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写真についての個人的メモ

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写真についての個人的なメモです!

古代人のこころと自然観 その24 長江文明 2

  久々の投稿です。この間、安倍元首相の暗殺があり、雨災害があり、コロナ禍第7波と、話題にはつきないようです。個人的には、特に反親中派ではない安部元首相の喪失は大きそうと考えています。参議院改選も親中派自民党員、公明、共産党、立憲などににとっては有利かもしれません。さらにC国も目の上のたんこぶがなくなってさぞ喜んでいることだと想像されます。マスコミでは、旧統一教会での関連から個人的怨念での暗殺という路線をまっしぐらに走っています。推定殺人犯の動機に合理性をあたえるような情報が多いですが、だれがどのような影響をうけ、有利・不利になるのかに触れるのはSNS程度です。長年の殺人計画や準備という推定殺人犯の執念自体は、合理性とか妥当性などを越えたものでしょうから、なんらかの拘りで個人的怨念に取り憑かれたとしかいいようがないというのが、報道の流れの結論でしょう。
 それにしても、安部元首相は本当に嫌われていたというような、マスコミなどの報道です。ちなみに、日本のマスコミ報道の自由度世界ランキングは、昨年度67位で年々下がっています。個人的には「意見の自由度」「政治・企業・宗教からの独立」が低いのではと思っています。

 自宅でもTVを見る時間がへっていますが、最近、妻が仕舞ってあったレコードが聴きたいといって、聴けるようにと頼まれて、地下室をやさがしして設置し、さらにTV視聴は激減しました。
 オーディオは、Kenwood、SONY、Pioneer、Denon、Victorなどあるのですが、PHONE端子のついたアンプがなくて、フルオートの古いレコードプレーヤーが使えませんでした。そこで、子ども達が残していったStantonのプレーヤーがフォノイコライザイーがあり、ソニーのアンプ兼CDプレーヤー、Victorのスピーカーという組み合わせとなりました。


<黄河文明よりも早い長江文明>
 (以下は、日本文化研究センター、安田教授の環境変動文明推進説の要約)

 昔はいわゆる「世界の4大文明」といって教科書でならいました。その中で中国を代表するものが黄河文明でしたが、今では長江文明の方が古いことがわかりました。しかも、長江文明では「稲作」という他にはない農作物で、稲作農耕漁労採集を中心とする文明というところに特色があります。それに対して、黄河文明は、畑作狩猟を中心とする文明で、ある時期までその2つが地域別に共存していたとされます。
 しかし、およそ4200年前の世界的な寒冷化のため、黄河文明の人々が南下していきます。黄河文明は鉄器と馬を使用していた騎馬民族なので、容易に侵略できたと思われます。敗れた長江文明の人々の一部は貴州や雲南へと逃れていったり、長江をくだって、東シナ海へと船で逃げていって、日本へとやってきたと思われます。そのころの日本は縄文時代で、同じ自然を大事にする文化だったので同化していった。  

 黄河文明は畑作と狩猟を特徴とするため、焼き畑や牧畜のため自然から作物や燃料エネルギーを奪い取るので、土地は痩せて場所を転々とする生活し、自然破壊を基本とした文明と言える。漢民族の文明が基本的にはこの黄河文明が色濃く繁栄している。これは、ヨーロッパ文明に近いものである。
 世界の米と小麦の作付面積はほぼ半分だが、単位面積当たりの収穫量では米は小麦の2倍で、アジアの人口がヨーロッパを大きく上回っているのはこのためである。これから将来の人口圧迫を考えると、稲作の方が合理的である。また、稲作には、水の管理や世話で集団の高度な技術が求められので、稲作で培った管理技術は製造業を支える能力となり、アジアを世界の工場に変身させる基礎になったとも言える。 要約は以上。

<太陽信仰と鳥>

 長江文明は長江の中流域と考えられていましたが、古い遺跡は上海の南でも見つかっています。それが『河姆渡(カボト)遺跡』で、7000年前から5000年前に稲作を始めたとされています。

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 ここでの遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたと考えられているようです。

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 円い形のものが太陽かどうかは異論も若干あるようですが、太陽信仰がエジプトなどの古代文明でもあったことから類推したものと思われます。

 鳥への信仰も古くから世界中でみられ、多くの神話に鳥が登場します。日本では、『日本書紀』や『古事記』に「天岩戸」の「長鳴鳥」、「日本武尊」の「白鳥」が描かれています。夜明けを告げる、あるいは飛翔し往来する、といった鳥の能力に由来するのでしょう。また、鳥は農耕社会との関係も深く、「稲の穀霊」を運ぶ生物として、境界を守る「物見鳥」として神聖視されています。こうした鳥の信仰は、弥生時代には土器に描かれた「鳥装のシャーマン」や竿の上につけた鳥形木製品から、そして古墳時代では古墳に並べられた鳥形埴輪や鳥形木製品から考えられています。

