PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

写真についての個人的なメモです!

ウクライナ 2

 今回もウクライナ侵攻について

 ロシアのウクライナ軍事侵攻は、2014年のクリミア併合以来のこと。この併合については国際的には認められていないし、ウクライナも認めてはいない。クリミアというのはウクライナの半島ですが、古くは1853年にここの周辺の領有をめぐって、ロシア帝国軍艦の奇襲によって、イギリス・フランス・トルコオスマン帝国と戦争を始めています(クリミア戦争)。この時にはロシア帝国は負けますが、ソ連時代にウクライナ全域を併合して願望をかなえます。併合とはいっても過酷なもので、多くのウクライナ人が殺され、その後にロシア人が我がもの顔で彼らの土地、家を奪ったそうです。また残った人々は強制労働に駆り立て酷使されます。そして、ソ連解体後、ウクライナとして独立してからも、クリミア半島に軍事侵攻して併合するのです。ロシア帝国→ソ連→ロシア連邦という長い歴史上では、ロシア側に悲惨な目にあっているということになります。今回はウクライナ東部の2つの地域の独立承認を口実にして侵攻し「中立」「クリミアの独立承認」と要求していても、本音はウクライナ併合、つまりロシア連邦に組み込みたいのかと考えます。プーチンの尊敬する人物はロシア皇帝だそうですが、皇帝のようにロシア史上に名を残すのも彼の悲願でもあるように思います。

<ロシアの覇権体質は根強い>
 ロシアはロシア帝国時代もこのようにして領土を拡大し欧州では最大の国家になり、それをそのままソビエト連邦が引き継ぎました。そして、ソ連時代はポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニアの東部地域を含む東欧諸国に侵攻し併合しました。これが周辺国に対する覇権主義的な野心です。しかし、共産国家時代には直接的間接的に、各国の共産主義を育て支援し、世界同時革命を標榜して(社会主義インターナショナル)、中国、北朝鮮、キューバなどが共産国となり、自由・資本主義と対立する勢力をつくりました。この対立が冷戦で、核兵器での競争が始まり、保有数ではアメリカをしのぐことになり、他の共産圏にも輸出・技術提供しました。核兵器のほとんどは全て今のロシアに引き継がれています。
 これらの核兵器は、そのまま温存、整備・更新が行われています。これを使えば第3次世界大戦の引き金になるという「使えない核兵器」というのが世界の共通認識ですが、核兵器を小型化して戦闘機や戦車、あるいはバズーカ砲のようなもので局地的、小地域でつかえるものを開発し配備してきたというのが、世界的状況です。北朝鮮も研究段階に入ったと言われています。プーチンが核を脅しに使うのは、これが「使える核」であることを認識し、実際に使うことを意図しているのです。日本は核兵器による初の被害国です。「戦争を終わらせるため、やむを得なかった」というアメリカの主張は今も引き継がれていますが、国際法違反である一般市民への虐殺であり、それをアメリカが犯したということでは、初の核兵器を実戦で使いたかったというのが、当時のアメリカ大統領や重要ポスト、軍関係の意向だったと思われます。
 従って、プーチン大統領が公言し、「人道回廊」を認めたということは、人的な被害を少なくして、核兵器を使用するという確率が高いと言うことができるのではないでしょうか。

<宗教や思想での国民の統一>
 帝国時代は思想的にはロシア正教、ソ連時代は共産主義で統一を維持しました。ロシア人が約80%で、残り多くのは少数民族という多民族国家です。ソ連崩壊後は元ソ連の共産党の重要ポストについたエリツィンが初代大統領になり、その後継者としてプーチンが大統領になります。ロシア経済を立て直すが、軍や警察機構の改革、そして、チェチェン戦争、南オセチア戦争、ウクライナ軍介入とクリミア併合(2014年)と侵略を止めていません。プーチンこそがまさしく「ヒトラー」のように、全体主義の象徴です。自らに反対するものを抹殺したり、物言えない国民をつくっています。

ウクライナ 1

 ウクライナの民族楽器バンドゥーラを弾きながら、日本の曲なども歌ってい女性がいます。今回の侵攻で遅ればせながら思い出し、気になってYouTubeをみると、本日夕刻にアップされていました。ああ、大丈夫だと思い、映像のできもよく今どこ? という感じで調べるとどうも日本にいたようです。
 今日アップされた歌は、自作の「希望の大地」というものでした。歌手なので政治的な表現を避けて、歌っていました。メッセージは 「ウクライナの人々、日本の皆様、戦争を止め憎しみや悲劇でなく思いやりや慈しみをと願う世界の人々へ そして未来を生きる子どもたちへ」というものです。

