


なぜ,こんなことに気にかかるのかと言えば,将来の時間に保証がもてないことでしょうか。明日のことは老若男女,誰もわからないのですが,若い頃には考えもしなかった,自分の年齢・経済地盤,そして,家族の健康状況(病気,介護など)でも左右されてくるからです。いつ,写真が撮れなくなるのかは,個人的な1つの脅迫観念かもしれませんが,誰にでも迫っていることだと,自分だけでは寂しので拡大解釈をしているだけなのかもしれませんが。
スマホやインスタグラムなど,巷では1億総写真家と言われる時代とも聞きます。中には写真が目的というよりも,話のネタ,全くの「私小説的な記録」の一部でしかないというのも見かけます。「半径2m」の個人的,家族的な写真が,Webによって世界まで拡散するという,よき時代です。
私の写真も,まあその手のややこしいもので,私生活は隠したい,何とか写真の質を上げていきたいというものでしかありません。

決まった!となれば嬉しいのですが,やはり手探り状態のままです。
しかし,手探りの中で,
・写真の世界では、「テーマを持つこと」の大切さを強調する写真家は(とくに日本には)多いが、「モチーフを持つこと」を説く写真家は少数だ。
その結果かどうか分からないが、日本人では、文学的なテーマを模索する人が(西洋に較べて)多いと感じる。作者の主観、心理描写を重んじ、ウェットなテーマを選ぶことを好む。撮影のときも「何を感じて撮ったか」を大切にする。
他方西洋では、心配性で勤勉な国民性が日本人に似ていると言われるドイツ人でさえ、写真においてはむしろ正反対で、テーマよりモチーフを重んじるように私には映る。ベッヒャー夫妻が、その最たる例で、主観を排し、ドライにモチーフを繰り返し描写する(同じ東アジアでも、韓国の写真家は、モチーフを重視する人が多いように私は感じている)。
という文章が目に入りました。音楽家でもあり写真家でもある某ロベルト氏のブログ「焦点」です。もちろん個人的な見解でしょうが,これを読んだときに,テーマについて大上段に構えすぎるのか?と思いました。彼の作品は全てはみてはいませんが,かい間見た所,先端的な現代写真風で,モノクロです。全く自然風景写真ではありません。更に,写真撮影で「何を感じ取ったか」ということを大事にするという点でも,その後の文中では,世界(被写体)から意味を読み取る日本人と,世界(被写体)に意味を与える西欧人ということも言っておられます。やはり大衆が認めるような大義名分にすがる日本人との,個人主義や自然観(あるいは宗教)の差なのでしょうか。しかも,プロなのに,テーマを,ジャンルと間違えたり,オブジェクト(モチーフ)と間違えて,アマチュアに紹介しているのもあったりして,ピンキリの日本の写真界?のようでもあります。
さて,これが引っかかったのは,やはり,モチーフということばです。写真では,何を撮るのかの被写体にあたるかと思います。どうやら,このモチーフの1つが固まりつつあるからです。もう少し考えてみて,このモチーフだでいいとすれば,「テーマは何だ!」と大上段でなくてもいいことになります(とはいえ,ロベルト氏の話は現代写真の先端の話らしいですので,自然風景写真にはほど遠く,勝手な解釈です)。

とはいえ,モチーフだけというのも,腑に落ちないので,それをどう表現できるのか(このあたりがコンセプト的かも),時期的季節的なものとすれば,他の時期にはどんなモチーフがあるのか,なども考えています。好きな被写体,気になる被写体ともなれば,誰にでもあるかと思います。好きだからこそ,綺麗に,高品質に撮り,仕上げたいものです。
大上段にテーマ→サブテーマ→オブジェクト・モチーフではなくても,モチーフ・オブジェクトからでもいいのではないか。そう思うようにもなってきた年の暮れ・師走です。