PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

哲学の木

写真についての個人的なメモです!

偲ぶ

 2016年2月24日に伐採された「哲学の木」。夕焼け雲が出て夢中で撮ったのを記憶しています。1日遅れですが、モノクロで偲びたいと思います。

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 美瑛も少しずつ撮影スポットがなくなったりして姿を変えています。  

だたの「被写体」である訳がない

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  2014.11      この年の初雪の撮影は遅かった

  被写体というよりも「愛おしき1つの世界」であった、と単なる被写体ではないことと訂正しておきたい気分です。…今回の「哲学の木の喪失」で、そう思いつきました。まだ「思い至る」ではありませんが…。

 写真をやると、いつも見慣れているものが、新たな表情を見せてくれるようになります。そして、時には今まで気付かなかった物や事象の発見に、驚いたり、感心したりと、新たな世界が拓けてきます。ありがたいことです。ちょっとした宝物を見つけたような感じとなります。そして、そのうちに新たな光景に出合うことも多くなり、宝物が増えてきます。写真の喜びも見いだしていくのでしょうか。
 そして、私の場合は、写真をやっていくうちに、電線や人家などの人工物はできるだけ少なくという中でシャッターをきるという、フレーミングの仕方のきまりのようなものを意識するようになってきました。これは、どんな光景でも写真にするというのではなく、自分にとって何がフォトジェニックなのかを判断しているのです。

 そして、さらに進むと、やはり人とは違ったものを撮りたいと思うようになります。個性的?独創的?希少価値?‥といった「秘宝」を自分のものにしたいという思いでしょうか。ひょっとしたらこの辺りにマナー違反への小さな芽があるような感じがします。私の場合は、「秘宝」が天候・気象条件にあること、著名な木は、背景や前景との一体感や、大地に立つ特徴的な形状としての準主役や脇役として撮影していますので、接近してという発想にはなりません。ここで私のマナー遵守の考えを書くつもりはありませんが、公道から人の家の庭の花を撮るのさえ気が引けます。
 畑への侵入へと至らしめるものは、それまでの生き方の中にあった違反行為の蓄積や、自分勝手さ、なのかと思っています。特にいいカメラを持った中高年には、注意しても、逆ギレされることもあるらしいと聞きます。そのマナー違反のカメラマンにとっては、決して撮影の哲学?美学?もなく、「愛おしさ」からは遠く離れた感覚から撮影しているのだと思います。
 最後です。「哲学の木」は、私にとって写真の技術や表現を向上させるものとしての存在だったということも付け加えておきたかったことです。「哲学の木の喪失」は、写真には写らないであろうカメラマンの「哲学」をもって撮影することの大事さを示唆しているものとも思います。

追憶 「被写体」への喪失感

追憶 哲学の木ss

 在りし日の「哲学の木」 2014.6.3   夕陽と綿毛と‥

   かなりショックをうけました。「哲学の木」が伐採されてこの世からなくなりました。美瑛でも有名な木だけに、NHKのNewsWEBや、地元の北海道新聞や朝日新聞のWeb版でも紹介されました。また、地元のプロ写真家のブログやその他のブログにも記載されています。ありがとう、残念というファンもいるようです。
  さらに、これを機に「マナー違反撲滅」へとアクションを強めようとする方もおられるようです。マナー違反は深刻な問題となっています。「哲学の木の伐採」を機にひょっとして他の木も伐採されていくような悪夢が起こらないとも限らないという危機感です。マナー違反とは書きましたが、実際は軽犯罪法違反にも該当するとのことです(後述)。
 これは何も内外の観光客だけではなく、プロやアマのカマラマンも含まれていることや、我関せず?の観光バス会社(運転手や添乗員)も関係しているらしいとのことです。