  歌詞は下記です。YouTubeもすぐ下ですので、ぜひ、お聴きになってください。
              https://www.youtube.com/watch?v=0lT5SNCRWLA


    朝日にゆれて 小麦に光る
 いのちの輝き しずくに触れてみる
 緑の木陰 あの日の記憶
 ゆらめく髪には リンゴの花飾り
 大地をふきぬける 争い 悲しみ
 いくつもの悲劇を 乗り越え 歩んだ

   涙にぬれて 歩いた森の
   いのちの薫りが アスへの道しるべ
 夕日が沈む 遙かな丘は
 いつまでも変わらぬ 一面のひまわり
 大地をふきぬける 争い 悲しみ
 いくつもの悲劇を 乗り越え 歩んだ

    大いなる希望を ウクライナの大地が
  祈るように いつくしんで
  守り育て いつの日か 花ひらかせる
  天使のような きらめく笑顔
  いのちの芽生えに 希望がうまれくる
  手に手をとって 歌ごえあわせ
  小さな瞳が 夢みる 幸せの種をまこう

 彼女は、チェルノブイリ原発の職員を父にもっていて、原発事故時は、放射線被害は原発から50km全域というなかで、3kmほどのところにいて被爆しているそうです。また、過去には、広島の幼い被爆者で、生きたいと願って折り続け亡くなった子のご両親から一羽の折り鶴(禎子の折り鶴)をもらいます。そして、チェルノブイリ事故30年目、福島原発事故5年目にあたる 2016年に、日本とウクライナの友好と平和の印として、前大統領夫人を介して、国立チェルノブイリ博物館に贈ったとのことです。父上は亡くなられたのでしょうか、母上は首都キエフにいるとのことです。

 チェルノブイリ原発はソ連時代に造られ、耐熱部分の資材も滞って可燃物をつかった突貫工事で、点検や試運転もなく稼働しての事故。いわゆる安全よりも上からの指令である稼働日が最優先されたという。当時は工事関係、技術者関係、そして家族、しかも軍隊によるのなかで監視で暮らし、地図上にも存在しない秘密都市で、そこに彼女は住んでいたのである。この原発事故の被害者はソ連発表 33人にんだが、IAEA公式見解では4000人とみられている(異論有)。負傷者は不明である。放射線による被曝や死者はわかっていなく、推定のみで、全ヨーロッパで2万~9万である。共産国の秘密・隠蔽主義、全体主義の悪弊がでた痛ましい事故です。 

古代人のこころと自然観 その13

 ロシアによるウクライナ軍事侵攻は、コロナ禍のように統制された情報が行き交っているようです。しかし、いろいろなことを示唆しているようです。それはそれぞれの理解です。
 私の場合は、独裁的政治や主義思想への疑惑にもつながるものになっています。また、これからの日本への不安や期待へともつながっています。


  さて、ウクライナと今後の世界へ愁いをのこしつつ、こちらの話をすすめます。
 アニミズム的信仰は世界的でみられたということで、もう少し深めます。
今回は、樹木崇拝などの特定の物への信仰をみてみたいと思います。

<聖なる樹木>

 この世界は巨大な樹木で覆われ、天を支え、膨大な根で大地を固めている。しかも、その枝伝いに太陽が動いていると考えられていた。フィンランドやアイスランド、中国の神話から読み取れるそうです。日本の記紀にある「天の御柱」も天と地を繋ぐ物です。この柱や木にぶら下がることによって神となるという北欧の神話もあるようです。日本では神や亡き人を「柱」で数えるのもその名残だと言えそうです。イザナミとイザナギは「柱」を回って、国を作ったり生命を作り出しました。釈迦が菩提樹の下で悟りを得たということでは知の元が樹木であったとも書いてあります。神社には御神木がありますが、古代ローマにも神として、あるいは神が宿ると崇められる木がありました。
 太い樹木の持つ生命力や長寿、天と地をむずぶと言うことでは神が降りてくるもの、天と地を支える偉大なものとして古代人にはうつったのかもしれません。ただ、これらが縄文や弥生にあったかと言われると不明です。

