古代人シリーズも長くなってきました。そろそろとは思うのですが、まだ、大きな疑問があります。

 これまで、源日本人として縄文人を中心に取り上げてきましたが、この日本列島に移り住み、人口が増えていったような前提で書いてきました。しかし、アフリカから出たホモサピエンスが移動したり、移動先の中東やヨーロッパ、東アジアに移り、そこから日本列島に住んだきたということにとしても、それらが一度しかないというのは不自然です。むしろ、断続的に、定住と移動を繰り返して、日本列島に何度も来たたのではないかと思うのです。

<日本独自の縄文文化だが、人は西から?>

 沖縄で見つかった人骨は2万7千年前、長野県での石刃(せきじん)は3万6千年前と言われています。さらに、大型石刃・小型石刃・大型尖頭器の三種があり、それを中東からだどると、中東(4万8千年前)→中央アジア(4万5千年前)→中国北部(4万4千年前)→朝鮮半島(4万2千年前)などと時代を下りながらつながってゆき、日本に伝わったことが考えられています。石器が伝わるということは、生活様式も伝わるということです。製造方法はもちろん、生活の仕方や考えも伝わるということになります。生活の変化では、か弱い人間が弓矢や石斧、投げ槍という武器を持ち、小動物や大型動物を確保し高エネルギーの食料をえることになります。もちろん火の使用(世界的には70~50万年前から)も
あって、焼き肉をしたのではないでしょうか。氷河期では大型動物、例えばマンモスは、個人で倒すというよりも、集団で狩猟したでしょうから、協働的な狩猟だったと思われます。日本の縄文以前もこのように狩猟、そして漁労、採集で暮らしていたことでしょう。しかし、世界史における縄文時代の最大の特質としては、世界最古の土器が日本で発見されていることです。食料の保存はもちろん、煮炊きという調理革命を達していたのです。

 「(縄文)調理革命」という言い方は私の造語ですが、煮炊きをすることで、草などの植物を食べられるようになったり、硬いものをやわらかくすることもでき、食料となるものの幅を格段に広げたのではないかと思うのです。硬い木の実や、ヒエ、アワ、後のコメという穀物でも、この土器による煮炊きによって食用とすることができるのです。

 日本の縄文時代も中頃以降になると、世界各地で、狩猟採集生活から畑作へと移り、文字や建築面でも高度な文明が発生してきます。問題は、そこでの文明の栄枯盛衰による人々の移動はなかったのかということです。 
 
 ・最古の文明といえば「シュメール文明」です。ペルシャ湾に注ぐ川この文明は教科書にもでてくる、メソポタミア文明の1つですが、発生は紀元前5500年からで、灌漑農業や土器、くさび形文字などをつくりだしました。紀元前2000年頃には衰退します。アフリカからの移動では、もっともアフリカに近い中東の地域での文明といえます。

 ・次は、同じペルシャ湾の北東にあったエラム文明です。発生は紀元前3200年。

 ・次は、インドの北西部でのインダス文明。発生は紀元前5500年。土器をともなう新石器時代から始まります。砂漠化や森林破壊で滅びます。

 ・中国文明。現在は黄河文明、長江文明、遼河文明など複数あります。紀元前7000年頃から竪穴住居、栗の畑作、土器や磨製石器が使われ、その後ろくろによる薄手の土器が出てきます。紀元前2000年ごろから青銅鋳造の技術があったとされます。しかし、長江文明はそれよりも古く紀元前14000年~紀元前1000年。初期から稲作が行われ、畑作中心の黄河文明とは異なり、黄河文明の南下で滅びたとされています。ここでの稲と日本の稲が同種であることが確認されていて、弥生時代との関連が深いとされます。

 こうしてみると、稲作との関係では 長江文明の影響 がまず考えられます。

 日本の稲作に関しては従来、紀元前5~4世紀頃に始まったとされていましたが、2003年になって、国立歴史民俗博物館が遺跡からの出土品や土器に付着した炭化物などの年代を炭素14年代測定法によって推定した結果、従来の定説より約500年ほど早い紀元前1000年頃、前11世紀に開始されたとする研究結果を発表しています。さらに、日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっていて、また同県の南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器が見つかっているとのことです。こうしたことを考えると、長江文明の稲作が、早くから伝わったり、なによりも長江文明での稲作の人々が黄河文明に侵略された頃に、日本列島にきたということになるかもしれません。そうしたことは稲作だけではなく、信仰や生活意識にながしらの変化をもたらしたことが考えられます。

 長江文明は中国大陸で起こった文明ですので、当然に中国人かもしれません。染色体DNAでも、O系統が渡来人としてきたのではなかいとされています。

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 上の資料は、東大のヒトゲノム多様性研究室のものですが、現代でのO系の渡来人とC系の縄文人の
分布を都道府県毎にみたものです。オレンジ色の濃いほうが比率が高いということでは、近畿を中心にオレンジ色が広がっているようです。意外にも四国、新潟に多いですし、朝鮮半島に近い九州北部が青味がかっています。これから考えると、朝鮮半島という経路もあるようですが、中国大陸の長江の川を下って海へ、それから台湾海流、対馬海流から直接に日本へという海路から、中国地方や新潟半島に来たかもしれません。また、九州北部へ渡来しても、より東へと向かっていったのかもしれません。

海流
 「長江文明」での信仰なども調べると関連も分かってくるかと思うのですが、1970年代に発見されて、その後も付近に関連した遺跡が発掘されていて、まだ研究の日が浅いとのことです。次回も、長江文明に触れます。


 このシリーズでは主に縄文時代を意識して扱っているのですが、稲作が普及する弥生時代となると、いわゆる貧富の差ができてきて、支配層などがでてくることになります。さらに、支配層による信仰の統一化や神々の整理統合、序列化のようなことも起きてくると思われます。

 歴史上では、弥生時代の次には、大和朝廷というような階級社会である古墳時代へとなっていきますし、そこでは「神道」的なものが醸成されたり、後には仏教といったものが日本へと伝わってくると言うことになります。おそらくは、縄文以来続く日本各地での土着の信仰が、豪族の頂点である天皇一族の太陽信仰である神道に吸収されたり、共存していくのではないかと思うのです。
 神道は死を「穢れ」としていますし、死後の世界をあまり語ってはいないようです。そちらは、むしろ仏教の分野のような扱いをうけているかのような記紀の内容であるらしいからです。