 そして、太陽を運んでくれるのが鳥でり、太陽の永遠の再生と循環を手助けするものとして崇められたと考えられています。こうした、太陽信仰と鳥との関係は日本神話でも見ら、天照大神は日の神、すなわち太陽神ということです、そして、その子孫である神武天皇が吸収から東征のとき、熊野から大和に入る先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であったという伝承があるからです。また、景行天皇の子で日本武尊(やまとたけるのみこと)は、東国の蝦夷(えみし)を征服したあと、伊勢で亡くなるのですが、大きな白鳥になって飛び去ったという伝承を残しています。伊勢神宮、熱田神宮、石上神宮、鷲宮神社、青井阿蘇神社、忌宮神社、真清田神社、松森天満宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされていことも、そうした説の1つの根拠とされています。そもそも、神社には「鳥居」というものがありますし、朱色をしているのも、稲作に必要な太陽の光や温もりをあらわしていると稲荷神社では説明しているようです。


 現在のところ稲作は紀元前10世紀というのが定説ですが、長江文明の人たちがやってきて、稲作が東北地方で一番古い水田遺跡である砂沢遺跡まで広まるのは紀元前4世紀といわれています。また、関東地方では紀元前2世紀とおそくなります。紀元前だと、関東以北である本州の北半分では、稲作がおくれているようなことが見えてきます。なにがしら稲作を受け入れないような縄文系の強い勢力があったと考えるとつじつまがあうのでしょうか。

 下図は前にもあげたのと似ていますが、縄文から比べて西日本の人口が多くなっているのは、やはり稲作の拡大が原因であると納得してしまいます。
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古代人のこころと自然観 その23 長江文明

 古代人シリーズも長くなってきました。そろそろとは思うのですが、まだ、大きな疑問があります。

 これまで、源日本人として縄文人を中心に取り上げてきましたが、この日本列島に移り住み、人口が増えていったような前提で書いてきました。しかし、アフリカから出たホモサピエンスが移動したり、移動先の中東やヨーロッパ、東アジアに移り、そこから日本列島に住んだきたということにとしても、それらが一度しかないというのは不自然です。むしろ、断続的に、定住と移動を繰り返して、日本列島に何度も来たたのではないかと思うのです。

<日本独自の縄文文化だが、人は西から?>

 沖縄で見つかった人骨は2万7千年前、長野県での石刃(せきじん)は3万6千年前と言われています。さらに、大型石刃・小型石刃・大型尖頭器の三種があり、それを中東からだどると、中東(4万8千年前)→中央アジア(4万5千年前)→中国北部(4万4千年前)→朝鮮半島(4万2千年前)などと時代を下りながらつながってゆき、日本に伝わったことが考えられています。石器が伝わるということは、生活様式も伝わるということです。製造方法はもちろん、生活の仕方や考えも伝わるということになります。生活の変化では、か弱い人間が弓矢や石斧、投げ槍という武器を持ち、小動物や大型動物を確保し高エネルギーの食料をえることになります。もちろん火の使用(世界的には70~50万年前から)も
あって、焼き肉をしたのではないでしょうか。氷河期では大型動物、例えばマンモスは、個人で倒すというよりも、集団で狩猟したでしょうから、協働的な狩猟だったと思われます。日本の縄文以前もこのように狩猟、そして漁労、採集で暮らしていたことでしょう。しかし、世界史における縄文時代の最大の特質としては、世界最古の土器が日本で発見されていることです。食料の保存はもちろん、煮炊きという調理革命を達していたのです。

 「(縄文)調理革命」という言い方は私の造語ですが、煮炊きをすることで、草などの植物を食べられるようになったり、硬いものをやわらかくすることもでき、食料となるものの幅を格段に広げたのではないかと思うのです。硬い木の実や、ヒエ、アワ、後のコメという穀物でも、この土器による煮炊きによって食用とすることができるのです。

 日本の縄文時代も中頃以降になると、世界各地で、狩猟採集生活から畑作へと移り、文字や建築面でも高度な文明が発生してきます。問題は、そこでの文明の栄枯盛衰による人々の移動はなかったのかということです。 
 
 ・最古の文明といえば「シュメール文明」です。ペルシャ湾に注ぐ川この文明は教科書にもでてくる、メソポタミア文明の1つですが、発生は紀元前5500年からで、灌漑農業や土器、くさび形文字などをつくりだしました。紀元前2000年頃には衰退します。アフリカからの移動では、もっともアフリカに近い中東の地域での文明といえます。

