PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

写真考

写真についての個人的なメモです!

「霧」の解釈 3

 10日間ほど、全く食欲がなくて、1日に水とヨーグルト3個ぐらいで終わらせていたら、4kgも体重減。何もやりたくないという状態だが、短いながらも勤務はつづけている。やっと、血液検査、エコー、胃カメラと医者に診てもらう。軽い胃炎があるとのことで、薬をもらった。食べないと胃の方もよくならないとのことで、パン食、サラダ、麺類と少しずつ食べるようにしているが、やはり朝の食欲はゼロである。したがって、撮影の方もずっとご無沙汰状態です。

 霧についての その他 (記事は貯めているので蔵出しということです)

 霧を主体にとは考えても、ただ白いだけのもの。それが霧と見えるには、

・背後に何がしらの物が潜んでいて、それがかろうじて見えるようなこと。
・霧の隙間や境界上に物が見えること。
 つまり、霧そのものと物の複数の存在があってこそ、認識される。こうした相互の関係性でしか霧は描写できないものがあるということになります。

 下の写真は、そのようなことが頭の中でよぎりながら撮ったものです。
 全体的に霧がかかっているのですが、上には帯状の霧があります。林と林の間にも霧があります。
 
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 そして、帯状の下全体に霧がかかっています。霧が霧であるためには、霧の薄いところで物が見えるよな描写、鮮明な描写ではないことでは霧を認識できるような描写が必要となるわけです。

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 これは、薄く見える部分と霧で見えない部分を約半分にしてみました。
 次のものは半分以上です。


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 このように、霧と他のものがなければ、霧というのは描写できない、認識できないということになります。何か、当たり前のようなことですが、これが分かったということになります。

 従って、霧光景では、どのように物を描写、見せることができるのか、その見せ方(捉え方、撮影チャンス)が大切なこととなります。そのような関係性が重要ということです。

 霧という状況の中で物が、
 ・霧の影響を受けずに明確に見える
 ・明確な部分もありながら、隠れていく部分がある
 ・霧に影響されるにしても、ボワッとしていて何かはわからないようなものから、丘、木々があると分かるようなものまであるということ。

 こうしてみると、非常に繊細な観察での撮影が大切か、ということがわかります。霧の量や流れ、さらに元景色との関係で、視界全体に様々な撮影状況が立ち現れきます。そこをどうフレーミングし撮影するのかは、それこそ無限だと考えます。従って、写真の技術や景色の捉え方などが試されるいい被写体ではないでしょうか。

 繰り返しになるかも知れませんが、霧のある状況は、コロナ禍でのいわゆる陰謀論とされるような様々な情報、さらに、日頃興味のあった日本近代史での自虐史観の要因、偏向的なマスコミなどなど、今まで知り得なかった情報にも触れることができたことによる世界観の変化がまさに「霧」を象徴しているかのように見えることも、惹かれる原因の1つかも知れないということです。

 世界は善意とか正義、愛では動いてはいないかもしれない。善意や正義、愛とかを求めて生きているのは、庶民でしかいないのではないか。過日の衆議院選挙も候補者達は地域課題ばかりを取り上げているのも、そうした庶民の意図を汲んだものでいいかとは思うのですが、国政を預かる国会議員として、世界の中での日本の在り方や進むべく道をしっかりと提示してもよかったのではないかと残念に思うのです。票が欲しいがための直近の課題ばかりで愛想を振りまくだけでは情けないです。

 私たち庶民は、善意とか正義、愛とかでは動かない資本主義や共産主義のよくない面の本質や両主義を貫くような世界のグローバル化による統制社会の実現という企みについては、十分に知り得るものではありませんが、そうしたものが企む善意や正義、愛を踏み潰すようなものを明確に分析して対処して、日本と国民を守り、世界に気骨のある発言をしていくのも国会議員の大きな使命だと思ってしまった前回の衆議院議員選挙でした。

 こうした意味では、日本は霧、モヤがかかっているような感じです。その見えない部分では心や身体が侵食されているのではないかとも夢想=霧想してしまいます。コロナ禍で被害妄想になった訳ではありませんが、光あれば影ありで、それらを効果的に生かすという写真目線では、こうした両面的な世間の見方もあながち間違いではないかもしれません。

 「霧を見ながら、世の闇も連想する」という、いささかへそ曲がりの面も書いておきます。霧の描写面積が多い ときは、善意や正義、愛を踏み潰すものへの霧のような無力な抵抗かもしれませんし、わずかに見える景色は仄かな希望を象徴しているかもしれません。

 (今までの世間話には政治や宗教の問題はタブーだったようですが、日常的に情報交換したり、意見を言い合うような土壌ができない限り、政治家は磨かれないし、馬鹿な政治家がのさばるだけです。つまり、政治家に騙され馬鹿にされている庶民であってはならないし、そんな政治家だからこそ海外の政治家に騙され馬鹿にされていると思うのです。デジタル庁が出来て、中央官庁や地方自治体の全情報のサーバーをアメリカの企業に任せるということが決まったのだそうです。日本企業も落札には参加しましたがダメだったのです。LINE情報が1部中国に流れていたようなことがあったのに、アメリカならいいのでしょうか。はたまた、日本でのシステム管理上=サイバー攻撃防衛やSpy防止法がないために防御できないと判断したのでしょうか。何か情けない感じです。)

