PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

写真考

写真についての個人的なメモです!

写真を読み解く3 主観と客観

 もう終わったかと思いましたが、「写真の評価」に関する論文がありましたので、まとめと評価の観点のみでも紹介したいと思います。

 前回までは、「読み解き」と言うことで、写真に何が写っているのかをまずよく見ることと、次に「なぜ」を自問し、それに自ら答えると言う「自答」する「自問自答」が解釈であることを仮定しました。あくまでも、自分の写真として読み解き、次の撮影に生かすような立場です。

 以下の内容は、2005年の日本写真学会誌に載った論文で、写真評価を観点別の数値評価と自由記入した文章から「評価観点」を抽出したそうです。(「写真作品の表現と評価」 矢 田 博 彦  Hirohiko YATA) 詳しくは https://www.jstage.jst.go.jp/article/photogrst1964/68/6/68_6_434/_pdf です。


 この論文からは、写真をめぐる評価の観点としては10数種類あって、主観的な要因が大きいものと、客観的な要因が大きいものに分けられるとしていること。私からも判断すると、主観的な写真の評価がかなりの比重を占めていることがわかります。その中でも私が客観的とした「画質」については、主観的な心理的要因であるとしているのが、私の修正点であることを考え直さなくてはならない点となりました(これは後に分析します)。また、「写真作品を見るとき、表現意図が写真の中に盛り込まれているかが最も重要である」こと。さらに「表現意図が享受者に理解されやすい」こと。「作品をより深く鑑賞するためには、写真についての鑑賞力や理解力が必要である」ことなどが結論づけられていました。

 自由記載から分けられた12の観点

 多いものから順に、「表現について」が最も多く、「画像の諧調性」と「画像の鮮鋭性(シャープ性)」「画像の粒状性」、「画像の画質」が次に来るそうです。 その他は「画面の構図」、「総合的な評 価 」、「 撮影の技術について」、「現像やプリントなどの処理技術について」。さらに 「好み」、「 興味」、「その他」となるとのことです。

 主観と客観 こうした分析からでもこの2つがあると分かった

「総合、表現、画質、撮影技術、好み」の5項目の評価は評価者の「主観」が大きく関係する「心理的因子」群であり、,「鮮鋭性、階調性、粒状性、処理技術」の4項目の評価は写真を「客観視」して評価する「心理物理的」評価群であるとしています。


 「画質の心理的因子(主観性)」については、客観としていましたが、どうも主観であるようです。
 そのあたりを理解するには…?。質の良さと漠然に言っても、工業製品であれば、仕上げの滑らかさが重要でもありますが、手にして持つものとすれば、その滑らかさは肌触りがよくていいようですが、保持力にはよくないと言うことが言えそうです。ツルツルの表面よりも、光沢がないマット仕上げの方がいいと言うこともあります。モノクロ画質の粒状性についても、客観的に粒子の大きさがわかりますが、どの程度が好みなのかは人それぞれでもあるし、作品の内容も関係するかもしれません。カラー写真だと、「荒れ」ていると判断するかもしれません。要は客観的に見えるものも、心理的主観的にはどう受け止めるかと言う点、「画質」と言うものが主観的な写真の良さを決める比重が大きいかもしれないと言うことです。いわば、工業製品よりも手作り品の不完全さや誤差、歪みなどが「味がある。趣向がある」として受け入れられるのと似ているようです。


 「表現」としてどんな内容が記載されていたかは不明ですが、知りたいところです。 

写真を読み解く2 主観と客観

 「読み解く」の「読む」を前回やりました。今回は「解く」です。解釈するという意味ですが、解釈の仕方にセオリーがあるのでしょうか。

 もう一度、振り返ると下の写真です。スクリーンショット 2021-03-16 17.40.19
 
 この写真を見てどんなものが写っているのかを見ました。
 セオリーとかハウツーはないようですが、「解く」というのですから「なぜ」が必要です。それは見た人が考え、答える(解く、解釈する、仮のでも構わない)のです。従って、人それぞれで主観的要素が出てきます。

 ここでは、具体的な解釈はなしにしますが、疑問だけを上げて見たいと思います。この疑問を持つことが大事だからです。

① まず、パッと出るのは、カラー時代なのになぜモノクロなのか? 
② <フレーミングで>左に草があるが、それを入れる必要があるのか、ないのか?
③ 同様に、右の山を稜線があがっていくところで切ったが、意味はあるのか?
④ 同様に、山と空を入れる必要はあるのか? 写真はマイナスなので、ない方が雪原も広くなり農家の方の散布する広さを感じることができるのではないか? また、農作業をもっと主体にするならば、噴煙もなしにして建物と農作業、雪面という構成でもいいのでは?
⑤ ③に関わって。そうすると暗い部分が多くなり、重い写真になるようなので、どうそれを補うのか? しかも、細かい模様が目立つようにもなるので、どうすればいいのか。
⑥ 少し傾いた三角形だが、ドカンとした大きな建築物に、動く煙と人の対比として捉えれば、傾いていてもいいのではないだろうか?
⑦ いよいよ、主題は何か?  
⑧ 主題はこれと考えたら。それなら、それが適切に表れるようなフレーミングはどのようなものか?
 モノクロでいいのか? カラーとしたらどうすれば良かったのか?
⑨ 撮影者の立場では、どうやると散布の場所が分かるのか?
 やはり望遠で、何mm を使っているのか? カメラ設定は?
 