 ・次は、同じペルシャ湾の北東にあったエラム文明です。発生は紀元前3200年。

 ・次は、インドの北西部でのインダス文明。発生は紀元前5500年。土器をともなう新石器時代から始まります。砂漠化や森林破壊で滅びます。

 ・中国文明。現在は黄河文明、長江文明、遼河文明など複数あります。紀元前7000年頃から竪穴住居、栗の畑作、土器や磨製石器が使われ、その後ろくろによる薄手の土器が出てきます。紀元前2000年ごろから青銅鋳造の技術があったとされます。しかし、長江文明はそれよりも古く紀元前14000年~紀元前1000年。初期から稲作が行われ、畑作中心の黄河文明とは異なり、黄河文明の南下で滅びたとされています。ここでの稲と日本の稲が同種であることが確認されていて、弥生時代との関連が深いとされます。

 こうしてみると、稲作との関係では 長江文明の影響 がまず考えられます。

 日本の稲作に関しては従来、紀元前5~4世紀頃に始まったとされていましたが、2003年になって、国立歴史民俗博物館が遺跡からの出土品や土器に付着した炭化物などの年代を炭素14年代測定法によって推定した結果、従来の定説より約500年ほど早い紀元前1000年頃、前11世紀に開始されたとする研究結果を発表しています。さらに、日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっていて、また同県の南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器が見つかっているとのことです。こうしたことを考えると、長江文明の稲作が、早くから伝わったり、なによりも長江文明での稲作の人々が黄河文明に侵略された頃に、日本列島にきたということになるかもしれません。そうしたことは稲作だけではなく、信仰や生活意識にながしらの変化をもたらしたことが考えられます。

 長江文明は中国大陸で起こった文明ですので、当然に中国人かもしれません。染色体DNAでも、O系統が渡来人としてきたのではなかいとされています。

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 上の資料は、東大のヒトゲノム多様性研究室のものですが、現代でのO系の渡来人とC系の縄文人の
分布を都道府県毎にみたものです。オレンジ色の濃いほうが比率が高いということでは、近畿を中心にオレンジ色が広がっているようです。意外にも四国、新潟に多いですし、朝鮮半島に近い九州北部が青味がかっています。これから考えると、朝鮮半島という経路もあるようですが、中国大陸の長江の川を下って海へ、それから台湾海流、対馬海流から直接に日本へという海路から、中国地方や新潟半島に来たかもしれません。また、九州北部へ渡来しても、より東へと向かっていったのかもしれません。

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 「長江文明」での信仰なども調べると関連も分かってくるかと思うのですが、1970年代に発見されて、その後も付近に関連した遺跡が発掘されていて、まだ研究の日が浅いとのことです。次回も、長江文明に触れます。


 このシリーズでは主に縄文時代を意識して扱っているのですが、稲作が普及する弥生時代となると、いわゆる貧富の差ができてきて、支配層などがでてくることになります。さらに、支配層による信仰の統一化や神々の整理統合、序列化のようなことも起きてくると思われます。

 歴史上では、弥生時代の次には、大和朝廷というような階級社会である古墳時代へとなっていきますし、そこでは「神道」的なものが醸成されたり、後には仏教といったものが日本へと伝わってくると言うことになります。おそらくは、縄文以来続く日本各地での土着の信仰が、豪族の頂点である天皇一族の太陽信仰である神道に吸収されたり、共存していくのではないかと思うのです。
 神道は死を「穢れ」としていますし、死後の世界をあまり語ってはいないようです。そちらは、むしろ仏教の分野のような扱いをうけているかのような記紀の内容であるらしいからです。

古代人のこころと自然観 その22

 相当長いシリーズになりました。シリーズとはいえ調べながらのものですので、隙間のあいたジグソーパズルのようです。

  縄文時代中心のものですが、教科書で知ったようなイメージとは異なるものを得ました。

・人や動植物、あるいは無生物という物と、あらゆるものに霊魂が存在するという観念的な自然との一体感の中で、人や自然との協調を図って生きていた。

・自然に左右されながらも、霊魂を信じることで、豊かな収穫や再生、防災などを祈った。

・縄目の土器や蛇の造形から蛇信仰、女性土偶からは女神信仰、地母神信仰が中心だったと思われる。
 しかし、現在神社にもある樹木や岩石、山などが神の依り代となることから、多くのものが祀られていたと推測される。

・狩猟漁労採集や土器・鏃等の生活の技術、埋葬・祭祀等を維持するために何らかの伝承がおこなわれていたことが想定される。

・それと共に、卓越した技術を持つ者や埋葬・祭祀を取り仕切る者、ムラを取り仕切る者、縄文文化を推進するような者などのリーダー的存在がいたことが想定されます。
 

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 国宝に指定された以外にも、重要文化財が多くあります。また、下図のような文様を見るときも、デザイン性や緻密性の高さを感じます。予想以上に高い精神性と知恵をもっていたことが充分にうかがい知ることができました。

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 新石器時代、縄文時代とはいえ、厳しい氷期が終える温暖化の中で自然の恵みに支えられながらも、現代日本と同じような地震や津波、はたまた台風による幾多の災害の中で立ち直りながら、共同性や忍耐性が培われ、優れた土器や土偶などを創り上げる芸術性をももっていました。また、あらゆるものに霊魂があるとしたような精神性は、弥生以後の現在までも神道的なものや厳密な教義をもつ仏教にも伝わってきていると思います。さらに世界的な一神教信者が人口の1%と極めて少なかったりするのも、縄文以来のアニミズム的な汎神論や先祖崇拝的なものが背景にあるのではないかと思っています。

