今回は、山内丸山遺跡の生活域ということから、自然との関わりを少し考えてみたいと思います。   

 縄文時代では定住が始まったのですが、定住といういうことは、自然の中に人間の居住地域というものができあがることです。それまでは、自然の洞窟や穴、大木の下で火をともし、風や寒さをしのいでいたという自然の中での生活でした。しかし、定住と言うことでは、大自然の中に人工的な空間ができるということです。さらによく考えると、食料や飲料水など生活に必要なものを得やすい場所を考えて居住地域を選ぶという能力があったということです。そしてまた、居住地域内とその周辺での都市計画ならぬ「ムラ設計やムラ計画」もあったということです。例の埋葬場所がそうです。

<山内丸山遺跡の集落>

 山内丸山遺跡の居住地域とその周辺地域の研究による「集落生態系」というものが明らかになってきています。これをみると、居住域から生活域、さらに離れた区域での原生林(自然)というムラの様子から、自然との関わり方をみることができます。まずは、山内丸山遺跡のあった最盛期の様子です。これは遺跡発掘の考古学以外に、地質学や植物学、植物の分子遺伝子学などとも協力して作成したそうです。赤い部分が居住域となります。


san-naimaruyama

   縄文時代は間氷期で温暖化してきますので、海進と言ってどんどんと海が近くなってきて内水域や湿地も北側にあります。赤い居住域一体は標高20mで、まだ海進による影響がなかった頃でしょう。
 居住域の周囲のピンク色の区域はクリの林で、野生種のとは違い大粒で、遺伝子解析で同じ遺伝子のものが発見されています。これを見ると、食料として適切なものを選んで作られた人工林であるという結論です。美味しいクリが植えられ、食料や暖房、煮炊き用燃料としても利用されていたとのことです。ちなみに高さ20m程の物見櫓の柱は直径1mのクリだったそうですので、近間かどうかは不明ですが、クリの木を保存可能な食料として大事にしていたとともに、古くなったクリの木を大切に使ったと思われます。

 ピンクのクリ林の西にはウルシ林もあり、漆器を作るために作られたと思われます。漆塗りの漆器や装飾品が発見されています。この漆については、福井県の鳥浜貝塚から赤色漆の櫛が発見されていて、同遺跡からは1万2000年前のものとされる漆の木片も発見されていることから、漆塗りは日本が発祥ではないかと言われています。9000年前とされる漆塗りの衣服も北海道から発見されているので、日本全国に漆塗りが伝わっていたと考えられています。

 さて、上の図に戻ります。緑色の区域は二次林と記されています。二次林というのは現代用語ですが、人工的に伐採されたり、火事等に遭ったあと再生させた林で、いわゆる里山と呼ばれれいるものです。縄文時代でも、薪や炭を得たり、小動物などを狩猟したりする管理された林であったとのことです。従って、ここも日常の生活域となるでしょう。それらの外側は落葉広葉樹の林で、自然林、原生林となり、狩りの場所にもなったことが考えられます。

 林以外を見ると、居住域側には川があります。真水は飲料や食事には欠かせないものです。淡水魚も獲れたことでしょうし、漁労で海に出る際の出入り口にもなります。自然にできた小さな池や湖、あるいは湿地では鳥や大型動物もいたでしょうし、住居の屋根や壁に使われた葦も多かったでしょう。ところどころに小集落がみられますが、専業の人たちが定住していたのか、季節的、時期的に大集落の人々が仮住まいしたのかは個人的には未調査ですが、機能的な集落から分業的集落、専業的集落が分かれていった可能性を示唆するものとなるのではと思います。