその恩恵を充分に理解した上でのことですので、自ずと草木や動物、あるいは岩や山などの無生物にもその存在を認めたのでしょう。ここで「認める」と書きましたが、共感をもって感じ取っていたと思われます。
一般的に「信仰」というのは、科学的な裏付けあるものではありません。神や霊魂の存在も科学的な証明ができていません。しかし、大きな苦しみや迷いを乗り越える実践と論理的な思考などの中で信仰が生まれたと思うのです。ユダヤ教やキリスト教などの一神教では、科学的な裏付けがないことから、教義という論理を育んでいき、科学的論理的ではない神秘的な出来事を信じるという「意志」「信念」をもとにした宗教であるかもしれません。
そうなると、霊魂や精霊は一神教では異端になるようです。一神教にはどうも排他的な面があります。しかし、砂漠などの過酷な環境の下で生まれたような一神教とは異なり、豊かな自然や動植物に囲まれた日本では、いわば多神教的で、いたるところに霊魂や精霊が身近にあり、それらを感じるような繊細な感性もあったために、後世に至っても「感じる宗教観」のまま、無宗教とか無神論者のような日本の宗教風土を醸成してきたのではないでしょうか。西洋ではアニミズムや多神教は「遅れた宗教」とされているものを、少し考えて、感じてみるのも「(古代日本人の)心の原風景」を呼び起こすことになるかもしれません。