 やはり、西洋の一神教的世界においては、神、あるいは神と類似したものを信じるか信じないかが重要な問題なのですが、多神教的世界における日本にとっては、認知や理解と言ったものよりも、神々の気配(感性的な)を感じるか感じないかという「感じる宗教」ということが言われています。自然の恩恵や美、神秘さ、癒やしなどを感じたり、身近にある自然とのメンタルな結びつきが強いのが古代人であり、その心情をずっと受け継いできているような感じがします。

古代人のこころと自然観 その21 土偶の意味から神話へ

 土偶の解釈はいろいろあるようですが、記紀神話では面白いことが書かれてあります。

<女神から食物がもたらされる>

 古事記から

 天界の神々が女神オオゲツヒメ(大宜津比売)に食物を求めた時、その女神は自分の鼻と口、尻から、いろいろな美味しい物をとりだし、それを調理して神々に差し出しました。その様子を見ていたスサノオは、汚い方法で料理をだす女神と思ってその女神を殺してしまうのです。すると、その殺された女神の頭から蚕が、目から稲、耳から栗、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生じました。その時、女神の身体に生じた種子を、カミムスヒという神がスサノオに取らせ、地上界に穀物がもたらされたという話です。

 日本書紀から

 アマテラスは、ツクヨミ(月夜見=月の神)に芦原中国にいるウケモチ(保食神)という女神をみてくるよう命じます。そうしてウケモチの所へ行くと、ウケモチは陸を向いて口から米を吐き出し、海を向いて魚を吐き出し、山を向いて獣を吐き出してツキヨミをもてなします。ツキヨミは「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒ってウケモチを斬ってしまいます。その後、アマテラスがアメノクマヒトを行かせると、すでにウケモチは死んでいて、死体の頭から牛馬、額から栗、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれていた。これを持ち帰るとアマテラスは喜んで、民が生きるための食料とされた。

 これらをみると、食物が女神の死体から生まれたということになります。前回の土偶から考えてみると、不思議な繫がりを感じます。土偶における破壊の意味の謎が解けるようです。そして、土偶における祭祀的なもの、その考えの根源が忘れ去られることなく、1万年間も伝えられ発展、追加していき、記紀での神々(奈良時代)に文字=物語として残るということが、一つの奇跡のように思います。後の女神や神というような存在もひょっとしてこの土偶という物からイメージされてきたのではないかとも思わせます。

 このような殺された女神から食物が生じるという話は、インドネシア、ポリネシアからアメリカ大陸にかけて広い地域にあります。ある学者は元来イモの栽培文化の起源神話としてつくりあげられたとしていますが、日本の記紀の場合は様々な穀類や蚕、動物も生じることから複合的な文化の流入による神話となっているとしています。

 土偶はどんな契機でつくられるようになったのかも興味深いです。たまたま子供がつくったのか。亡くなった幼子の母を慰めるために作られたのか。いつから女性が多くなったのか。
 
 古代人もまた、食料はすべて元は生命であること、生命を殺さなければ、食料を得て生きられないことを知っていたのでしょう。いまは生産者、とさつ解体業、販売店という仲介があることによって、食物が生命の死によってえられていることについては全く希薄になっているようです。

古代人のこころと自然観 その20 土偶の意味

 山内丸山遺跡でも土偶が出土されています。平面的で十字の形のものが多く「板状土偶」とよばれています。

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 山内丸山遺跡の近くの亀ヶ岡遺跡からは、有名な遮光器土偶が発見されています。これは東北地方特有ですが、これを模したものは北海道から近畿地方まであるそうです。宇宙人説もあるようですが、イヌイットやエスキモーの人たちが冬期間に狩りをするために使った遮光器の形に似ていることから名付けられています。
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 土偶というのは、縄文早期から出土されていて、人の形をした土製の焼き物で、多くの土偶は東日本に圧倒的に出土されるとのことです。実際の人型や霊的な存在のようなものを含めて土偶といって、動物や物は含まれません。こうした土偶は、世界的には農耕社会でのシンボルとされていて、日本の狩猟採集である縄文時代にあることが稀だそうです。世界的には女性を表したものが多く、農作物の豊穣を祈る地母神崇拝のための人形とされています。

 さて日本の土偶に戻りますが、女性の生殖器をデフォルメしているものが多かったり、半数以上が壊れていたり、故意に割られているものがあるようです。地母神崇拝というものがあったかは不明ですが、下記の諸説があります。