<聖なる動物>

 次は動物ですが、人間を超えた力を感じたに違いありません。空を飛ぶ鳥や大地をかける動物たちです。ワシやフクロウ、ライオンやトラ、オオカミ、毒を持ったヘビなど。そして、動物の持つ属性(強さ、飛翔、毒などの強さなど)以外に、動物が象徴化されることで崇拝されることがあるようです。

 1つはヘビ類で、農耕儀礼と結びついたりして祀られる。さらに、特定の集団が特定の動物に象徴づけられ、その先祖として、儀礼の対象になることがある(トーテミズム)。日本では真鳥としてワシ、真虫としてマムシ、真神(まがみ)・オオカミとして狼を特別視していることなどもあげられます。熊についてはアイヌが山の神として神聖化していますが、これはロシアにもあったようです。また、フィンランドでは国の動物としていますが、神話でも熊が民族の祖先の化身とされて神聖視されてきた経緯があるからです。

 日本の神社などでみられる「しめ縄」について。多くの説明は、天の岩戸に再びもどらないようにしめ縄を張ったのがならいで結界を意味するといわれているようです。しかし、神であるアマテラスもはいれない結界とはすごいものです。そうすると古今、神社は神を祭っておいてそこから出られないようにしているのでしょうか。どうも違うようです。
 もう一つの説としては、蛇が絡まっている姿としてのしめ縄というおさえです。まだ、ユダヤ教が広まる前(蛇を悪いものとしておさえていますので)やユダヤ教外では、世界的には蛇は農耕をつかさどる神で豊穣を象徴するもの、あるいは、脱皮することから不死・再生の象徴とされていたことが多いよいようです。また、知恵の象徴であったという文化が世界各地にあります。こうなれば、「しめ縄」は結界という意味もあるでしょうが、蛇の姿として豊穣、不死・再生を象徴するものでもないかと思うのです。

古代人のこころと自然観 その12 精霊と霊魂

 アニミズムをみてきました。ここでは「霊魂」ということで説明しましたが、似たような言葉で「精霊」という言い方があります。最初に精霊に触れ、次ぎに「霊魂」について書いてみたいと思います。 

<精霊>

 西洋では「spirit」や「elemental」という言葉で表されています。漢語では精霊は、精怪とも同意で、妖怪、妖精、死者の霊、鬼神という意味があります。以下はウィキペデアからの抜粋です。 


 古代日本では自然物には生物も無生物も精霊が宿っていると信じ、それを「チ」と呼んで名称の語尾につけた。古事記や風土記などの古代文献には葉の精を「ハツチ(葉槌)」、岩の精を「イワツチ(磐土)」、野の精を「ノツチ(野椎)」、木の精を「ククノチ(久久能智)」、水の精を「ミツチ(水虬)」、火の精「カグツチ(軻遇突智)」、潮の精を「シオツチ(塩椎)」などと呼んでいたことが知られている。また、自然界の力の発現はその精霊の働きと信じ、雷を「イカツヂ」、蛇を「オロチ」などと呼んだ。こうした精霊の働きは人工物や人間の操作にも及び、刀の力は「タチ」、手の力は「テナツチ(手那豆智)」、足の力は「アシナツチ(足那豆智)」、幸福をもたらす力は「サチ(狭知)」などと呼ばれていた。人間の生命や力の源が、血液の「血」にあると信じられたところに、「チ」が起源しているとも言われている。土(ツチ)、道(ミチ)、父(チチ)も同じ考えが表現されたものと見ることができる。また神話や古代氏族、とりわけ国津神系の氏族の祖先には「チ」を名称の語尾につけているものが見出される。神話では「オオナムチ(意富阿那母知)」や「オオヒルメムチ(大日孁貴)」、氏族では物部氏の「ウマシマチ(宇摩志麻治)」や小椋氏の「トヨハチ(止与波知)」などである。神名や人名の語尾(正確には「〜神」、「〜命』の前の語)に「チ」がつく名前は最も古い名前のタイプで、草木が喋ると信じられていた自然主義的観念の時代を反映しているものと考えられている。

 これらは誰が編集したものかはわかりませんが、様々なものに精霊が宿っていると考えた古代のことが分かります。ちなみに古代の日本語=やまとことばでは、言葉の1つ1つの音に意味があるのではということで、太平洋戦争以前は1つの学問として研究されてきていましたので、こうした系統からの仮説と思われます。