 霧については、これくらいで終わります。次回の課題は、「古代人のこころと自然観」のようなことで、再度、日本や一部他国のアニミズム的なものをさぐってみたいと思っています。
 自然の全てのものに魂があるような、動物を神の使いとか、山や岩、木に神が宿るような見方や、そうした中での人との関係を探ってみたいと思います。

「霧」の解釈 2

 前回は解釈前の理解という感じでした。


 霧に惹かれる理由

 ・霧自体の浮遊性と漂流性 
 ・短い時間に太陽光による色彩の変化が大きい。
 ・地上の元風景への流動的な変化。雲にも似ているが、地上の元風景に与える影響は強い。
 ・霧のフィルターが光景の明瞭さを減じて、幻想的な雰囲気を与える。

 霧は連続していることが多いためか、幻想的な光景も見せてくれる。しかし、必ず消えていくものであることから、それ自体には無常観もある。しかし、光との関係では華をも感じることがある。何といっても大体景色がみえるまで見るので、一時的な出来事という印象もある。

 (ちょうど昔懐かしい曲を聴いていたためか…)自分にとって大切なものをなくした思い出のようなフワッとした、時にはモザイクのような記憶のような思い出かのような印象もある。そして、現実に戻るように消えていく。もし、発生時にこんなことを思ってため息をつくと、なつかしさでもあり儚さや後悔になるのだろうか。これもやや負のイメージに近い。

 ただ、量的に多くなると、風にもよるが静と動の漂流には、「神秘なもの」としてのイメージもある。また、とにかく明瞭ではないこと、ファジイさがいいと感じる。場合によっては幽玄さ(神秘的な深みのようなもの)をも霧は演出するのではと思う。この神秘、幽玄を感じる写真は、まだ撮影の域、チャンスもないように思う。
 さらに、静かな動きは、心地よいゆらぎであるとともに、それに同調するかのような緩やかな心の流れに一体感をも感じる。行き場のないような霧だが静かに静かに落ち着く場所を探しているようでもある。はたまた、風の関係で舞い上がるようなダイナミックな面もある。
 色彩は、紫から朱への時にはまぶしいような、しかし多くは実に落ち着いた変化を見せる。

 霧は主題やテーマになるか

 なりそうな写真を見たことはあるが、未だに撮っていない。それは、横から見ていて俯瞰的な状況にはなっていないような気がするからです。鑑賞側に立っても、霧が画面いっぱいにあるが、やはり、何が写っていいるのか分かる物を探してしまうのが認識の傾向だからです。そのような傾向であれば、霧は脇役にしかなれないのでしょうか。次の2枚も霧はやはり脇役に見えます(前回にあげた写真は辛うじて霧が主役に思います)。霧を主役にできるか、名脇役として撮れるかは、今後の課題にでもしておくのがいいかもしれません。問題は、霧のある光景で何を目的にするか、テーマにするかでしょうか。

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 神秘さ、奇異な感じもある霧

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 穏やかさ、ファジイさのある幻想的な霧光景

 目的・テーマで1つ思ったのは、10月も最後の霧の撮影時。「人生や世界観などと重ねる」というのはどうだろうか、と思ったこと。漂流性、不明瞭性、ファジイ…!? 内面や心の動きで言えば…、
不動で確固たる信念はあったのだろうか。揺れる心、定まらぬ心。例え信念を持ったとしても、長く持ったのであろうか。自分の人生を考えることも少なく、時流に流されてきた面はないのだろうかと、重たくなるので止めた方がいいかもしれない。しかし、少しは含めて。宗教観、自然観、世界観には、これまで触れてきたが、そうしたものを込めて、何を霧光景で表現できるかはまだ詰めなければならないだろう。
  
 説明ばかり多ければ、写真にはならない。それよりも「写真や霧光景に何を語らせるのか」、それを写真で表現し、説明すべき内容よりも多くを語るもの(鑑賞者に委ねるもの)を求めなければならない。
 そして、ヒントになるものは、「霧の言の葉」である。喜怒哀楽を表し、映像から何かを読み取ってほしいという、強い願いからの「撮影状況判断」「フレーミング」ができるかである。10月の最後の霧の日は、前に述べた主役か脇役かとして、少しは意識してみたことが、自分にとって一つの変化であった。

「霧」の解釈 1

 霧光景がめっきり少なくなる時期に「霧光景をなぜ撮りつづけるのか」を考えるのもいいものだということで考えてみます。なぜ、好きなのか、惹かれるのか、その理由を探る訳ですが、あくまでも仮説の理由付け、意味づけです。 まずは、知識的な理解から。

