PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

感性

写真についての個人的なメモです!

エッセンス 再来3 「view」から「scene」へ

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 前回は「view」と「scene」の相違を書いてみました。「view」の見ると言っても、人それぞれが違うこと。そしてここそれぞれの経験で被写体として狙いをつけて選択的、抽出的に見るというのが「view」です。「scene」は、肉眼での選択や抽出がなされ写真としておさめようとする意思のある光景となります。
 

「view」から「scene」へ 

 そこで、「view」から「scene」として候補をあげたり、カメラを構えたりする契機になるものは何なのかということが問題になります。ここでは「美」ということで絞りますが、その解釈は様々、感じ方も様々です。

 しかし、人はその「美」に出会ったり、見つけたときに立ち止まったり、それを残したいと感じるでしょうし、カメラを構えると思います。それは、経験のない「美」。理想とする写真やそれに近い「美」に直面した場合。あるいは、それらが期待できる場合などがあります。経験のない美とはいって、個人的になのか、写真集やWebサイトでも見たことのない希有なものも含まれています。
 理想とする美についても、実際に具体的な写真を見ているか、自分で描いたイメージて的なものかというのもあります。期待の美ということであれば、風景では天候、光の変化の読み・予測の中、動物にしてもその動物の特性などへの知識で行動を読むことで、経験のない「美」や理想の「美」に巡り合う可能性を予測してのものです。こうなると写真の経験と思い・理想といったものが写真撮影のベースとなります。
 さらに、テーマということでは、「光」となれば景色よりも、光の変化が主になりますので、あえてゴールデンアワーを除けば、1つは影との対比というのが絞られます。雲間から漏れる光が地上のあるものを照らしたり、彩雲、虹のようなものになりそうです。美瑛でも田園の光景となれば、農家の人や農機具なども入れた写真や農家の人の手が加わったと分かる干し草ロールやニオ積みの写真も考えられます。このようにテーマがあれば、それらに合った被写体が中心になります。最近モノクロが多くなりましたが、これも表現上でのテーマの1つであろうと思います。これらを1つというよりも、いくつももっていてその都度切り替えているのではないかとも思っています。

  上記に書いた以外もあるかもしれませんが、おそらくそれらを合わせたもので「view」から「scene」へと移っていると考えます。「無言による高速の思考・判断」「写真としての高速の価値・意味、解釈」を行っているとすれば、論理を超えた論理で、あるいは、撮影者の感動や新たな発見なども加わってシャッターが切られるということになれば、もう「感性」としか言いようがないものでしょう。 

 さらに。選択といえば、ありがままに選ぶということですが、どうもそれだけではない感じがします。この点については前回で「抽出」という言葉に触れました。

 最近、心象的な写真にも触れることができ、表現的には「ありのまま」の肉眼の光景から違うようなものをまさに「抽出」しているような感じなのです。

 固体であるコーヒー豆からコーヒーという液体を抽出するかのように。多くの統計上のデータから特定のデータを選んで新たな分析結果を生むように。そうしたこともイメージできるような力をもって「scene」を見つけていたり、「scene」を判断したり吟味したりしているのではないかと思うのです。
写真家個々のこの辺りの説明、解説、自己分析が公表されることは少ないし、謎めいたことでいいのかもしれないということ、さらに個性的でオリジナリティに関わることなので、曖昧な「感性」と言っているのかもしれません。

 この辺りは、1人の写真家の変遷や師弟関係、感化された作品などを追っていくことで探っていくことができるのではないかと思っているところですが、それなら写真を撮れ、いい作品に触れろと言われそうです。

フォトジェニック

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 麦成長 やや黄緑がかった穂が印象的だった 赤い屋根の小屋で 

 美瑛とその周辺の自然・田園風景にすっかりはまってしまって数年。自分にとっては,まだ,未開な地区や未知の光景がありますが,日の出時刻がもっとも早いこの時期と,天候の悪さには少々まいってしまいます。
 
 美瑛を走り回る時は、太陽の位置や曇、畑などの様子を見ながら被写体を探しています。写真になるかならないか 、あるいは、記録として撮っておくかおかないか、などを評価・判断していることになります。とっさの評価・判断ということですので、ある意味「感性的」であるかもしれません。しかし、この数年で少し変わってきていることから、いろいろな写真を見たり、写真についての学習の経験、あるいは、自分が写してみたい光景への願望などがその変化の底にあるのではないかと思うようになっています。感性を磨いているのかどうかは別として、少なくても、自分なりのものになっているのではないかと思っています。
 感性は直感的、無意識的だと言いますが、興味・関心で変わる、磨かれる可能性を持っているということだと思います。またたまに、ドキュメンタリー系の写真も見ますが、ある問題点、思想などの意図・意思のもとに撮影するわけですから、被写体の範囲を限定したり、その渦中に撮影者が入り込み、思考していくときには、感性をより鋭敏にしていくことができるような印象を持っています。何かにこだわって撮影することも大切ではないかと思います。この辺に、テーマを持って撮影するという意義もあるかのように思うのです。

 さて、写真撮影の評価・判断としては 、いい被写体かどうか、別なことでは、自分にとって「フォトジェニック」かどうかに関わっています。
 その言葉は「写真写りがいい、写真に適している」という意味です。前回に書いたように、その1つが、「光のあり方」で、順光よりは斜光、逆光、スポットライト。そして、朝焼けやブルーアワーなどの色のある光がいいと思っています。

 さらに付け加えていきます。感性的にという点では、やはり自分が美しいと感動する感情や情緒的なものとなります。
 実はこれが難しいです。美的感覚は、必ずしも万人が美しいと思うものに限りません。退廃とか枯れていくさいの美というのもあります。共感性と共に、個人個人独自なもの、社会文化的なものもあると思います。個人的には、強い色彩のない、地味で曖昧な霧の風景も美しいと感じています。
 また、美瑛に通っていて時々目にする廃屋が気になってい流のですが、まだ、写真として切り取る時期ではないような感覚で、ある種の感情や情緒ではありながらも、意図や思想というのが必要なのかもしれないと感じています。時期尚早なのか、取りきれない被写体なのかもしれません。

 こうした点では、感情や情緒的な面以外では、意図や思想的な背景もまた、フォトジェニックなものを決める大枠があるのかもしれません。私が言うテーマやコンセプトは、そこまではいかないとしても、全くの感性的でその場その場の感情や情緒的な撮影よりも、ほんの少し意図的であればと思うのです。今年は雪解け期も撮影したり、春からの天候も芳しくない時期に、トラクターを撮影することが多くなりました。美瑛の丘というものは、農家の人たちが作り上げたものという認識や、その営みがあってこその田園光景という事での「感謝」をも含めて撮影していることです。もちろん、これも偶然に出会うことですので、必ずしもいいものが撮れるというものでもなく、今のフォトジェニック感覚から言うと、畝の鮮やかな模様や逆光というのがベストとなっています。

 感性が直感的、情緒的でありながらも、それが、興味・関心と関わり、意図・思想的な面かも変わりうるのではないか。それによって、フォトジェニックな物への視点が深まったり、広がったりして、被写体についての感受性のアンテナが良くなり、気づきがよくなり 、見つけ出す力も高まるのではないかと思います。感性的なこともあり、まだまだ「自分のフォトジェニック」は理解不足だと思いますが、撮影とともに現像もしながら、さらに考えることで、徐々に補われてくるのではないかと思っています。 
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