などなど。 これ以外にもあるかと思いますが、結局は自問自答と言うのが解釈となります。

 第一印象よりも写っているものを、じっくり隅々まで見ること。
 そして、ここが大事ですが、自問自答なので、「自分が撮るならば、あるいは現像するならどうするか」という視点を持つことで、いわば「自分の写真」として見て解釈することが大事となります。

 結局、人の写真も自分のものとして見ていくときに、自分の写真が変わるであろう種子を育てることだと思うのです。

 「読み解く」とは言っても写真評論家になる(なれそうにもありませんが)のではなく、自分の写真向上や幅を広げるためにやるべきです。

 もし、いい被写体・モチーフの写真データがあれば、再現像してみてもいいかもしれません。私ならこうトリミングしこう現像してみるというのもありだと思うのです。

<内輪話 : 暗い・重いのは農家の人の「思い」「仕事・苦労」が積み重なっていくこと。しかし、休憩には山や空を見るだろうし、山の雲、空の雲で地元でしか分からない天気の読みもするかもしれない。プロならば2枚分の写真の主役があると言うかもしれません。あえて余分な噴煙や空を入れたのも、大地と常にむか合う農家の人々を背景とともに入れたかったのです。>

写真を読み解く1  主観と客観

 コロナ禍も異常な状況とは言え、過去の欧米並みなのかはどうなのでしょうか。北海道も「マン防」から「緊急事態宣言」へと移行しています。
 撮影の方も少し自粛ですね。

 以前はある作家の言葉から、「主観と客観」についてその方の考えを探ってみました。このシリーズでは、写真の「読み解き」「解釈」について書いたことがありますが、これも主観と客観という言葉で概要をとらえられるかと思い記載してみます。

 普通は写真を見慣れていても、写真家や写真を趣味とする人の写真についての見方はあまり分からないようです。
 妻は「ああ綺麗!」「こんなところあるの?」「こんな風に見えるの?」と印象を語るだけです。写真の構図などを説明して、こうした瞬間や動きながらこうした構図になるようにして撮っているとか話すと、少々驚くのです。私もまたそうでした。しかし、写真をやって作家の作品に触れる毎にどうして違うのかなどの疑問から、勉強し始めたというところです。

 さて、妻にもわかるようにと「写真の読み解き」方が説明できればいいかなという感じで書きます。


 写真の読み解き方 その1

<客観的情報を読む>

 先の「見た印象」はかなり重要だと思いますが、写真をよ~く観る場合は、そうした印象を横に置いておいて、写っているものを客観的に見ることから始めます。写真は平面的な視覚情報しかありませんので、そこに何が写っているのか、どんなものがあるのかを見ます。これは誰にでも捉えることができです。つまり、客観的情報を読み取ることができます。しかし、これも十人一応に同じとは限りません。経験や知識によります。それらの広さや深さによって捉える量や質がことなるかもしれませんし、それに鑑賞者の経験上で得た感情や感覚が合わされば独自なものさえ加わってくるものです。これは、視覚情報とは言え、人の脳内では様々なものとつながっているからです。まず、何が写っているのかさえ、共通項はありながらも広さや深さ、そのものへの感覚が異なるものもあるということです。
 
 さらには、写真内の物の位置や方向性などから、構図を読み取るとなると少し難しくなります。学ぶ機会がほとんどないからで当然です。しかし、そこには写真としての安定感や写っているもののバランスや、なぜ数ある撮影位置やアングル等の中でそれを選んで写したのかという構図的なもの、あるいはピントやボケがどうなっているかなどの撮影技術的なものを読み取ることができます。
 写真をやっていれば、使用したレンズが広角系かだとか、望遠系かも想像はできます。逆光なのに手前のものが明るければ、フラッシュライトを使ったか、現像で明るくしたかがわかります。

 カメラは現実をある程度忠実に写すものなので、共通項的な客観的な情報はそこから読み取ることができます。

 ・第一印象は抑えて… まず、何が写っているのかを見ます。
 ① 物の形や色彩、明暗。
  また、目立つもの、目立たないもの、前景・中景・遠景にあるものなど。
 ② 目立つものや写っているものが1つで背景がある場合は、背景も詳しくみます。2つ以上ととなる場合は、その大小や広さの違いを広いのかを見ます。
 ③ 撮影時刻や季節、天候を見る(あくまでも予想で)
 ④ 画質や諧調性を見る。
   