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 霧の特長

 ・元風景に流れるような変化を与える 霧は流れることは当然でも、元風景が刻々と変わっていくこと。
 ・私の日常的にはまれなことで、異世界の印象をもつこと。元風景の詳細を隠して、見えにくく、ときには見えなくすること。
 ・濃度にもよるが霧はそうした元風景に見え隠れする場所を与えること。
 ・日の出前後では、おそらく白である霧が、異なった色彩を見せること。さらに、元風景の色彩もかわることで、異世界観がさらに深まること。 
 ・その発生や流れ、量は予測不可能の自然の成り行きであること。(発生しそうな条件は分かるが)
 ・空気中の水の小さなかたまりでしかないことだが、水自体が、みぞれ、雪、雨などと状態を変え、日常的な空気中では見えないこと。

 霧が一般的に象徴するもの  不安、混乱、孤立など(夢占い、文学上で多いそうです)

 グリム童話で有名なグリムの辞書でも同じようなものが見いだされるし、惑わし、欺く、間違ったものにも比喩される。日本の古典文学、源氏物語では、嘆きのため息が霧となっているし、古事記では命の息吹とされていたようです。西洋とはかなりの隔絶があり、西欧化された現代日本では、こうしたため息、息吹という比喩、象徴はないかもしれない。明瞭性、明解性を求める西欧は、それをさえぎるものとしての霧を認識するようだ(霧を「神のベール」とする詳細は不明)。西欧化された現代日本ではすでに負のイメージなのだろうか。
 アミニズム的に自然の息吹、息づかいと捉えるのが、面白いかも、と思う。

 自分の霧光景の傾向

 ・ローキーとハイキーの仕上げがある。
 ・ハイキーの場合 日の出の前後付近は光量が少なく、色彩も低いため、全体的に明るく仕上げて幻想的な仕上げにしている。
 ・ローキーの場合は、日の出後で光量が多く、雲がれば雲間からの光によってコントラスのある仕上げとなり、霧の明るさが印象的になるよう仕上げる。
 ・特に日の出前の天塩岳と山、丘のグラデーション的な光景がいい感じである。
 ・霧が地を這うようにして光景で丘の窪みに溜まる光景や林に立ち込んで光芒をつくるのもいい。
 ・今年多いのが霧がかなり高い位置まで達し、林や丘の稜線を見えなくすることがあり、丘と林などの微妙な見え隠れがすくなくなった。このことから、霧の流れによる動きにも注意をはって撮影すすようになった。
 ・霧光景とは言え、構図的には丘、林などの配置に気をつけて、複数箇所の候補を頭に入れて撮影する。 
 ・霧光景でハイキーの写真を見た人は、絵のよう、パステル画みたいで、写真ですかと感想をもたれたことから。写真の一般的な特徴で言う明瞭さとは逆の光景を見せるのが霧光景と言えるかも知れません。

  長くなりますので、これ以降は次回に……

視覚と脳

 このブログは全くの自分向けですが、「脳での視覚情報の処理」というのがコンスタントによく読まれているようです。メインはやはり視覚情報を扱う脳の部分と他の認知・判断、知識の領域と繋がっていて、視覚からの総合的でかつ選択可能な認知を促していることです。
 はたまた、視覚による情報というか、認知、認識の仕方は、個人の興味関心、経験等によってどこに中心があるのか、周辺部の認識なのかということも違っているように思います。

 さて、今回も少し知り得たことを紹介です。

 視覚は「光を網膜で受容して、それを電気信号に変えて脳に伝えられる」ということです。フィルムへの化学変化ではなく、まさにデジタルのイメージセンサーと同じような原理ということです。ただ、人間の場合は、受光する網膜の受講部分が1億3000万個位あるそうですが、それを脳に運ぶ視神経は1200万程の束だというのです。約10分の1ほどになったものが脳に送られることになります。なぜそうなっているのかは約10年ほど前に日本の学者が解明したということです。

 基本的な経路は、「網膜」からの情報は「視床」を経由して、「視覚野」に送られ、ここで初めて「見ていると」して意識されるそうです。この視床には、目から脳へのつなぎ目にあたる中継シナプスというのがあって、これが多くの視覚情報を制御しているということです。その働きは、網膜からの多くの情報が次々に送られてきても、その1部が強調され、その他は取り除かれて、視覚情報をくっきりさせるという仕組みのようなフィルターがあるということがわかったのだそうです。

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 次は認識の点で、錯視を紹介します。

 網膜は物理的に数値で表される色や明暗を受容しているようですが、脳はそのようには判断、認識しないということです。まずは、下の絵です。左右にある月か太陽の明度はどうでしょうか。さらにそれと接している山の明度はどうでしょうか。

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 実は同じ明度なのですが、違って見えます。
 次の中心部にある四角の彩度はどうでしょうか。これも同じなのですが、違って見えます。
  
