photo_kangae

   フィルム時代の経験はあるが、デジタルになってからは、薬品や暗室から開放されて、一段と身近になった感がある。最初のデジタルが、カシオのQV-10だったろうか。何台かすぎて、やっとデジタル一眼へ移り、今の機材となっていく。これから、4K、5K、8Kとディスプレイの進化の中で、高画質と高感度を求めてカメラも進化するだろう。しかし、今の機材もどれくらいもつのかと考えたとき、プリントアウト(最大A3)を最終目標とすれば、2000万画素でも大丈夫かと思ったりもする。要はRAWデータを保存し、現像、調整するソフトの高画質化・高機能化に期待もしている。
 しかし、趣味とはいえ、機材的には金銭的限度があるが、やるからにはミドルクラス以上の腕前(見る目、技術等)は持ちたいものである。そんなことで構想したのが絵図である。どうすれば上手くなるか、これが課題であり、ある程度納得のいく写真を撮りたいものである。
 感性領域、技術領域、そして、作品領域。それと、「選ぶ・探す」気象・地理的知識領域の4つの分野を想定した。
 ・「感性領域」:撮影の瞬間瞬間の第一の動機は、理屈もなく、「好み」である。何に着目するのか、選ぶのか、はたまた、待つのか、立ち去るのか…は、感覚的なものであるらしいし、過去からくる好み、あるいは、拘りであると考えている。しかい、全くの感覚的かといえば、それは、好みも含めて、過去の経験での美的感覚、自然観…、あるいは、技術領域等も含まれた海面下の氷山のごとくあって、海面上のわずかな部分を「感覚的」と言ってのかもしれない。従って、この感性という場合は、その氷山の全体をさしていると考えている。「いい!」というただの感覚の奥には、整然とはしない、多くの知識や体験があると思っている。
 従って、第2には、自分なりには、自分流の「フォトジェニックな光景」かどうかも判断していると考えている。自分にとっての写真になるかならないかを判断しているわけである。夕焼けが綺麗といっても、その前景、中景、あるいはその周辺に全くの人工物があれば(素敵な形状の建物やオブジェ、廃屋等があれば別だが…)、だいたいは眺め、ああ、あの丘やあの背景だったらいいなぁと思っている。
  ・ジオグラフィックのブライアン・ピーターソンが、写真は人生、人そのものである、とうような主旨を述べている。まだ、それを見切れる、観賞しきれる力は無いが、このことは、こうした海面下の氷山をさしているのではないか。そして、写真はその表出ではないだろうかと、感じさせる言葉である。写真に向かうことは、知らずに人生をもかけた一瞬ではないだろうか。何を選び、どんな設定で、どう切り取るのか…、いつものように人生の選択の1つである。 (つづく)