

・霧自体の浮遊性と漂流性
・短い時間に太陽光による色彩の変化が大きい。
・地上の元風景への流動的な変化。雲にも似ているが、地上の元風景に与える影響は強い。
・霧のフィルターが光景の明瞭さを減じて、幻想的な雰囲気を与える。
霧は連続していることが多いためか、幻想的な光景も見せてくれる。しかし、必ず消えていくものであることから、それ自体には無常観もある。しかし、光との関係では華をも感じることがある。何といっても大体景色がみえるまで見るので、一時的な出来事という印象もある。
(ちょうど昔懐かしい曲を聴いていたためか…)自分にとって大切なものをなくした思い出のようなフワッとした、時にはモザイクのような記憶のような思い出かのような印象もある。そして、現実に戻るように消えていく。もし、発生時にこんなことを思ってため息をつくと、なつかしさでもあり儚さや後悔になるのだろうか。これもやや負のイメージに近い。
ただ、量的に多くなると、風にもよるが静と動の漂流には、「神秘なもの」としてのイメージもある。また、とにかく明瞭ではないこと、ファジイさがいいと感じる。場合によっては幽玄さ(神秘的な深みのようなもの)をも霧は演出するのではと思う。この神秘、幽玄を感じる写真は、まだ撮影の域、チャンスもないように思う。
さらに、静かな動きは、心地よいゆらぎであるとともに、それに同調するかのような緩やかな心の流れに一体感をも感じる。行き場のないような霧だが静かに静かに落ち着く場所を探しているようでもある。はたまた、風の関係で舞い上がるようなダイナミックな面もある。
色彩は、紫から朱への時にはまぶしいような、しかし多くは実に落ち着いた変化を見せる。

なりそうな写真を見たことはあるが、未だに撮っていない。それは、横から見ていて俯瞰的な状況にはなっていないような気がするからです。鑑賞側に立っても、霧が画面いっぱいにあるが、やはり、何が写っていいるのか分かる物を探してしまうのが認識の傾向だからです。そのような傾向であれば、霧は脇役にしかなれないのでしょうか。次の2枚も霧はやはり脇役に見えます(前回にあげた写真は辛うじて霧が主役に思います)。霧を主役にできるか、名脇役として撮れるかは、今後の課題にでもしておくのがいいかもしれません。問題は、霧のある光景で何を目的にするか、テーマにするかでしょうか。

神秘さ、奇異な感じもある霧

穏やかさ、ファジイさのある幻想的な霧光景
目的・テーマで1つ思ったのは、10月も最後の霧の撮影時。「人生や世界観などと重ねる」というのはどうだろうか、と思ったこと。漂流性、不明瞭性、ファジイ…!? 内面や心の動きで言えば…、
不動で確固たる信念はあったのだろうか。揺れる心、定まらぬ心。例え信念を持ったとしても、長く持ったのであろうか。自分の人生を考えることも少なく、時流に流されてきた面はないのだろうかと、重たくなるので止めた方がいいかもしれない。しかし、少しは含めて。宗教観、自然観、世界観には、これまで触れてきたが、そうしたものを込めて、何を霧光景で表現できるかはまだ詰めなければならないだろう。
説明ばかり多ければ、写真にはならない。それよりも「写真や霧光景に何を語らせるのか」、それを写真で表現し、説明すべき内容よりも多くを語るもの(鑑賞者に委ねるもの)を求めなければならない。
そして、ヒントになるものは、「霧の言の葉」である。喜怒哀楽を表し、映像から何かを読み取ってほしいという、強い願いからの「撮影状況判断」「フレーミング」ができるかである。10月の最後の霧の日は、前に述べた主役か脇役かとして、少しは意識してみたことが、自分にとって一つの変化であった。