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 次は、ないものが見えるというものです。中央部に三角形が見えますか。

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 錯覚というのは、物事を物理的にありのままに見ていないという脳の認識が為せる仕組みがあるということです。研究者はそれは人間の脳が劣っているのではなく、優れた仕組みを持っているので、そうしたズレができると考え、研究しているということです。しかし、錯視については解明中とのことです。

 上述最後の錯視は、実は見えない物を補う働きを脳が行っているということです。自分流の例えですが、捜し物をしていて、その捜し物の全体像が見えていなくても、その片鱗から見つけることができるということにも通じると思います。さらに、物を判断したり意味づけるということもしているそうです。

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 aは丸い物が宙に浮いているようで、何かはわかりませんが、bとなると、その丸い物が皿のように見えます。これは過去の記憶から類推して物の形とその置かれている状況から皿という結果を脳が導き出していると言えます。先の錯視でも、今述べたことについても、こうしたことが出来る処理方法(アルゴリズムというそうです)を探っていて、人工知能の研究に役立てようとしているのです。最近のカメラも顔、目を認識してピントを合わせるというのも可能になったのがこの研究の1つの成果です。顔認証もおおよその年齢や性別を類推することもできると聞きます。つまり、そうしたことができる処理方法が解明されてきているということです。
 視覚情報はただ単に見るということではなく、脳は見た物を複雑な処理を通して意味づけ、何かを判断したりしているのです。

 カメラは、レンズ・イメージセンサーから得る光の情報から内部のCPUで処理して液晶に画像をもたらします。その処理はメーカー毎に違うアルゴリズムだそうです。そして、それに意味を与えるのは人です。しかも、何を写すのかというカメラを操作し被写体を決めるのは人ですので、そこに見える景色や画像は物理的には同じかもしれませんが、個人にとっては他愛もないもの、ある人にとっては重要なことであるというような違いがあると思うのです。

 従って、写されたものには、その人なりの意味があると思います。なぜ、それを撮るのか。そこに惹かれた意味は何なのか。どのような経験(過去、カメラ技術)から切り取られた物なのか。と、いろいろな想像をふくらますことができるものです。しかし、多くの写真画像が氾濫している現在、じっくりとそうしたことを考えることは皆無です。むしろ、「インスタ映え」と呼ばれるような「綺麗さ」「見栄えのよさ」という直感的なものが流行しています。それも写真のよさではありますが、写真に意味を見いだし、意味をこめた写真表現ができるかという立ち位置からは、見た目からは少し離れた距離を置くというのが、写真を考える上で重要なことと思っています。

 見た目に綺麗は基本かもしれません。しかし、その綺麗さは自分にとってどんな意味をもつのか。どう切り取ればいいのか。何をどの位置において撮ればいいのか、明度や色相、色彩などをどうすればいいのか。 更に、画像と言う見えるものから、何を感じ、何が想起されたりするのかと言う見えないことにも思考の領域が広げられるような自分にもなってみたいと思うのです。

諸相、非相  その3

<諸相・非相を 皮相的に捉える>

 写真の表現として、ある考えや思想などのテーマやコンセプトを「諸相・非相」の考えから表現するのは、やはり多くの作品数が必要だと思います。

 しかし、どのようなものになるかは、1枚1枚の写真に見える部分と見えない部分(見えにくい部分)を入れること考えられます。つまり、極端なコントラストを生み出すような時間帯での撮影による作品です。

 過去の写真では以下のようなものでしょうか。

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 1つの表現方法としてはあり得ますが、「諸相・非相」の捉え方は、やはり皮相(うわべだけ)的です。光の関係で見える部分と見えないような部分があるだけのものですからね。光がより感じられる、コントラストのある写真というコンセプトの1つは見えますが、その先は見えません。

 しかしながら、撮り始めから数年のものと比べて、「光を描く=フォトグラフ=写真」の特長の1つが実現されているように思っています。より光を意識して自然事象を撮影してくるようになったからです。

 こうした撮影の変化の中で、霧を撮り続けていますが、下の写真もある程度コントラストがあるもので、水墨画を思わせるものがあると思います。モノクロ写真では霧の微妙な模様も描くことができます。

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 カラー版では、このようなボアっとしたものも好みです。これも絵画的、パステル画的と指摘されることがありますが、私的には水墨画的なものを見出すからです。ここで「非相」的なものは霧ですが、微かに見える部分から何が隠されているかは想像ができそうです。ここで何度か水墨画に触れましたが、これも霧に水墨画の要素を見るので撮る要因の1つかも知れません。

