三内丸山遺跡から考えられるのは以下のことでです。

 ・最盛期には500人ぐらいの縄文人が住んでたいたとされます。
 ・居住区の外には、管理された人工林があって、その外に自然林がある。
 ・保存食にもなるクリを栽培、管理していた。漆器作りに必要な漆林の区画を設けていた。
 ・いわゆる山里のような管理された林で野草を採り小動物などを狩っていた。
 ・魚介類や原生林で大型動物や薪炭を得る専門的、分業的な小集落との交流があった。時には、大集落の縄文人が手伝いに行っていたことも考えられる。
 ・食べ物では、クリの出土が多く、イモ類や山菜、マメ類やヒョウタンなども栽培されていた。動物ではムササビや野ウサギなどの小動物が多い。魚類では、マダイ、ブリ、サバ、ヒラメ、ニシン、サメ類が多く、フグも食べられていた。調理方法としては「焼く」よりも「煮る」が多いとされている。また、エゾニワトコを主に、サルナシ、クワ、キイチゴなどを発酵させた果実酒を飲んでいた。
 ・鏃では北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形件月山、新潟県佐渡、長野県霧ヶ峰など、日本海を中心とした産地から黒曜石が運ばれてきた。装飾品となる非常に硬いヒスイは、新潟県糸魚川周辺から運ばれてきています。これらをみると6,700kmもの交易圏があったと思われます。この点では、津軽海峡を横断したり、黒潮や親潮、対馬海流の潮の流れなどを知り、航海技術をもった「海洋の民」との交流があったと思われます。

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 上図は居住域の大集落の一部の復元図ですが、このような場所に最盛期に500人が住んでいたというのが通説です。これに疑問を持つ説もあり、多くて100人程度が、食料確保や排泄や廃棄物等での限界との意見もあります。

 500人説で考えてみると、1家族が多くて5人とすると、夫婦2人が働き手となるでしょうから、100人以上もの働き手が、狩猟採集、栽培、燃料集め、土器造りなどに携わっていたことでしょう。それぞれの仕事毎に詳しい人が中心となり分業していたことでしょう。子供や幼子をみるために留守番的な女性もいたかもしれません。さらに、時期的に忙しくなる秋のクリの収穫、山菜とりもあり、あらかじめあの大型住居に集まっていろいろな相談をしたかもしれません。この大型住居や櫓の建造を考えると、日々の建造に必要な大人の人数や食料確保の大人の人数からは100人程度の働き手がいないと、不可能かとも考えるのですが、いかがなものでしょうか。