
⑤ 主観的な写真であるが、出来上がった作品はできるだけ客観的であってほしい。そうすることで、描かれているモチーフの場所的価値や意味から出来るだけ離れていくことができるのではないか。
⑥ 現実の風景を忠実に再現して正確に描くのではなく、いかに現実から離れていくか。そうすることで、撮影者と鑑賞者の思いにいい意味での距離ができて、解釈の幅が広がるように思います。

鑑賞者にも表現したことが受け入れられるということでの「客観」でしょうか。その後の言葉を考えると、そうでもなさそうです。モチーフ云々は撮影者の観点で書かれているので、表現の主体者は撮影者ですが、表現者の主観で意図ある写真を撮り、表現性を込めて作品を作ったのにもかかわらず、その意図、価値、意味からも離れていいとなります。いいというよりも離れることが表現であるとも受け止めれます。自己の主観から離れ、自由な解釈ができるような作品というのが客観的であるということになりそうです。
表現という場合には、表現する主体者の主観による価値や意味の発見があって、それを鑑賞者に伝え、共感し、解釈してもらいたいうという意図があります。更に、表現されることでは必ず鑑賞者がいるので、うまく伝わるかどうかも自己診断することもあるかもしれません。あるいは、どんなものを求めているのか考える場合もあるかと思います。組写真の場合は、被写体も異なる写真を組み合わせて伝えたい事を表現するので、主観的な写真でありながら、組み合わせには相当の試行錯誤が必要ですし、その際には自己の写真を客観的に捉えていく力が必要とされているようです。
第三者にも解釈できるようにするのが表現なのでしょうか。そうなると、表現における強調などの現像過程は、あくまでも鑑賞者に意識をおくという主観による客観的な現象過程ということになりそうです。自分の主観だけではない、自分の意識にある他者の目、第三者の目で表現していくということでしょうか。
これは理解が難しいです。例えば、単純的には鑑賞者の好みに合わせたり、鑑賞者の解釈を助けたり、促すようなことでの客観化を図るということでしょうか。
⑥は、現実からの距離というのを表現と理解しましたが、表現というのは解釈の幅を広げるのが目的としているようです。この幅というのも、よく読むと、撮影者と鑑賞者の解釈の仕方の違いによる幅とも考えられます。そうなると、⑤でいうところの、「場所的価値や意味から離れて」いくことも可能かもしれません。そうなると、表現というのは、作者の印象や鑑賞者に感じてほしいという思いを具体化するという意味もありますが、それよりも撮影者とは異なった解釈を産むものでもあるということができます。つまり、「作品は自分の子供のようだ」という言い方がありますが、似てはいるが、独立した人間として成長していくようなもので、作品というものが作家から生み出されれば、鑑賞者の解釈で独自に歩き初めていくということが想定されているのでしょうか。

さらに光を長く取り入れる長時間露光も行なっている作品もあり、風の動きや空気の動き、水の動きを取り入れています。これらも彼にとってはコントロールできない光の重なりや動きである現象を捉えたのですから、場所的価値から離れることになるのかもしれません。

このシリーズ最初に、講座の項目を上げましたが、写真やアートの歴史、日本画と構図というのがあるようです。前者の歴史は、自分がどの位置にあり今後どう進むのか、その具体としての日本画への着目があると考えます。

西洋での風景画はリアリズムが根本で見えるものが全てです。ところが日本画はそうしたリアリズムを越えたイマジネーションで描きます。特に余白における「間」の美意識と造形の大胆さで、ダイナミックな構図を特徴としていると思います。あの葛飾北斎の富嶽三十六景・神奈川沖浪裏、通称「浪裏富士」が代表的です。風景写真でもアングルを変えるなどで、似たようなものも可能でしょうか。構図は絵画に学べと言いますが、日本画、水墨画、山水画などと日本にも学ぶべきことが多いように思います。この浪裏富士の浮世絵は西洋印象派絵画に影響を与えたと言いますので、日本的な構図手法を写真に導入して、独自の作品作りと、やがては世界へと飛躍を狙っているのかもしれません。
また、新たな情報が入れば、付け加えていきたいと思っています。