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 以上の写真から、暗い非相が白い非相に変わっていることがお分かりでしょうか。コントラストのある光の状態以外でも、白に近い霧をモチーフにすることによって「非相」部分を表すことができないものかと試行錯誤しているようです。本当はこのような「諸相・非相」ではないと思いますが、何か霧光景が語りかけてくるようなもの、そのためには私がその言葉を聴かなければならないのかと思います。
そして、それを聴くには、聴くことができるような自分へとステージアップしなくてはなりません。
 何か屁理屈でとも感じますが、写真撮影や写真での経験を見直しながら自分なりの意味づけ、意義づけをしてみたいと思います。そうして、心境的にはその時点、その時点での、「人事を尽くして天命に聴(まか)す」です。このことわざは、一般的には「〜待つ」ですが、本来は「聴(まか)す」だそうで、上記で書いたことを考えると「聴(まか)す」が適切かと思います。

 多くの私のようなアマチュアが美瑛の四季を撮ってはいますが、少し違うその先の光景も撮りたいのです。

秋と冬の狭間で 2 読み解き

 「秋と冬の狭間で」ということで、青い池の写真を掲載しました。夏も撮らなく、ライトアップも撮らなくなりましたが、まだ紅葉が残っていて、湖面に雪が降り積る前までが自分にとって最適な状態と思っています。

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 できれば紅葉が残っている降雪時、湖面に白い雪綿と青さがあるのが最高級ではと思うのです。青い池の諸相の中でも、そうしたものに出会えればいいでしょうか。

 諸相については述べましたが、「相」というのは、木に目を近づけて「よく見る」というのが語源で、さらによく調べるというようなことも付け加わったのだと考えます。従って、視覚はもちろんのこと、触れたり、味わったり、嗅いだり、耳を近づけたりと五感を使う訳です。また、情報を調べるというのもありでしょう。そうすれば、五感だけではない知識という相も加わってきます。経験で言えば、この青い池とは10年近い付き合いで、周囲の状況とともにその変化を見てきました。つまり、相というのは、五感に知識、経験などが総合されたものだと考えます。


 <不死と再生の象徴 一つの解釈 写真の読み解き>

 青い池については、数年前に大風が来て堰が決壊して、倒木という事態も起こりました。これから立ち枯れの本数が少なくなっていくことが予想され、記録のためにも撮る必要があるかなぁ、程度の認識でいました。しかし、諸相・非相などを軸としてあらためて青い池を考えてみました。

・青い池の主題 立ち枯れと青い湖水は、死(あるいは屍骸)と死、青は、立ち枯れへの餞(はなむけ)の色でもあること。死してなお木肌を見せ、立っているのです。なんと気丈な姿でしょうか。死してなお生きているかのような凛々しさを感じます。そして、それを称えるのが「青」という色彩です。赤でもなく、黄色でも緑でもない青です。青は希望や冷静、神秘などの象徴として用いられることが多いとのことですが、「希望」としての餞(はなむけ)でもあるようで、死してもなお生きるという神秘さを与えているのではないでしょうか。

・こうしたことに、ある種の「美」「美学」を見いだせないでしょうか。また、古代エジプトから流れる「不死」への願望です。あるいは、死して残す美しさから「再生」への願望もあるかも知れません。これがこの池を見て、「美しい!」「綺麗!」と言わしめる根源的なものかも知れません。私は使い古した綺麗よりも、「清麗」がいいと選びました。不死が清麗とは似合いませんが、けなげさやはかなさが含まれているのかも知れません。

・ケント白石氏の世界に名だたる青い池は、上の写真とは違って、背景の木々はありません。従って、シンプルですし、私のこのような解釈がひょっとして西欧に受け止められたからとも考えています。不死と再生(復活)はキリスト教にも近いものであるからです。死した物が再生するかのように、染みいる青さの中、白い(永遠の象徴)降雪が美しく舞うというのが語られている写真となるのです。

 さて、私のは紅葉の木々が背景にあります。余分と言えば余分です。まあ、季節の狭間を表すならば紅葉は不可欠という理屈にもなりますが、深く(こじつければ?)、下記のようなことも考えさるのです。

<紅葉の木と立ち枯れ、降雪、湖水> 

 それは端的に生と死が対峙している光景です。紅葉もまた生の諸相の1つ、季節の流れによる生の変化です。降雪もまた季節・時の変化、気体・液体・個体の変化です。
 湖水も雪も水であり、水は木の体内をめぐり、命を支える1つの要素ですし、立ち枯れを見るとき、死んではいてもその水を含むことによって、倒木から存えているかも知れないのです。

 こうした変化をどう受け止めるのでしょうか。仏教では無常という言葉で言い表されます。一般的には「はかなさ」「むなしさ」を連想させる言葉ですが、「わび・さび」としてそこに美を感じたのが日本人でしょうか。それに悲観的にならずに、そこに美を感じそれを受容することで、諦観よりも現実的な生を見出すということなのかも知れません。同じように見えても、常に変化していくのがこの世界であること。そこに変わることを拒んだりすることなく、避けることなく受け入れ、時の流れに任せること。迷いも変化の1つであり成長という再生の機会かも知れません。悩むときは悩み、もがく時はもがく。嬉しい時は笑い、悲しい時は泣く。これが偽りなき人の心だということです。
 この先となると、まさしく宗教の領域となりますのでこれまでですが、たとえ諦めとしても、善くは生きたい、何かへの努力はできるのも人間だと思います(性善説的)。それを少しでも行いながら、「ケセラセラ」「Let it be」という楽観的な気持ちで過ごし、生をまっとうするのが最善だと思うのです。