 この件で、昔、読んだ本を思い出しました。「大きな木(原作名 The Giving Tree)」という童話なんですが。確か‥、リンゴの木と人間の物語で、幼少期から仲良しで、その子が大きくなり自立するにつれて、お金や家がほしいとねだると、その木が、リンゴを持って行って売りなさいとか、枝を持って行って家を建てなさい、幹を切って船にしなさいと与えて、切り株だけになるんです。そして、年老いて帰ってきたその子に、切り株に座りなさいというような物語です。哲学の木が与えてくれたものは、何だったのかと思いました。また、こうして思いを巡らせていると、写真をやり始める前は、木への愛着なんて思ってもみなかったことで、特に撮影禁止になっても横目で見ながら、いつか撮影できるかなと期待をもっていただけに、一層愛着が蘇ったような気もしてなりません。
 喪失感とともに、自分にとっての美瑛の丘=被写体とは何なのかと改めて考える契機となることでしょう。また、こうしたことがあると、写真としての意義の1つである「記録」という観点からも、美瑛の丘の移り変わりの一時期を残すことにも意味があるのかもしれないということも‥。

 愛着‥。 自分を信じてくれる、認めてくれる、見守ってくれる、わかってくれる、安らぎを与えてくれる、安心していられる‥ような「存在」との情感。それは人でも、物でも、または、事象でもいいのではないでしょうか。

 ※ 軽犯罪法には、その1条32項で、住居を取り囲んでいない土地、たとえば田畑や駐車場や空き地(空き地だが私有地)に侵入した場合は、法違反になるとあります。軽犯罪法違反の刑罰は、「拘留又は科料」です。「拘留」という刑罰は、刑法16条に規定されていて、「拘留は、1日以上30日未満とし、刑事施設に拘置する。」となっています。30日未満ですから、最長で29日間となります。「科料」というのは、刑法17条に規定されていて、「科料は、千円以上一万円未満とする。」となっています。理屈上は最大額は9999円。
 軽犯罪法違反では、住居不定だったり出頭に応じないなどの事情がない限り、基本的に逮捕などの身柄拘束をされることはないが、出頭拒否を続けていると、逮捕状を用意して強制連行となる可能性があり、その後は身柄を拘束されての調書作成、その後送検と同時に釈放となり、後日検察庁から呼び出されて、略式起訴となり軽犯罪法違反による科料を納付すれば全て終わりといった経過を取るらしいです。ただ軽犯法とはいえ身柄を拘束されることで、職業によっては解雇等のダメージを負うことも多いので、その意味で注意が必要とのこと。本当に弁護士に依頼する気が無いのであれば、早めに出頭することで、たかだか軽犯法違反と言うこともあり、悪くても調書~書類送検~略式起訴で済み、身柄の拘束の可能性はほとんど無いとのこと。
  さらに、「拘留・科料しかない犯罪」では、特別の規定がない限り、幇助犯・教唆犯(従犯)は処罰されない(刑法64条)。しかし、この軽犯罪法は、これらの従犯を「正犯に準ずる」(第3条)と定めるので、従犯も処罰の対象になるとのことです。 ‥外国人となるとむずかしいような感じです。
 張り紙・立て看、注意喚起、実際の注意‥。なかなか聞き入れない・逆ギレ・罵倒‥。農作業の中断・妨害・病原体侵入の不安‥。観光業・商店はもうかっても、農家さんには実害と我慢しかないのでしょうか。 

さよなら哲学の木

White season

 在りし日の「哲学の木」 2014年12月撮影

 本日、哲学の木が伐採されたようです。伐採についての詳細は、写真家中西氏の「 さよなら哲学の木」http://northernworks.jugem.jp/をお読みください。昨年に「撮影禁止」になってから、「古木としての倒木の危険性」があることも知らずに、その解除を待っていたのですが、大変残念なことです。これは東側からの撮影で、夕焼けでの撮影も綺麗でした。夜間飛行の光跡もあるどなたかの写真も印象的でした。いろいろな条件で楽しむことができるかなと、ビルケの森や青い池撮影の帰り道には通って車窓から眺めていたのを思い出します。もうそれがない!というのも寂しいです。追悼の思いを込めて今回掲載しました。「合掌…」

 美瑛は、丘の町として観光も重要な産業となっています。そして、そのほとんどは私有地・農地ですが、そこに立ち入って写真を撮る観光客やカメラマン、ゴミを泣け捨てる者がいて問題となっています。車での巡回パトロールや観光シーズン前にはゴミ拾いもおこなっていますが、あとを絶たないようです。哲学の木もこうした中での「撮影禁止」でしたので、話題ともなりました。今回の伐採についても、いろいろな噂や誇張などがでるということで、中西氏が地主さんの許可もいただいて上記に書かれたとのことです。
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