PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

写真

冬の低い雲

浮遊3

 朝焼けと雲

 マイナス15℃以下なのに霧氷もなく、もちろんダイヤモンドダストの発生もないだろということで、上富良野で日の出を待ちました。日の出前はこのような様子もなく、工場からの水蒸気(おそらく)の雲の下にわずかな雲があっただけでした。したがって、朝焼けの光を浴びる雪原の様子を撮りながら移動していくと、にわかに低い雲が発生しだして、ご覧ような光景となりました。地上の水蒸気が少なくても少し上の方にはたくさんあったのかと思われます。このような現象も初めてながら、朝焼け色にうごめくような雲の撮影は初めてでした。もっとダイナミックなものも撮りましたので、次回以降に載せたいと思います。

肉眼と写真 ボケ

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 肉眼と写真(レンズ)の違い

 日本人だと,鳥の声を認識する脳の部分が西洋人と異なるとか,色彩感覚が違うなどと言われているようです。また,ネットなどを見ていると,浮世絵以前などの日本の古い描画方法では,日本独自の空間認識があったようなことも書いてあります。つまり,西洋画的な遠近法ではないということす。読んだ中では,遠近法といういうのは風景と観察者との対峙姿勢が見られ,観察者の主体性が強調されているそうです。しかし,遠近法を取らなかった日本では,対峙ではなくて融合的であるとしています。自然との融合,一体感というのが特徴だと書いてありました。空間認識にも日本人の特性があるということです。

 写真界では,「ボケ」については日本人が好む表現のようですが,今では世界に広がり,そのままボケで通じるそうです。ということで,今回載せた画像の左側がそうなります。

 これは肉眼での視野と実際に確実に見ることができる範囲を示したものです。普通に風景を見るときには,肉眼では広い視野をもっていても,眼球の構造的には,一点しか鮮明に見える箇所がないそうです。それが中心窩というところだそうです。大きさでは1.8mm程度で,網膜と一括して言っている一部なのですが,これ以外の場所では毛細血管を通しての映像ということでボケているそうです。肉眼に忠実であるならば,ボケがごく自然ということになりそうです。
 ところが,これをあまり意識してはいなく,なんとなく全部が鮮明に見えるようにしているのは,目を細く動かしたりして,見えたものを脳で合成するようにして見させるからといいます。従って,しっかり見るとなると,一点に絞られますので,周囲はボケているというのが,肉眼でのピントのあう部分と周辺のボケというのが,ごく自然であるということができます。
 妙な話かもしれませんが,これに縄文時代以後の稲作文化をみると,獲物を探して視点を絶えず動かす狩人の見方から,稲を植えたり,その成長を見て刈り込んでいく作業には,凝視,あるいはゆっくりとした視点の移動でよかったのかもしれません。さらに,ボケということでは,何か自然に包まれているような感覚があったのかもしれません。ボケというのは古くからあり,自然との一体感というも堂ようだったのかもと曲解しています。西洋的なものとしては,砂漠や乾燥地帯発生の宗教ですので,日本の縄文時代よりも厳しい環境ですので,絶えず水や獲物を探す,危険から逃れるというものの見た方,あるいは自然と対峙する姿勢かと思われます。従って,ボケは死を意味することだったかもしれません。これも曲解です。

 さて,こうなれば肉眼の特徴が分かったわけですので,写真との比較になります。
 レンズも古いものは周辺の解像度が悪かったようですし,周辺光量が減るという問題もあったようで,肉眼に近かったかもしれません。そして,それらを解決すべく技術革新が行われてきています。周辺光量を減らさない,かつ,解像度,鮮明度も落ちないようにと進化しています。
 レンズ・カメラでは,絞りによる被写界深度がありますから,ピント的には上図のように面的なものになるかと思いますし,パンフォーカスとなると全面にピントが合っている状態となります。
 風景ではほとんどがパンフォーカスとされていますので,全面的に鮮明さが求められています。こうしてみると,写真というのは基本的には,肉眼での見え方とは異なるということですので、脳で合成されたような、ある意味理想の映像ということになるかと思います。
 さらに,別な面からは,鑑賞者が,写真での風景をみるときに,パンフォーカスによって全面的に鮮明ですので,どの部分を見てもいいという自由さを与えているということも言えるかもしれません。全体的な見方による鑑賞や,部分的な鑑賞にも耐えうるというのがパンフォーカスで表現です。まあ,写真自体が小さければそのような意味は薄く、多少の誤差,ピントの甘さは許容範囲かもしれません。

 パンフォーカスということでは、以前に過焦点距離について書きましたので、そちらをごらんください。

写真とは? ‥性懲りもなく

写真の表現性
 写真をめぐる特徴 以前のものと少々違います

 また性懲りもなく,という感じですがお付き合いください。
 写真における「記録性」と「表現性」について考えているところですが,どうも境目をつけることができなくなりました。それは撮影者の意図もあるようですが,鑑賞者の判断にも関わってくるもので,記録としての写真と表現物である写真との「境目が揺れる」ということもあるからです。また,以前から述べているように,その記録性そのものに表現性を認めるということです。レンズやカメラの性能にまかせて撮ったとしても,現実世界を切り取ること自体に撮影者の意図が含まれるからで,その切り取り方,空間や時間の断片化の仕方で,より表現性があるかどうかが判断されるものかとも思います。また一方,レンズやカメラの性能の向上も,細部での描写力をもとに写実性を高める高画質化をめざしつつあり,それが記録性を高めて,表現力を高めようともしているようです。写真という領域では,写実性や記録性の向上と表現性の向上には深い関係があるかと思います。 そして,表現性の高いものは芸術性があると思いますが,そこまで述べることは,芸術素人ですので無理です。
 今回は,記録性も表現性に結びつけたのはそのような意味です。さらに,今回は絵画的な意味合いはないのですが,「描画性」というのを入れてみました。撮って出しという人もいるようですが,RAW撮影での現像・補正は,色彩や明暗,コントラスト等を変えますので,まさに描画的な行為です,さらに,カメラに内蔵する自動的な画像処理エンジンに任せるのではなくて,撮影者の考えと判断によって写真をつくる,仕上げるという創作的な行為になるのだと思います。例え,見た目に近づけるような現像であっても,画像データをもとに描画していくという作業になるかと思います。現像ソフトでの各スライダーは絵筆であるかもしれません。
 
  だた,「表現性が高い」とは,そうした現像処理の技術が高いということもあるかもしれませんが,写し撮られた被写体が何であり,どんな状況で,どのような状態が切り取られたのかということが,写実性(記録性)を基盤にする風景写真では重要かと思います。写し撮られたものを見た目に近づけたり,被写体や表現したい主題等をより引き立たせるような手段として表現方法がくるのだと思います。
風景写真では,表現方法・現像補正・修正が過度になると「嘘=虚映像」となったり,絵画のようになりますが,この境目についても個々の判断の範疇でしょうか。
  色彩を取り除いたモノクロという表現方法もありますが,どのような意味合いをもって,何を伝えるのに効果的なのでしょうか。これも写実性はありながらも,現実とは異なった一部「嘘」の「虚映像」になるのですが,そこから何をひきださせようとしているのでしょうか。はたまた,表現の方向性について考えているのですが,それは,写実性からくる「現実性・現実感という意味でのリアリティ」の追求であったり,モノクロに例えられるような「虚」から,被写体や写したかったものやこと,印象などの核心に触れるような,「本質性・真実性という意味でのリアリティ」の追求であるかもしれません。
 そうしたもろもろのことも知ってみたい,知っても写真は変わらないかもしれない,もしかして変わる? というような「写真についての思い」です。 
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