 日本では精霊は「しょうりょう」とも言って、盆に迎えまつる祖霊をさしています。天寿を全うした者の霊は、死後33年ないし50年の弔いを終えると、死体から離れて清らかな霊となって、正月や盆、農耕儀式の際に、子孫のもとを訪れて見守ってくれるものと考えられています。盆の頃に飛ぶ赤とんぼを精霊とんぼともいって、先祖がこのとんぼに乗って帰ってくるという地方もあるようです。一般的には迎え火をたいて迎える形が多いようです。


<霊魂>

  この霊魂は、いままで述べたように、肉体とは別の存在ではありながら、肉体にあるときには生命活動や精神活動をつかさどる存在で、肉体を離れるといわゆる五感では感じることのできない永遠の存在であるとされます。

 古代エジプトでは、人が死ぬと肉体から離れるが、再び肉体に戻ってくるという考えがありました。また、古代インドでは、霊魂は何度もこの世に生まれ変わる輪廻転生という考え方がありました。さらに、人間だけでなく、全ての命あるものや無生物にも霊魂が宿ると考えられているのが一般的でした。

 霊魂と言う言葉は、霊と魂の2語で成り立っていますが、「霊」というのは、たくえつした心や命、神的なもの、神秘的な力をもつもの、などの意味があるようです。「魂」の方は、精神をつかさどるもので、肉体をつかさどる「魄」と対比されていて、人の死には「魂」は天に帰り、「魄」は死体が埋葬されるのにともなって地に帰ると考えられていました(中国の道教の考え)。

<精霊と霊魂>

 こうしてみると、精霊と霊魂は似たような意味と存在であると思われますが、精霊のイメージは、人間以外のものという感じもしないではないですが、日本では清らかな霊ということで、悪霊とは対照的で、子孫を繁栄を見守る霊というような意味合いがあるようです。ともあれ、今までのアニミズムを合わせて考えると、古代人が、肉体や動植物、無生物の中に、五感的認識ができない存在、目に見えない存在を考えだしたというのは、人類の知恵での革命的なできごとではないかと思います。

 病や死、災害等への不可避な悲しい運命をどのように受け入れたり、乗り越えるのかという課題を、幾世代にもわたり、それこそ数千年単位で考えてきた解答の1つが、精霊や霊魂の存在であると思います。しかも、自然との一体感をもちその恩恵を充分に理解した上でのことですので、自ずと草木や動物、あるいは岩や山などの無生物にもその存在を認めたのでしょう。ここで「認める」と書きましたが、共感をもって感じ取っていたと思われます。

 一般的に「信仰」というのは、科学的な裏付けあるものではありません。神や霊魂の存在も科学的な証明ができていません。しかし、大きな苦しみや迷いを乗り越える実践と論理的な思考などの中で信仰が生まれたと思うのです。ユダヤ教やキリスト教などの一神教では、科学的な裏付けがないことから、教義という論理を育んでいき、科学的論理的ではない神秘的な出来事を信じるという「意志」「信念」をもとにした宗教であるかもしれません。
 そうなると、霊魂や精霊は一神教では異端になるようです。一神教にはどうも排他的な面があります。しかし、砂漠などの過酷な環境の下で生まれたような一神教とは異なり、豊かな自然や動植物に囲まれた日本では、いわば多神教的で、いたるところに霊魂や精霊が身近にあり、それらを感じるような繊細な感性もあったために、後世に至っても「感じる宗教観」のまま、無宗教とか無神論者のような日本の宗教風土を醸成してきたのではないでしょうか。西洋ではアニミズムや多神教は「遅れた宗教」とされているものを、少し考えて、感じてみるのも「(古代日本人の)心の原風景」を呼び起こすことになるかもしれません。

冬黎明の景色

 手袋をはめた手がかじかんでしまう久々の凍れ。今回は美瑛から富良野の空知川までの山道、丘陵をめぐってきました。やはり未明での西の空が色づくのがいい感じだと思いました。日の出方角の色もいいですが、光が厚い空気層を通過して醸し出すピンク色がいい感じでした。

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 「 Moment of  prayer 」と題してみました。最近はこんな色彩やシンプルなものに心が惹かれます。
祈りたくなるような瞬間という感じですが、天地の境目のラインあたりから精霊が現れるのではないかという錯覚さえ感じる時でした。
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