 <結論> 

 自然の理にそって変化し、生と死が活きているというのが「降雪の青い池」と解釈します。さらにそれらを結びつける水の存在を考えると、自分もまた自然の理の中で生き死んでゆく身であるというような一体感を持つ時に、そうした自然と同化し、「美しく清麗な光景」と感じ、自分もそれに抱擁されるような心境に至るのではないでしょうか。
 そこに宗教とは厳格に言えないものを感じるとすれば、自然に魅入るアニミズム的な心境でしょう。
小鳥のさえずりや風の音を雑音として認識する西洋の人々というのをある本で読みましたが、私たちの文化では俳句、短歌、文学で叙情的なものとして認識されるとのことです。大いなる自然もまた一体感のあるもの、包み込んでくれるものとしてあるようです。これは、この国土に1万7000年前から文化を作りあげてきた古の縄文人達のDNAが残っているかもしれません(これも知識です)。こうしてみると、自然は癒しだけではないものを与えてくれているのだと、また深掘りしたくなります。

 秋と冬の狭間の中で、このようなことを考えたのが、この光景でした。そして、一体感とすれば、より明るく雪も強調されるだろうということにもならないだろうか。と、違うショットを現像してみました。

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諸相、非相  その2 ブラックの言葉

 ブラックの言葉に「壺は空虚に、そして音楽は沈黙に形を与える」というのがあるそうですが、三重県立美術館の学芸員:東俊郎氏が、そこに曹洞宗の道元の前回のような解釈(「諸相と非相を見るは如来を見るなり」)を読み取ることができると言っています。

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 これには「如来を見る」とありますが、これは仏教で言うところの「空」と同じです。そして、ブラックは壺に空虚を見ているに等しく、絵画を見るとは有と無を等しく見るという二重の視線こそ、優れてブラック的だと東氏は言っています。

 諸相を追い求めた中で、下記の概要にあるセザンヌの影響を受けながらも、絵画史の中でも特徴的なフォーヴィスムやキュビスムへと彼なりの必然的な変遷を遂げています。そうした中でも、東氏がいうような東洋的、仏教的な境地へ接近するような思考を得るというのは実に不思議な出会いではないでしょうか。

 ※  ブラックの他の言葉 「私は感動自体を作品にはしない。感動というのは、まだ芽の状態である。それを開花させるのが作品である。」「描いたものを見せるだけでは足りない、更に琴線に触れさせねばならない。」など。1993年に「昼と夜 ジョルジュ・ブラックの手帖」(訳本)が出されていますが、すでにプレミアがついていて手に入りませんが、読みたいものです。

 ジョルジュ・ブラックの概要は以下から 
           https://www.artpedia.asia/georges-braque/ 


諸相、非相  その1

<諸相と非相>

 「諸相」というのは、物事のいろいろな姿ということで目に見えるものですが、あまり一般的ではない「非相」という言葉もあります。こちらの方は、定まった姿や形がなく、ときには目に見えないものを指すようです。
 写真を好むものにとって、重要なのが「諸相」でしょう。物や事象にある美的要素をフレーミングして撮影しています。鑑賞する側も、美的要素を読み取って見ていることでしょう。じっくり鑑賞するかどうかは別にしますが、色彩感のあるもの、日常は目にしない現象などが多く、単写真なので、深読みしてテーマを読み取るようなことは難しいようで、いわゆるフォトジェニックなものが好まれているようです。

 しかし、どうでしょうか。中西敏貴氏の「Kamuy」の作品や同名の写真集での文言を読むと、写真ですので諸相なしでは写真とはならないのですが、一般的な美的感覚とは離れたものがあり、表現の意図は「非相」にあるように感じます。同じように建築家でもある杉本博司氏(同じようにと書きましたが、こちらは世界的に高名)の「海景」シリーズというのも、海と空を中央でフレーミングした写真ですが、一般的な美的要素はなく、「水と空気」「生命の根源」「水と空気の地球」などをテーマとしている作品群であることがわかります。これも非相的なものを強く打ち出しているものとなります。

 このように美的要素が一般的ではないような「諸相」に「非相」を取り込んでいく、あるいは、「非相」を表現するために選ばれた「諸相」を通して表現していくという手法が取られているようです。手法と書きましたが、失礼かもしれません。現実の諸相から、独自の非相を感じ取ってそれを表現したかも知れません。

 そこにある感受性、センス、感性などと呼ばれるものは、単なる視覚ではありません。過去に述べたように視覚を司る脳細胞の周辺には様々な領域があり、独自の視点を見出させたのかもしれません。
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 上記の図を提示した際は、単なる「きれい」という感情、判断・理解の領域での有意注意を引き起こすものとだけ見ていましたが、側頭葉にある「知識・記憶」などにも関係して、見える事象に意味を与えることがあり、独自の視点を見つけ出し、生み出したりするということも可能なのかもしれません。

