

ある写真家は、ここに「客観性」を加えるのはどうしてなのかということです。「主観で撮影した作品に、できるだけ客観性を持たせたい」という主旨なのです。
彼の言う主観、客観と言うのは彼自身の言葉からは説明されてはいないようです。そこを考えるわずかな情報といえば、
① 表現の幅を広げるために、自然の「気配」を感じとって撮影する。
② 偉大な尊敬する写真家とは別な表現をするためにも。
③ 視点を変えると、宇宙が見えてくる。
④ 意識することで表現が狭まることを避け、可能な限り無意識の領域で風景を見る。そうしたことで自分の想像を超えた写真が撮れる。
⑤ 主観的な写真であるが、出来上がった作品はできるだけ客観的であってほしい。そうすることで、描かれているモチーフの場所的価値や意味から出来るだけ離れていくことができるのではないか。
⑥ 現実の風景を忠実に再現して正確に描くのではなく、いかに現実から離れていくか。そうすることで、撮影者と鑑賞者の思いにいい意味での距離ができて、解釈の幅が広がるように思います。
これが今のところ知っている情報です。その中での「客観」とは何かが課題なのですが、「気配」「別な表現」「無意識の領域で見る」「モチーフの場所的価値や意味から離れる」と言う言葉も非常に気になりますし、それらから言おうとしている「客観」についても想像できるかもしれません。

・どちらも「写真を撮る」と言うアクティブな構えから離れようとしていることです。自然からのサイン・働きかけは動物写真以外(?)は皆無なのですが、それを感じとることを「気配」と言っているようです。撮るよりも受け取ると言う構えです。自然に神が宿ると言うようなアミニズム的な心境をも語っているようです。
アミニズムといえば、宗教的には初歩的な原始的宗教と言われていますが、どの地域にもあった人類に共通な感性であったことは特筆すべき点です。山を祭る、木や岩を祭ると言うものであり、ある動物を神の使いとするようなものです。それは今でも残っているのが日本でもあります。
西洋ではどうかと言うと、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教の普及によって完全にアミニズムは排除されます。神はただ1人であり、それ以外は邪教ともされたようです。そして、その教えからは、自然は神が造り、人間に与えたものですので、人間よりも下位のものです。悪くいえば奴隷と同じようなものです。自然に霊的なものを感じることがタブーでもあるようなことですので、ひょっとして自然の解釈の仕方や感じ取り方は違うのではないかと思う要因です。
・ 無意識については、フロイトが最初に研究を行ったらしいですが、ここ150年ほどです。客観的に実証が難しいらしく現代でも研究されている分野だそうです。無意識の働きについてはあくまでも仮説の域ですが、様々な精神的症状を説明するにはこの仮説に妥当性があると言われています。その影響は芸術分野に多いと言われ、理性的よりも感情や衝動といった着想からの表現です。シュールレアリズムと言う「理性による支配を受けない思考による芸術」、「深層心理や無意識の世界を具現する芸術」が代表的でしょうか。まさに「主観芸術」であり、倫理規範、社会的常識からも解き放たれた領域の表現も可能とした考えです。
・ この無意識の発見とか心理学的な分析については一般に知られていないのですが、仏教では4、5世紀から、唯識論と呼ばれて仏教的な分析が行われていたものです。ここでは無意識も2つあって、意識に近い潜在意識と、意識と潜在意識を生み出すもう一つの層があると言うものです。この論は宗教的ですが、それらは全て主観であり、その主観が現実世界を認識すると言うことでは、客観的なもの、不変なものはないと言うことになり、例の「色即是空」と言うことなります。(色は存在するもの、空は不変の実体のないもの、と言うことになります。)
仏教で興味あるもう一つの教えがあります。全ての宗派ではありませんが、人間は煩悩でまみれてはいるが、仏になる資質があるとされる「仏性」があると言う「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」が説かれています。また特に精神性のないもの、例えば自然や動物にも仏性があると説く宗派もあります。こうなれば、全てに仏性があり、仏になれるという考えとなります。これは世界的に圧倒的な人口のあるキリスト・イスラム教圏にはない思想となります。
無意識に主眼をおいた芸術があることも知っておくことも大切です。また、宗教について長々と書きましたが、世界観に影響を与えるのが宗教です。自然の見方や解釈に影響を与えると言うことでは、自らの感覚や感性を意識的に分析することも大切かもしれないからです。
芸術の流れや仏教を少し見てきましたが、いずれも「主観」がキーワードです。

・「気配や無意識」とは言っても、なかなか難しい、それこそ主観的なものです。気配とは言っても多くの写真を撮っても、撮ると言う判断があり、多く撮った中で選ぶと言う決断があります。そこにどれだけ客観的な判断・決断があるのか不明です。
よりわかりやすいのは、今までの判断や決定の仕方ではないもの、選ばなかった被写体を見つめ直す
と言う考えです。今までの判断や決定の元での撮影を意識的に排除する、意識していて見えなかったものを意識して撮る、つまり「視点を変える」と言うことだと理解しやすいのだと思います。それを比喩的に表したのが「気配で撮る」「無意識で撮る」と言うことです。しかも、それらは「主観」が本性なのです。従って、「主観的な写真でも…」となるのです。
今回も、どこにも「客観」については見当たりませんでした。
あえて探るとすれば、彼の今までの作品の中に、こうすればいい作品になるだろうとか、そう評価されてきたと言う「客観的な撮り方、現像・表現方法」があったのかもしれません。
そして、あくまでも主観であると言うことから、経験的に身に付けた撮影技術と表現方法の完熟をよしとしなく、それを脱却したり、それをも包括するような新たな境地・表現域へと高めようとする意欲があり、その気付きと予感があっての言葉かもしれないということです。
(以上は彼の主観をあくまでも想像して主観で書いています!?)
