PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

写真についての個人的なメモです!

写真技術 『風景写真』 構図他(1)

美瑛のフレーミング考

 フレーミングや構図を考える場合、被写体によって,考え方が異なるように思います。
 特に、風景写真、私のような美瑛の田園や自然風景の場合は、「主役、脇役、背景」という考え方では収まらない感じがします。
 その1つに、一般的な写真構図での「背景そのものが主役」になることもあるからです。撮影の中では、珍しい自然現象(虹、白虹、日輪、印象的な朝焼けや夕焼け…など)がそれにあたります。しかし、これも被写体としてはありきたりになることもあって、それがどんな場所で起きたのか、つまり、脇役としての地形、森や木などが重要になります。しかし、これも、虹などを大幅にカットして特徴的な地形をクローズアップすれば、虹が脇役となります。要は、主役を何にするか?でしょうか。 
 2つ目は、「前にある背景」という考えです。私の好きな光景に朝霧と朝陽の光景があります。これは色づいた霧が覆いかぶさったり、全面を覆うこともありますので、画像全体の基調となり、景色の前にある背景となる考えています。冬の雪の景色もそうでしょうか。そうなると、丘の曲線の重なりや森などの配置を考えてフレーミングしていきます。ときには大雪山連峰と朝陽もいれますので、手前の丘や朝陽が脇役、空が背景となるようなこともあるのでしょうか。
 この点はすこし欲張りで、「写真はマイナス(減点:余分なものをそぎ落とす)」というセオリーからははずれるのでしょうね。美瑛の美馬牛小学校の三角屋根を入れる場合は、明らかに脇役的な位置づけになりますが、主役は丘や森、林の重なりでしょうか。
 さて、上記のような風景写真ですが、「主役、脇役、背景」という構図の考え方以外に、「前景、中景、遠景」という観点もあるかと思います。また、前田真三氏の写真を分析された某氏は、「近景、中・遠景、背景」というのを提示しています。いずれにしても、遠近感、スケール感を感じてもらうには不可欠です。花撮影主体から風景に写ったのも、この感じが何とも言えないということもあります。最近では、横構図の切り取りも、現像時に16:9のアスペクト比にすることも多くなりました。これも、スケール感ですね。
 美瑛の丘を撮影する際は、丘の横のライン、そのラインの重なり、そして、点在する樹木などが多く見かけられるので、縦の三分割(四分割)が基本的なものでしょうか。

写真考 上達への構想(4)

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  この構想の最終章。1000とか、10000とかという数字の点。あまり根拠はないのですが、何ごとも「一万時間」の学習でプロ並みになれるとのことからきたもの。目標として、到達内容と努力期間の設定が必要と考えたのである。
 もし、1日4時間を写真のために使えば、2500日。全部が撮影になるというのは非現実的なので、撮影、現像、勉強、他の作品鑑賞…ということになる。毎日も無理かもしれないので、約10年近くということになるだろうか。1000というのは、その1万が長いのでショートスパンにしてみた。1000日は単純に約3年である。週末2日で行くと、年間100日は目標にでかけるということである。撮影のみで1000時間となると、毎週末2日間では、カメラを持って実質撮影しているのが2時間として、年間約100時間で、トータル10年という、ざる計算である。撮影間数1万枚というのもありますが、プロに聞いたら、修行中は1日4,500枚、ひと月に1万枚は越えたそうです。我々素人だと、いや私だと、一日中撮るわけでもありませんので、撮影日1回で100枚程度。年間で、4,5000枚でしょうか。1万枚は、3年はかかるかもしれません。枚数だけでは、上手くなるとはかぎりませんが、とにかく撮ることが上達の条件の1つといいます。いいと思って撮ったのに、後で見ると良くないということがよくありました。今もそんな状況が多いですが、少しは、写真としてのイメージを想定できるようになりました。自分にとって、その光景がフォトジェニックかどうかという見方や好みが定まってきたのかもしれません。撮影後は、パソコン前に座っていつも見直します。そして、フレーミングや構図、色彩…、そして、ホワイトバランス等を反省するわけです。RAW現像ソフトで何とかなるかなと処理してみることもありますので、ソフトの使い方も重要でしょう。
 今年9月で、SNSでの投稿開始後、約1000日を迎えます。まだ消化不足もありますが、学んだことをまとめようと新たなブログを始めました。それも、その1000日を迎える準備でもあり、再スタートにしたいという思いからです。週末カメラマンですので、いい自然条件と風景との出合は、極めて少ないですが、せっかくの光景を見逃さない、撮り逃さないためにも、上達は必須との思いです。
 

写真考 上達への構想(3)

   「感性領域」の枠外の「仏教的思想・自然観」について。
 特に仏教に詳しいわけでもないが、いずれお世話になる身としては、少しばかりの理解はと思って,流し読みしている程度である。その中で、自然そのものが仏であるというような言葉に惹かれます。これは、以前に書いた「写真考(2)…声?」が、写真と仏教的なものとのきっかけです。写真と言うよりも、自然との関わり方、心構えのようなものでしょうか。
 自然は、私に安堵感、安らぎを感じます。また、時には荘厳さ、威厳。ちっぽけな存在の私ではあるが、そんな光景を与えてくれる自然への感謝も感じることがあります。これが一体何を意味しているのか。まだ、都市に住む前の、幼児期の田舎の原風景、テレビもない、ゲームもない児童期での自然遊びからなどの自然観なのか。きっとそんなことも合わさって、仏教の自然感にも親しみを覚えるのかもしれない。