 極端かもしれませんが、視覚というのは、個人の知識・経験、興味関心などによって、外の世界を定義したり意味づけるものであるということもできます。

 写真をやっている以上は、このような試みをしてみたいものです。「写真が上手くなる」というのは「表現性」においても、事象を見取る「感受性」においても、一般的な、常識的な見方や思いからは優れて離れていることで、こうした「非相」的なものを生み出しているのではないかと思います。

 さて、諸相、非相ということで述べましたが、この言葉は仏教からくる言葉・概念です。金剛般若波羅蜜経(略して金剛経)で説かれたものの1つですが、この金剛経とは、人間には目に見えるものにとらわれすぎると、ものの真の姿を見誤ってしまうということを戒めるお経とのことです。簡易には「諸相は相に非らずと見るは、如来を見るなり」との教えがあるのですが、曹洞宗道元では「諸相と非相を見るは、如来を見るなり」と解釈したようです。仏教的な解釈の違いはわかりませんが、道元は目に見えるものも認め、見えないものも見ることが重要というようなことを言っているようです。ここでは最終的には「如来を見るなり」と言っていますが、真理に到達する者とか、解脱する、悟りの境地に達するなどのことを指します。
 
 写真をやる以上は、「諸相」を写すことは避けられないことです。しかも、カメラという機械を使いますので、見た目・肉眼とも違うこともあります。そこに、印象や心象である非相、はたまた、自然への畏敬(神のような存在、アミニズムなど)、思考や思想的なもの(前述した「水・生命の根源」のようなテーマ)という非相を加えることによって、多くの表現が生まれているのだと考えてはどうかと思うのです。

 写真愛好家にとっては、「諸相・非相を見るは、新たな写真を創る」とでも言い換えたらいいかも知れません。

 ※ もう一つは、諸相や曹洞宗などを調べていたら、あのピカソとともにキュビズム芸術を先駆けたジョルジュ・ブラックについての情報を得ました。これは次回です。

視覚以前

 <同じような視覚だが>

 見える物を撮影するのが写真であり、デジタル処理されたデータによってPCやディスプレイで再現できます。はたまた、プリントして物として残すことができます。その出力されたものが見える物であるかもしれませんが、情感を醸し出したり、心象的なものを「表現」することができます。

 何を写すのか、どう写すのか、どのようなカメラ設定なのか、どのような現像処理なのかは、やや技術的でもありますが、見た物をどう表現するかということにもかかわってきますし、プロの写真家(写真作家)であれば、己だけの被写体や表現を求めているようです。そこには、被写体への独特の見方や選び方等があるようです。

 そして、プロといえども視覚は人よりも異なることはありません。被写体への独特の見方や選び方は、テーマやコンセプトといった哲学的な裏付けをもとに、被写体を見て、選んでいて表現するからこそ、他とは違った写真を生み出しています。

 <視覚以前の考え方>

 このようなテーマやコンセプトをもつことによって、今までの自然や世界に異なった見方(自然観、世界観)を与えたり、新たな意味をもたせることによって、写真を作品として生み出しているということになります。
 自然を見て写真を撮っているようですが、これは視覚以前の問題ではないかと思います。


 今までの自然観や世界観とは異なる! とまでは行かなくても、自分が求める世界を見つけたいものと常日頃思うのです。「霧」への拘りがどうして自分に生まれたのかというのもその突破口となるかもしれないとも思うのです。


  視覚は光を受容することで活性化される感覚ですが、脳の処理で様々な意識・認識を呼び起こします。視覚された肉体外の物・事象の理解の仕方・認識も一定ではなく、知識や経験で変わってきます。もちろん、子供と大人で違いますし、人によっても違います。

 しかし、この過程を逆にしてみれば、自ずと自然を見る見方も変わり、写真も変わってくるのではないかと思います。ここまでは、今まで考えてきたところです。

 <新たな見方、構えは、自己の中から>
 
 被写体である自然の「何を」「いつ」「どのように」切り取り、表現するのか。これが普通の構えです。しかし、そこにはいつも被写体と己が対峙しているだけです。もう少し深めたいところがこれです。あくまでも「写真を撮る」という主体は己です。しかし、そこにある被写体が自己の存在とは別にあり、写してやる(ショット=撃つ、撮る、)というようなことよりも、被写体は己なくしてはありえない存在であり、己なくしては意味を持ち得ないという存在の被写体であるならば、どうでしょうか。

 これを考え詰めていくと、自分が存在しているからこそ、自然があり世界がある。あるいは、自己という経験体が見る自然や世界は、突き詰めれば、自分だけがもっている理解の仕方や感じ方でしか自然や世界は現れないということです。確かに他人との共通項はありながらも、その共通項で写真を語るならば、観光パンフレットや誰かのマネになってしまう恐れがあります。インスタ映えならぬ「綺麗!」「鮮やか!」で終わることになります。絵画などの美術では、印象派の登場によって、古典的な美というものから脱却して、訳のわからなような抽象画へと変わってきました。以前に記した「鏡と窓」のようなものへと移ってきたということです。