・神や霊魂をこの世に呼び出したときの依り代として土偶を用意して、祭祀を行い、祭祀を終えるために土偶を破壊した。

・脚部の破損が多いことから、祭祀の際に破壊して、災難や禍を祓う。

・特に女性の生殖器をデフォルメしていることから、安産、多産を祈る。

・ばらばらに破壊し大地にばらまかれたものは作物の豊穣を祈った。

・生命の再生、女神像、精霊の像、お守りなどとして作った。

古代人のこころと自然観 その19 縄文の先祖信仰

 三内丸山遺跡の様子をみてきましたが、自然の中での居住性と生活利便性をうまく考えたムラ計画です。この回は、代表的な縄文集落と土壙墓の形態を見ていきます。


 縄文時代のムラ計画の中で一般的なのが、環状集落と呼ばれるものです。埼玉県嵐山町のHPからです。

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 上図は概念図ですが、環状に住居群があり、中央の空間が祭祀を行った場所と埋葬場所となります。何カ所か住居が密集しているのは同一家族や同一家系ではないかという研究も進んでいるようです。

 下図は岩手県の西田遺跡図ですが色分けされているように環状に建物があり中央部が墓が見いだされました。掘立柱住居は倉庫に使われたそうです。
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 この環状集落が東日本一体に分布し、居住域の直径は70~150m以上もあるそうです。この2図を見ると、確かに環状ではありますが、祭祀場所と土壙墓を中心にして集落が作られていると見ることができます。祭祀場所であるとの根拠としては、そこに環状列石があること(縄文後期には集落の外に移行)をあげているようです。他の場所から数百もの大きな石を運び込み(幾世代にもわたって?)、円形に設置して何らかのモニュメントを作り上げていくには、何らかの思想のもとに祭祀をおこなったと考えられているからです。

 さらに興味深いのは、上図の西田遺跡での埋葬の様子です。中央の十数体の土壙墓を中心に
放射状に頭を外側にして埋葬されていることです。

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 見事なまでの配列ですが、これを指示するようなリーダーがいたとしか考えられません。さらに当然にそのリーダーも世帯交代するわけですので、そのようなリーダーが中央に埋葬されていたと考えられます。それを中心に整然と埋葬されているのをみると、中央の埋葬者達は、ムラを守護したり、ムラ人の魂をあの世へと誘うような先祖神として崇められたように思います。

 さらに、放射状の埋葬では頭が少し高いということも考えると、この埋葬方法は平面的ではなく、中央の先祖神の霊魂の上昇経路やあの世を頂点として、それを見つめ各々の霊魂が上昇していくことで描かれる「霊魂上昇の円錐形」のようなものをイメージします。縄文世界は、水平面の同心的な空間と空の向こうの天までの垂直的空間の中で生活していたと考えることができます。

 このような先祖崇拝、先祖信仰は、後に、同じ系統の部族、あるいは、同じムラに住む人々の氏神(うじがみ)となっていったのかもしれません。

古代人のこころと自然観 その18 三内丸山遺跡その2

三内丸山遺跡から考えられるのは以下のことでです。

 ・最盛期には500人ぐらいの縄文人が住んでたいたとされます。
 ・居住区の外には、管理された人工林があって、その外に自然林がある。
 ・保存食にもなるクリを栽培、管理していた。漆器作りに必要な漆林の区画を設けていた。
 ・いわゆる山里のような管理された林で野草を採り小動物などを狩っていた。
 ・魚介類や原生林で大型動物や薪炭を得る専門的、分業的な小集落との交流があった。時には、大集落の縄文人が手伝いに行っていたことも考えられる。
 ・食べ物では、クリの出土が多く、イモ類や山菜、マメ類やヒョウタンなども栽培されていた。動物ではムササビや野ウサギなどの小動物が多い。魚類では、マダイ、ブリ、サバ、ヒラメ、ニシン、サメ類が多く、フグも食べられていた。調理方法としては「焼く」よりも「煮る」が多いとされている。また、エゾニワトコを主に、サルナシ、クワ、キイチゴなどを発酵させた果実酒を飲んでいた。
 ・鏃では北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形件月山、新潟県佐渡、長野県霧ヶ峰など、日本海を中心とした産地から黒曜石が運ばれてきた。装飾品となる非常に硬いヒスイは、新潟県糸魚川周辺から運ばれてきています。これらをみると6,700kmもの交易圏があったと思われます。この点では、津軽海峡を横断したり、黒潮や親潮、対馬海流の潮の流れなどを知り、航海技術をもった「海洋の民」との交流があったと思われます。

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 上図は居住域の大集落の一部の復元図ですが、このような場所に最盛期に500人が住んでいたというのが通説です。これに疑問を持つ説もあり、多くて100人程度が、食料確保や排泄や廃棄物等での限界との意見もあります。

