Tree8(初雪の朝)_ks

  2014.11      この年の初雪の撮影は遅かった

  被写体というよりも「愛おしき1つの世界」であった、と単なる被写体ではないことと訂正しておきたい気分です。…今回の「哲学の木の喪失」で、そう思いつきました。まだ「思い至る」ではありませんが…。

 写真をやると、いつも見慣れているものが、新たな表情を見せてくれるようになります。そして、時には今まで気付かなかった物や事象の発見に、驚いたり、感心したりと、新たな世界が拓けてきます。ありがたいことです。ちょっとした宝物を見つけたような感じとなります。そして、そのうちに新たな光景に出合うことも多くなり、宝物が増えてきます。写真の喜びも見いだしていくのでしょうか。
 そして、私の場合は、写真をやっていくうちに、電線や人家などの人工物はできるだけ少なくという中でシャッターをきるという、フレーミングの仕方のきまりのようなものを意識するようになってきました。これは、どんな光景でも写真にするというのではなく、自分にとって何がフォトジェニックなのかを判断しているのです。

 そして、さらに進むと、やはり人とは違ったものを撮りたいと思うようになります。個性的?独創的?希少価値?‥といった「秘宝」を自分のものにしたいという思いでしょうか。ひょっとしたらこの辺りにマナー違反への小さな芽があるような感じがします。私の場合は、「秘宝」が天候・気象条件にあること、著名な木は、背景や前景との一体感や、大地に立つ特徴的な形状としての準主役や脇役として撮影していますので、接近してという発想にはなりません。ここで私のマナー遵守の考えを書くつもりはありませんが、公道から人の家の庭の花を撮るのさえ気が引けます。
 畑への侵入へと至らしめるものは、それまでの生き方の中にあった違反行為の蓄積や、自分勝手さ、なのかと思っています。特にいいカメラを持った中高年には、注意しても、逆ギレされることもあるらしいと聞きます。そのマナー違反のカメラマンにとっては、決して撮影の哲学?美学?もなく、「愛おしさ」からは遠く離れた感覚から撮影しているのだと思います。
 最後です。「哲学の木」は、私にとって写真の技術や表現を向上させるものとしての存在だったということも付け加えておきたかったことです。「哲学の木の喪失」は、写真には写らないであろうカメラマンの「哲学」をもって撮影することの大事さを示唆しているものとも思います。