 自らの心象や印象、はたまた世界観を反映した物が作品と言うことになります。これは重要な点だと思います。「自分だけが持っている理解の仕方や感じ方」とは書きましたが、それを反映させるのが作品と言うことになります。

 そうすると、この「自分」を知らなければなりません。そこにある物(自然、世界)への自分なりの理解や感じ方とは何かを知らなくてはなりません。とは言っても、理性的に理解の糸口がつかめるのかといえば難しい。とっかかりは、やはり、自分の趣向、好き嫌い、気持ちいいとか、安らぐでもいいでしょうし、ある種の緊張がある、興奮があるなど、惹かれるものでしょうか。

 そして、それらに「なぜ?」をつけて解明していく作業が必要なのではないかと思います。そして、
 
 ・惹かれる物について、辞書でも事典でも手にして調べる。
 ・自分の生い立ち、思い出にきっかけがあるかも知れないと、昔を思い出す。
 ・過去に読んだ書物や見たことのある映像の中にきっかけがあるかもしれないと思い出す。
 ・風景でも自然に近い風景という場合、はやり、西欧や日本での自然観に違いがあるかもしれないと
  調べる。
 ・さらに、宗教観にも触れる。(以前、アニミズムを紹介しました)
 ・そして、過去の写真の中で、自分の好きなものがどう残されているのかを調べるとともに、現代の流れ、傾向を調べる。

 こうしたことで、必ずしも見つけられるかは不明です。なぜなら、それは、惹かれる発端や理由を見つけられるかもしれませんが、そこに他にはない独自なものがあるかは、自分が創り出さなくてはならないからです。

 「守破離」 やはり師をもつことがいいのだが…。

 「守破離」という言葉があります。これは師をもちこれをとことん学ぶ=守。つぎに、これを破る、破壊するとなります。とことん師の通り行っていっても、必ず自分というものがあり、どうしてもここは少し違う、かなり違うという点がでてくるのではないでしょうか。そうして少しずつ崩れてきて「破」となります。しかし、これで本当に自分なりの創造を得るかといえば、師との対比での自分であることから、創造のきっかけをみつけただけに過ぎないと思います。だからこそ、最終の「離」があり、師の教えとそれへの改善をこえた、自分の独自の世界を創り出すことができるのだと思います。

 あの東川でのワークショップの中でも、中西氏になりたいという若者がいたようですが、中西氏はとことん真似ることで自分なりの世界が見つかるというようなことをおっしゃっていました。これも、「守破離」の「守破」までの道程を述べたものと思われます。誰の師ももたずに、そうした世界を創り出すのはごく一部の人間でしょう。少なくとも、師をもつこと、師に近い模範・目標をもつことが必要だと思います。真似ることで技術も得ることができます。もし会話の機会があれば、さまざまことを聞くことができます。それこそ、プロが生活をかける中で得た貴重なことを得ることもできます。素人が数年して得たことが数時間で得ることさえできると思います。
 しかし、テーマやコンセプトは自分でしか考えることはできません。たとえ、師を得ても多くのヒントをえるかもしれませんが、所詮は自分で見つけるしかないのだと思います。

Silence solitude

 黄金色の霧光景もいいものだが、大地を低く漂う霧にはそれなりの言葉にならない物語が隠されているのではないかと思う。不動の大地とはいえ、木々や丘の畑は季節によって変わっていくが、そこを漂う霧が絡み合う光景に惹かれるのです。

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 惹かれる理由はと聞かれると、明確には言えないものですが、目に見えて変化して、大地の様相を変えてくれるものであること。発生の量や漂い方は気ままです。観点を変えてみると、このコロナ禍に合わせて感じたのは、いつか晴れるという希望的な象徴であるかもしれない。また、物質的な世界や人の存在に密かに流れる趣向や思想。はたまた、思惑、陰謀という得体の知れないものが霧に象徴されているかもしれないと思うこともある。まあ、そもそもは考え過ぎで、陰謀というと余計な邪念かもしれないが、なぜ惹かれるのかを理由づけるものがあれば、霧の実態と自己存在が重なり合う部分が理解できるかもしれないと思うのでです。そこに、テーマ、ないしはコンセプトがより明確になってくるのだろうと思うのです。

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 光景の状況説明的なものを捉えるとこちらの方だろうか。朝焼けの山と空を入れたのだが、霧の描写を主題とするならば余計なものが入っているという感じがしているが、フレーミングが悩ましいところです。

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 このような珍しいことでも起これば前景の様子によってはいいのかもしれないが、ここ5、6年出会っていません。
 霧光景を撮影しながらも、このような沈黙の独白をしているのです。
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