 500人説で考えてみると、1家族が多くて5人とすると、夫婦2人が働き手となるでしょうから、100人以上もの働き手が、狩猟採集、栽培、燃料集め、土器造りなどに携わっていたことでしょう。それぞれの仕事毎に詳しい人が中心となり分業していたことでしょう。子供や幼子をみるために留守番的な女性もいたかもしれません。さらに、時期的に忙しくなる秋のクリの収穫、山菜とりもあり、あらかじめあの大型住居に集まっていろいろな相談をしたかもしれません。この大型住居や櫓の建造を考えると、日々の建造に必要な大人の人数や食料確保の大人の人数からは100人程度の働き手がいないと、不可能かとも考えるのですが、いかがなものでしょうか。

古代人のこころと自然観 その17 三内丸山遺跡その1

 今回は、山内丸山遺跡の生活域ということから、自然との関わりを少し考えてみたいと思います。   

 縄文時代では定住が始まったのですが、定住といういうことは、自然の中に人間の居住地域というものができあがることです。それまでは、自然の洞窟や穴、大木の下で火をともし、風や寒さをしのいでいたという自然の中での生活でした。しかし、定住と言うことでは、大自然の中に人工的な空間ができるということです。さらによく考えると、食料や飲料水など生活に必要なものを得やすい場所を考えて居住地域を選ぶという能力があったということです。そしてまた、居住地域内とその周辺での都市計画ならぬ「ムラ設計やムラ計画」もあったということです。例の埋葬場所がそうです。

<山内丸山遺跡の集落>

 山内丸山遺跡の居住地域とその周辺地域の研究による「集落生態系」というものが明らかになってきています。これをみると、居住域から生活域、さらに離れた区域での原生林(自然)というムラの様子から、自然との関わり方をみることができます。まずは、山内丸山遺跡のあった最盛期の様子です。これは遺跡発掘の考古学以外に、地質学や植物学、植物の分子遺伝子学などとも協力して作成したそうです。赤い部分が居住域となります。


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   縄文時代は間氷期で温暖化してきますので、海進と言ってどんどんと海が近くなってきて内水域や湿地も北側にあります。赤い居住域一体は標高20mで、まだ海進による影響がなかった頃でしょう。
 居住域の周囲のピンク色の区域はクリの林で、野生種のとは違い大粒で、遺伝子解析で同じ遺伝子のものが発見されています。これを見ると、食料として適切なものを選んで作られた人工林であるという結論です。美味しいクリが植えられ、食料や暖房、煮炊き用燃料としても利用されていたとのことです。ちなみに高さ20m程の物見櫓の柱は直径1mのクリだったそうですので、近間かどうかは不明ですが、クリの木を保存可能な食料として大事にしていたとともに、古くなったクリの木を大切に使ったと思われます。

 ピンクのクリ林の西にはウルシ林もあり、漆器を作るために作られたと思われます。漆塗りの漆器や装飾品が発見されています。この漆については、福井県の鳥浜貝塚から赤色漆の櫛が発見されていて、同遺跡からは1万2000年前のものとされる漆の木片も発見されていることから、漆塗りは日本が発祥ではないかと言われています。9000年前とされる漆塗りの衣服も北海道から発見されているので、日本全国に漆塗りが伝わっていたと考えられています。

 さて、上の図に戻ります。緑色の区域は二次林と記されています。二次林というのは現代用語ですが、人工的に伐採されたり、火事等に遭ったあと再生させた林で、いわゆる里山と呼ばれれいるものです。縄文時代でも、薪や炭を得たり、小動物などを狩猟したりする管理された林であったとのことです。従って、ここも日常の生活域となるでしょう。それらの外側は落葉広葉樹の林で、自然林、原生林となり、狩りの場所にもなったことが考えられます。

 林以外を見ると、居住域側には川があります。真水は飲料や食事には欠かせないものです。淡水魚も獲れたことでしょうし、漁労で海に出る際の出入り口にもなります。自然にできた小さな池や湖、あるいは湿地では鳥や大型動物もいたでしょうし、住居の屋根や壁に使われた葦も多かったでしょう。ところどころに小集落がみられますが、専業の人たちが定住していたのか、季節的、時期的に大集落の人々が仮住まいしたのかは個人的には未調査ですが、機能的な集落から分業的集落、専業的集落が分かれていった可能性を示唆するものとなるのではと思います。 

古代人のこころと自然観 その16 縄文の生活

  歴史上の古代とは飛鳥時代や古墳時代から始まるようですが、個人的には土器を使った縄文時代からというのが私のイメージです。道具作りはもちろんですが、葬儀や信仰、縄文晩期からの勾玉などを含めて精神的な文化を築いていたというのが理由の一つです。

 ・人間や他の動植物や自然にも霊魂があるということ。その中でも蛇信仰が盛んになってきたことで、不死・長寿・再生などを強く願ったのではないか。

 ・また、漁労狩猟採集と言う食生活では、より多くの獲得と収穫を願うことから、植物や動物信仰があったのではないか。

 ・火山や暴風雨、洪水などの自然災害という恐怖や畏怖から、山、巨木、太陽、雷などへの信仰も出てきたのではないか。人と同じような霊魂のあるものとして、人間と生物、無生物を行き交ったりして、災害防止や豊穣などを願うという信仰もあったのではないか。

