川霧を撮りに行った後のことである。帰りがけ、何かの「声に呼び止められるよう」にフッと振り返り、しゃがんで見ると、朝露に耐えるかのようなトンボが、土手の斜面の草に止まっていた。
羽にも眼にもいくつもの朝露の雫がついていた。北国の初秋で、朝は寒かったが、草の色は鮮やかであった。思わずしまいがけのカメラを構えて撮る。トンボは、生きているのか、そのまま息絶えているのかは分からない。十数枚は撮っただろうか。そして、撮り終え去ろうとして2,3歩行ったところで、フッと振り向いて、「ありがとう」とつぶやいてしまった。
何をかんじたのだろうか。どんな気持ちがそうさせたのか。死を迎えるトンボ、すでに死んだトンボを撮らせてもらった感謝だったのだろう。後で思うと、何かドキドキとして、不思議な体験であった。これ以来、声を聞くことができるような姿勢に心がけるようになった。
ある情景を撮りたい、撮ってやろうという欲はある。そのために、日の出や日没時刻、それらの方角の一年間のグラフをつくったり、主な撮影地毎にそれらをプロットしたりした。撮影に出かけるときは、前日に撮影地を決めておくが、いざ出発すると空模様等を見ながら、目的地や撮影コースを決めてむかうことにしている。しかし、自然は自然で気ままに、私の勝手とは無関係に移っていくものである。思った情景にはなかなか出会えないことが多いが、そんな状況でも、一呼吸おいて声を聞こうとすると、新たな発見をさせてくれるものである。
羽にも眼にもいくつもの朝露の雫がついていた。北国の初秋で、朝は寒かったが、草の色は鮮やかであった。思わずしまいがけのカメラを構えて撮る。トンボは、生きているのか、そのまま息絶えているのかは分からない。十数枚は撮っただろうか。そして、撮り終え去ろうとして2,3歩行ったところで、フッと振り向いて、「ありがとう」とつぶやいてしまった。
何をかんじたのだろうか。どんな気持ちがそうさせたのか。死を迎えるトンボ、すでに死んだトンボを撮らせてもらった感謝だったのだろう。後で思うと、何かドキドキとして、不思議な体験であった。これ以来、声を聞くことができるような姿勢に心がけるようになった。
ある情景を撮りたい、撮ってやろうという欲はある。そのために、日の出や日没時刻、それらの方角の一年間のグラフをつくったり、主な撮影地毎にそれらをプロットしたりした。撮影に出かけるときは、前日に撮影地を決めておくが、いざ出発すると空模様等を見ながら、目的地や撮影コースを決めてむかうことにしている。しかし、自然は自然で気ままに、私の勝手とは無関係に移っていくものである。思った情景にはなかなか出会えないことが多いが、そんな状況でも、一呼吸おいて声を聞こうとすると、新たな発見をさせてくれるものである。