 まずは、プロの写真家の言葉から。
 在米写真作家に小池キヨミチという作家がいます。少し長くなりますが。
 「写真には構図というものがあります。写真を教える形には、心理的に安定したバランスの割合を考慮したものがありますし、ともかく足元から遠方までシャープに焦点を合わせたものがいいと教えることもあります。写真の「基礎」と呼ばれる項目の中に入るものですが、実際の撮影にそれらよりも必要なものが感性であると思います。それは被写体が何であれ自然体で接することによって研ぎ澄まされるものです。自然は私たちが知っていると思っている以上に強大であり無限の力を私たちに与えています。何よりも、私たちはその一部でしかないという認識を強く持たなければいけないでしょう。」
  この小池氏の言葉に感銘を受けました。氏はそれこそアメリカの大砂漠に魅せられて、全くの自然を撮っているのですが、そんな砂漠に感性を育てられ他と同時に、自然の一部であるとの認識をもちなさいと言われるのです。
 これを仏教的思想と結びつけるのは、氏は心外かもしれませんが、私はその臭いを感じるのです。

・「渓声便是広長舌」(けいせいすなわちこれこうちょうぜつ)
 渓谷の渓という字ですが、これには自然の野や山々という意味があります。その声ということですので、風も含まれるかもしれませんが、その姿すら、仏の教えであるとの文意です。
・「一切衆生悉有仏性」(いっさい しゅじょう しつう ぶっしょう)
 この文言は、仏教では、万物に仏性やどる、とか、仏になる資格があると解されています。全てのものに無駄なものはないということです。
・「圓光獨露」(えんこうどくろ)
 これも、似たような文意です。「圓光」とはその大光明のことであり、「獨露」とはそれぞれが力いっぱい己のすべてを露わに輝きださせているさまをいう語句です。すなわち、天地一切の事物は、ことごとく仏のあらわれであり、真理の現れで、それは悟りの眼をもってみれば山川草木、森羅万象一切が宇宙の大生命の現れであり、それぞれが仏の智慧や徳を表し、それぞれが大光明を放っているのだと解されます。

 自然からの安堵感や安らぎは、ひょっとして仏性に触れることかもしれません。荘厳さ、威厳も、アニミズムのような精神的雰囲気をあたえるのでしょうか。
 仏教は人がつくり?悩み、たどり着いた心の解放とすれば、己の心持ち、思想のもちようと実践で、外界と己が変わるということであれば、自然風景撮影には重要な要素となるかもしれない、と思っている訳です。

 「ネイチャーフォトは宝探し」という、米美智子氏が語っているフレーズがあります。宝探しのように丁寧に自然を見つめることによって、素敵な被写体が見つかるという意味でしょうか。写真を撮ってやろうという意識では、人間的な欲かもしれませんが、美の再発見ということでは、仏性の発見といったら言い過ぎでしょうか。
 
 既に肉体的な盛りを過ぎ、それとともに精神的な高まりや感性の再生などができれば、私にとって写真とは、大きな存在である。

シャーベットの青い池

シャーベットの青い池

 昨年の写真。初雪は逃したが、まだ完全に凍結しない北海道美瑛の青い池。
まだ水の青さが見える。そして、遠景の中に、白い衣の達磨の姿が見えた。  

写真考 上達への構想(2)

麦丘の朝4
  <夏の朝霧>

 「技術領域」:これは写真やカメラ機能等の知識と技能の領域である。RAW現像を含めるとソフトでの処理や調整・加工技術も入る。ホワイトバランス補正、露出補正、測光方式などの知識や仕上がりの違いの理解、素早く設定できる熟練が不可欠である。構図については基本的なことは一通り学んでおいた方がいいかもしれない。「基本的、一通り」というのは、これも感性領域にもなるかもしれないと思っているからである。
 フレーミングという言葉もある。同義でも構わないが、「被写体をどのように切り撮るか」、「被写体を切り取る範囲」で画角やアングルでどこをどのように切りとるかとういうこと。構図とは、フレーミングで切り取った範囲の中で、被写体の主役や脇役、背景等を「どのようにフレームの中に配置するか」という最終調整と理解してもいいかもしれない。
 これらフレーミングや構図の点では、肉眼で,撮りたい被写体を決めたり、ファインダーを覗いた瞬間から課題となってくるものである。画角やアングル、主なものの配置など、常になやましいことでもある(プロは恐らく肉眼段階から決めているかもしれない…)。
やはり、いいと言われる作品を見て考え、海面下の氷山として蓄積しておくべきことと考えている。

 「作品領域」:これは、出来上がった写真そのものとして鑑賞に値するのか、独りよがりではないかどうか、自己評価できるものをもっていたいとの考えから設定したものである。写真は芸術か?と論議になったこともあるそうである。あくまでも現実の記録ではあるが、なにがしらの美や感動、感慨といった情感を感じさせたり(共感性)、そこから思惟、思想とまではいかなくても何かを語ることも可能(物語性)なのが写真であろうと思う。カメラ設定、調整・加工(色彩、露出等)からも、見た目ではない、写真なりの表現性もあるだろうか。そして、私などは、美瑛を被写体としているのであるが、故前田氏が既に撮り始めて30数年、そして、その後も多くのプロやアマチュアにも撮られている光景ではあるが、なにがしら個性をもちたいものと思っている。相手は成長する作物と,偶然の自然現象と自然である。撮影回数を増やし、特色ある光景に出会うしかないだろう。つまり,通い続けること。出合いを多くすることが大切であろうと考える。 
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