<諸相と非相>
「諸相」というのは、物事のいろいろな姿ということで目に見えるものですが、あまり一般的ではない「非相」という言葉もあります。こちらの方は、定まった姿や形がなく、ときには目に見えないものを指すようです。
写真を好むものにとって、重要なのが「諸相」でしょう。物や事象にある美的要素をフレーミングして撮影しています。鑑賞する側も、美的要素を読み取って見ていることでしょう。じっくり鑑賞するかどうかは別にしますが、色彩感のあるもの、日常は目にしない現象などが多く、単写真なので、深読みしてテーマを読み取るようなことは難しいようで、いわゆるフォトジェニックなものが好まれているようです。
しかし、どうでしょうか。中西敏貴氏の「Kamuy」の作品や同名の写真集での文言を読むと、写真ですので諸相なしでは写真とはならないのですが、一般的な美的感覚とは離れたものがあり、表現の意図は「非相」にあるように感じます。同じように建築家でもある杉本博司氏(同じようにと書きましたが、こちらは世界的に高名)の「海景」シリーズというのも、海と空を中央でフレーミングした写真ですが、一般的な美的要素はなく、「水と空気」「生命の根源」「水と空気の地球」などをテーマとしている作品群であることがわかります。これも非相的なものを強く打ち出しているものとなります。
このように美的要素が一般的ではないような「諸相」に「非相」を取り込んでいく、あるいは、「非相」を表現するために選ばれた「諸相」を通して表現していくという手法が取られているようです。手法と書きましたが、失礼かもしれません。現実の諸相から、独自の非相を感じ取ってそれを表現したかも知れません。
そこにある感受性、センス、感性などと呼ばれるものは、単なる視覚ではありません。過去に述べたように視覚を司る脳細胞の周辺には様々な領域があり、独自の視点を見出させたのかもしれません。

上記の図を提示した際は、単なる「きれい」という感情、判断・理解の領域での有意注意を引き起こすものとだけ見ていましたが、側頭葉にある「知識・記憶」などにも関係して、見える事象に意味を与えることがあり、独自の視点を見つけ出し、生み出したりするということも可能なのかもしれません。
極端かもしれませんが、視覚というのは、個人の知識・経験、興味関心などによって、外の世界を定義したり意味づけるものであるということもできます。
写真をやっている以上は、このような試みをしてみたいものです。「写真が上手くなる」というのは「表現性」においても、事象を見取る「感受性」においても、一般的な、常識的な見方や思いからは優れて離れていることで、こうした「非相」的なものを生み出しているのではないかと思います。
さて、諸相、非相ということで述べましたが、この言葉は仏教からくる言葉・概念です。金剛般若波羅蜜経(略して金剛経)で説かれたものの1つですが、この金剛経とは、人間には目に見えるものにとらわれすぎると、ものの真の姿を見誤ってしまうということを戒めるお経とのことです。簡易には「諸相は相に非らずと見るは、如来を見るなり」との教えがあるのですが、曹洞宗道元では「諸相と非相を見るは、如来を見るなり」と解釈したようです。仏教的な解釈の違いはわかりませんが、道元は目に見えるものも認め、見えないものも見ることが重要というようなことを言っているようです。ここでは最終的には「如来を見るなり」と言っていますが、真理に到達する者とか、解脱する、悟りの境地に達するなどのことを指します。
写真をやる以上は、「諸相」を写すことは避けられないことです。しかも、カメラという機械を使いますので、見た目・肉眼とも違うこともあります。そこに、印象や心象である非相、はたまた、自然への畏敬(神のような存在、アミニズムなど)、思考や思想的なもの(前述した「水・生命の根源」のようなテーマ)という非相を加えることによって、多くの表現が生まれているのだと考えてはどうかと思うのです。
写真愛好家にとっては、「諸相・非相を見るは、新たな写真を創る」とでも言い換えたらいいかも知れません。
※ もう一つは、諸相や曹洞宗などを調べていたら、あのピカソとともにキュビズム芸術を先駆けたジョルジュ・ブラックについての情報を得ました。これは次回です。

写真を好むものにとって、重要なのが「諸相」でしょう。物や事象にある美的要素をフレーミングして撮影しています。鑑賞する側も、美的要素を読み取って見ていることでしょう。じっくり鑑賞するかどうかは別にしますが、色彩感のあるもの、日常は目にしない現象などが多く、単写真なので、深読みしてテーマを読み取るようなことは難しいようで、いわゆるフォトジェニックなものが好まれているようです。

このように美的要素が一般的ではないような「諸相」に「非相」を取り込んでいく、あるいは、「非相」を表現するために選ばれた「諸相」を通して表現していくという手法が取られているようです。手法と書きましたが、失礼かもしれません。現実の諸相から、独自の非相を感じ取ってそれを表現したかも知れません。
そこにある感受性、センス、感性などと呼ばれるものは、単なる視覚ではありません。過去に述べたように視覚を司る脳細胞の周辺には様々な領域があり、独自の視点を見出させたのかもしれません。

上記の図を提示した際は、単なる「きれい」という感情、判断・理解の領域での有意注意を引き起こすものとだけ見ていましたが、側頭葉にある「知識・記憶」などにも関係して、見える事象に意味を与えることがあり、独自の視点を見つけ出し、生み出したりするということも可能なのかもしれません。
極端かもしれませんが、視覚というのは、個人の知識・経験、興味関心などによって、外の世界を定義したり意味づけるものであるということもできます。



写真愛好家にとっては、「諸相・非相を見るは、新たな写真を創る」とでも言い換えたらいいかも知れません。
※ もう一つは、諸相や曹洞宗などを調べていたら、あのピカソとともにキュビズム芸術を先駆けたジョルジュ・ブラックについての情報を得ました。これは次回です。