ある写真家の「主観と客観」の捉え方を考えてきたシリーズの続きとなります。新しい情報が入ったことから、ようやく分かりかけてきました。「鏡と窓」も、彼の獲得した写真スタイルの1つの説明であることもわかりました。

 彼のスタイル

その一つの方法論が、毎朝日の出前に起き、撮って撮って撮りまくることだったのです。つまり、身体性を伴うことで「無」の境地で自然を捉えることができるんじゃないかと考えたわけです。そして写真には「カメラ」もしくはそれに類する何かが必要です。つまりそこで一旦客観視される。無意識の領域で捉えた世界がそこで「客観」として立ち上がってくるのです。
アミニズムの精神が根底に流れていて、カメラを使う際にもアミニズム的な気持ちが宿る。身体性を伴い、時にはシャーマニズム的なニュアンスを漂わせながら、生々しく描くのが日本人写真家の個性なのですよ、と。

 そして、文章にすると分かりにくいかもしれないことと、まだ、情報が入ってくる可能性もあって、簡単な図で表してみました。

撮影スタイル

 ・「写真を撮る」という意識よりも、「無意識的な領域」で自然の気配(アニミズム的な感覚、感性)で、カメラで撮り、客観としての画像が保存される。撮影は主観で無意識的だが、そこに客観性が立ち上がるということです。その道具というカメラでさえ、アニミズム的な精神性が宿るとさえ言っていますので、客観的な自然風景というよりも、アニミズム的な日本人の自然観もあるだろうということです。だからこそ「気配」が感じ取れるということです。
 ・そして、写真はそうした無意識的な主観で客観的に表出されたものであり、また、写真家にとっての表現方法である以上、その表現性を常に高め、広げるということでは表現性の具現の1つでもある。
 ・鑑賞者にとっては、そうした写真作品は1つの客観的存在ではあるが、それぞれの主観や客観的見方で解釈される。そこでは写真の忠実性よりも距離間を置くという表現がより広い解釈をあたえる。

 このようなことが言えるのではないかと思います。