 ・そうするならば、人間は共に霊魂のある自然界とともに生き、祈りの中で、平均寿命30歳という短い人生を生き抜いていたのではないだろうかと思うのです。


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 ちょっとしたイラストですが、当時の狩猟採集生活は、労働時間として3、4時間で1日の食料を得るほど、温暖化してきた縄文時代は豊かだったという説もあります。狩や漁労は男性、採集は女性中心だったでしょうか。ときには土器を作ったり、竪穴住居の補修だってあることでしょう。風雨などで狩猟採集に出かけられない日は、乾燥させたもので食事をしたでしょうし、晴天を祈ったかもしれません。狩猟がうまくいかない時は、山や木、動物の霊魂に祈ったことでしょう。

 こうして人口が増えてムラとなって、居住区域が広がって行ったでしょう。周囲は野原や樹林に、川や海があったかもしれませんが、無闇に食料をとったり伐採したりはしなかったでしょう。衣食住の全てが自然に委ねられている生活です。そして、衣食住のみの生活から、祭儀を行う場所と施設、共同的な墓地、はたまたヒスイなどの装身具を作るといった、心の深まりが生まれてきたと思います。縄文ではゆったりとした時間と豊かな自然の中で営まれと思います。

 実は、日本の新石器文化=縄文文化は、世界的には異質の文化なのです。西洋の歴史では農耕のない新石器文化はレベルが低い文化と今まで考えられてきたのです。しかし、西洋での農耕文化というのは、木々を伐採し野原を焼いたりして、自然を破壊して農地を広げることで経済的・文化的に進歩することです。日本の縄文時代にはそれがなかったということで、西欧とは異なった文化を醸成していたことが評価され、北海道・東北の縄文文化が世界遺産になったのです。
(西洋ではムギが主食ですがが、コメ比べるとその生産性は極めて低く、麦は連作障害があって同じような広さの休耕地や畑作地が必要です。コメは連作障害もなく生産性は数倍です。それで、西欧では畜産も盛んになり牧草地の確保が必要になり、牧草地や耕作地が拡大されていきます。)


 また、言語にもどるのですが、おそらく土器や石器、弓矢や槍、衣服などの作り方も狩猟採集の場所や他集落との交易などで、片言であったとしても共通的な縄文語というものがあって、手振り等も交えながら教え、伝えたのかもしれません。

 「日本語のルーツに関しては、アルタイ語(蒙古語・満州語・朝鮮語・トルコ語などが属するらしい)と似ていると言われているのですが、どうも、未だ答えがでてなくて、日本語は、世界の言語の中でも特異の存在(日本語が属する言語が世界にない)で、日本列島で長い間に形成された独特の特色を有しているようです。1998年5月に出版された言語学者故小泉保氏が「縄文語の発見」(青土社)が、縄文語の研究をまとめられているようです。

 日本語は弥生時代を起源とするとの主流の学説に対し、「はたして、縄文時代の言語は弥生時代の言語に駆逐され、消滅させられてしまったのであろうか。600年足らずの弥生期に弥生語は縄文語に完全に入れ替わったのであろうか。こうした弥生期における言語交替の証拠はどこにもない。」
                           斎藤成也 国立遺伝学研究所

 「縄文語」については、言語学会での非主流派です。例のタミル語語源説と同じようなものかもしれない。しかし、弥生の稲作文化という先進文明が入ったとしても、遥か1万年以上の歴史を破滅させ、言語をも駆逐することがあったのだろうかと思います。稲の遺伝子解析から、日本の稲は中国の長江文明が発祥だと解明されました。そして、黄河文明が南下して長江文明(14000年~1000年頃)が駆逐されることになるのですが、そこを逃れた人々が海路や陸路で日本に来て稲作を伝えたというのが今の定説です。日本語には中国語や韓国語の痕跡が非常に少ないというのも、いわゆる大量に人々がきたのではなく、長い年月をかけて移り住み、弥生時代へと変わっていったとかんがえられます。

 従って、稲作文化を伝えた人々の言語は、稲作技術や保存方法、あるいは中国や韓国での新信仰などには残るかもしれませんが、多くの日常言語は日本語であったと思います。

 日本語の源流を探る研究は、あまり進んではいないようです。何と言っても、記録された文字がありませんので、漢字が伝わった6世紀以降の文献から類推するしかないのですから、非常に困難なものでしょう。先にも書きましたが、日本語が世界でも特殊な言語ということでは、日本で生まれたものであるという仮説が有力であるのは非常に興味あるところです。やや異端的なインドのタミル語語源説やユダヤ語(ヘブライ語)語源説、擬音語などに重複される言葉は南方系であるなどと言われるのは、日本が古代においては他民族的な要素のある地域であったということで、複雑に混じり合ったのではないかと思われます。

 土器を作る。あるいは、石器を作る。はたまた、石器の原料となる黒曜石を数十キロも離れた島に船で採集しにいく。栗の木を育てる。必要な食料を取りに行く。などの生活が、全くの言葉なくしてできるものでしょうか。また、それらが全国的に広まっていく、代々と引き継がれていくことについても、言葉なしでは考えられないことです。

古代人のこころと自然観 その15 太陽と蛇

<蛇と天皇家>

 天皇家となると、弥生時代にも入ってくるでしょうか。

 弥生時代に蛇信仰がなくなったかどうかについては、未調査ですが、記紀神話(8世紀前半に編纂)をみると残っていたようです。

 記紀神話の中で、初代天皇は神武天皇です。天皇はアマテラスを信仰するので、いわば太陽信仰となります。しかし、神武天皇の家系をみると蛇信仰との影響を伺わせるものがあります。海神の娘である豊玉姫は蛇の姿になって「うがやふきあえずのみこと」を産み、その皇子とおばの玉依姫との間に産まれたのが神武天皇ということです。

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 神武天皇は太陽信仰一族なのですが、海神・龍蛇神=蛇信仰の者との間に産まれた子となります。その後、神武天皇の子々孫々が天皇になるので、蛇信仰を取込んだ形になります。戦前は皇紀2600年という時期がありましたが、ほぼ紀元前7世紀に神武天皇が即位されたとされます。弥生時代は過去には紀元前300年ほどと考えられていましたが、現在では紀元前10世紀までたどるということができるようですので、神武天皇即位は弥生時代中期に入る頃になります。縄文から弥生の土器の変化には、太陽信仰の覇権が起こって縄文土器がなくなり、蛇信仰の潜在化が行われたかもしれません。

 潜在下というのは妙ですが、仏教布教に霊魂信仰が利用されたように。太陽信仰にしても、広く行き渡っていた、あるいは有力な部族的な集団の蛇信仰とが併存していたと思われます。それが神武天皇の出生逸話にあり、そして、数多くある神社に残っているということです。神社はすべて天照大神を祀るのではなくて、実は有名な神社には「蛇神」を祀るところがあるそうです。

 縁結びで有名な島根県の「出雲大社」は、そのご神体を「竜蛇さま」と呼び、、神聖な浜に漂着したヘビを、とぐろを巻いた状態にして祀ります。また、奈良県の大神(おおみわ)神社は、三輪山を御神体とする神社で、祭神の「大物主」は蛇の姿をした神だと伝えられています。長野県の「諏訪大社」の祭神も本来は蛇の神だと伝えられ、「みしゃぐじ」とう土着の古代神の存在が有名だそうです。これをみると、太陽信仰である天孫系の天皇一族が、国譲りを要求した国津系は蛇信仰であることが分かります。ひょっとして縄文時代から続く蛇信仰を持ち続けた大きな勢力が本州にあったことを物語っているのではないかと思います。

<八百万の神>

 また、多くの神社には「八百万の神」が祀られています。大まかに分けると、記紀神話に出てくる神であったり、その土地に古くから祀られている先祖や守り神、そして、元人間です。中には、記紀神話(天皇も含め)とその土地の先祖・守り神が合わさったものもあるようです。実は、全国で一番多いのが八幡神社で八幡さまというもので、これがこの合わさったものらしいです。

 神社には「御神体」というのがあります。御神体というのは、神が宿るもので、神は普段は人間の住むこの世にはいなくて、いわゆる「常世」にいて、この世で祭りが行われるときに御神体に降りてきて民衆に祝福をもたらして、常世に帰っていくものとされています。従って、御神体にはいつも神がいるのではなくて、「依り代」「御霊代(みたましろ)」と呼ばれます。

 一般的に御神体には山や岩、木、剣、勾玉、鏡、滝、男根、きのこ、髪、蛇、虎、犬、鶏、鹿、鳥、狼、狐、ムカデなどなど、様々です。このあたりは、それこそ古代の霊魂信仰からくるような自然、動植物信仰が神社にも取り入れられていると思います。さらに、岩や木などにも蛇を表すしめ縄があるようです。そして、元人間を祀った菅原道真や徳川家康の神社もあるので、先祖信仰が残っているという多様性のあるのが神社というか、神道的な考え方なのでしょうか。

 天皇という最高権威者がいて太陽信仰をしていても、それを押し付けることなく、民衆にある様々な信仰を吸収していくというか、その存在を認め、共存していくというような「寛容さ」を精神の根底にもつのが倭人・古代人であり、それを引き継いでいるのが日本書紀以降の日本人(ヤマト人)なのかもしれません。ちなみに、異種の信仰を邪教として駆逐していくような闇の歴史をもった宗教が一神教にみられますが、日本でのこのような考えは全く異質なものであるにちがいありません。 
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