 ⑤ (構図的な見方として)
  目立つ物、あるいはメインな物でもサブな物ででも、それらがどう位置付けられているか。三角形や三角形の組み合わせになるかどうか。線や帯などの直線的な物や曲線的なものがあれば、その延長線上にあるもの物も見ます。1つの物をドンと撮っていても、まさに真ん中なのか、少しずらしているのかも見ます。これは、構図的な要素は複雑なものもあるようですが、それらが考慮されて撮られているかを見ます。
 ⑥ (写真の技術的、表現的なものとして)
   逆光・斜光・順光のどれか。広々とした広角系レンズかそれ以外か。シャッター時間を長くした長秒露光かどうか(ブレているようで一部はピントが合っている。雨が線になっている、雲が流れているのが分かる、など)。写真全体が暗いのか(ローキー)、極めて明るい色彩なのか(ハイキー)、モノクロかどうか。

 ①と② 特徴ある形や鮮やかな色彩、明るいものがあると目を引きます。1つの物を写した写真であればそれに目が行きます。2分割的な物だと鮮やかな色彩や明るい方か広い方に目がいきます。③は風景写真なので書きました。

 ③朝日か夕陽かは難しいですが、時刻は影があれば南天か午前・午後かは想像しますが、夜はわかります。季節的にはある程度分かるものもあれば、春と夏、夏と秋の境目は区別つきませんが、おおよそは分かると思います。①から③までを見れば、何が写っていて、何を中心に撮ろうとしたか分かることになります。

 ④ 画質とはピント具合や滑らかさ、粒状性(モノクロ等では新聞の写真のように粒が見える)などがどうか。諧調性と言うのは、グラデーションが滑らかどうかと言うことです。色補正を行い過ぎると崩れる場合があるのです。

 ⑤の「構図的な見方」は難しいですが、要は写っているものの全体的な安定感やバランスがいいかどうかということです。自然風景だと、日章旗のようにど真ん中もありますが、ややずらしているものもあります。よく3分割がいいと言います。水平線や地平線をどこに持っていくかということで、面積の多い方が主役、少ない方が脇役とも考えられます。これも、2分割や4分割のようにずらすのもあります。農作業やキツネが入ってきても3分割での交点においたりします。そうなるとバランスが悪いのなら、それなりの理由があるのかもしれません。

 ⑥の「技術的なもの」は写真をやる方でないと難しいかもしれませんが、写真をやっていればそうした読み方もできるということです。

例題:下のモノクロ写真で何が写っているか見てください。
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  大まかに見ると、暗い部分が丘で、あとは山と空です。目に付くのは、まず建物。それとその左にある人影2人と何かです。よく見ると乗り物で、何か作業をしているのがわかります。乗り物をよく見ると前輪がありませんし、後ろはキャタピラーです。乗り物は1台で、作業は協力してやっていることになります。人の上には煙のようなものがありますが、雲や霧でしょうか。山からは煙、噴煙があがっています。

 そこでもっと詳しく見ます。暗い大地は何か異様かもしれませんし、山も何か違います。山をよく見ると明るい部分が多いこと。そして、大地の表面からは細かな線状の起伏がたくさんあり、3条の光の曲線が横に走っています(反射)。それらを考えると「雪」の冬です。
 時刻となると、暗い大地と明るい山から見ます。山よりも暗い大地ですから、まだ光が十分にきていない状態です。また、よく見ると山の影が見えます。大地の暗さと影の角度からすると、朝方と言えます。
構図のようそしては、3分割で大地の方が多く占めています。主要なものは、建物、人、煙で三角関係です。もう少し右の方に移動すれば、二等辺三角形になったかもしれません。大地は左に傾いていますが、山は大体右にかたむています。大地の傾いている方には草や煙、3条の光がありますが、建物の下には少しスペースがあります。こうして見るとややバランスはあるでしょうか。フレーミングとしては、左は「草」、右は影のラインの上の稜線が上がるところ。上は空、下は3条の光の下となります。表現的にはモノクロ写真です。暗い部分は強調したかもしれません。
 ここまでが客観的に見えるものとそれから分かることです。見た物をまとめると、「晩冬の丘で、早朝に融雪剤を散布する光景の1つ」となります。

 融雪剤とかスノーモービルとなると、少々北国の畑作に詳しいということになります。

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                  <続きは次回にします>

画像の面積の大小で

 なかなかシンプルな景色は見つからないようで、望遠系レンズで景色を引き寄せて撮影することが多いです。また、それは写したいものを切り取る、焦点化するということでもあります。
 それだけ? の方法しかないのでしょうか? と、考えたときに、画面上での面積というものを考えてみました。写したいものを「大きく」ではなく、「広く」ということです。

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 写したいものを画面の3分の2以上、4分の3以上にすることです。上の場合は空が主役ですが、麦畑、ヒマワリ畑なども考えられます。脇役は面積を小さくということで、見せたいものを強調するということです。

 上の写真は、2つとも「Early morning sky」とタイトルを付けましたが、なんともはや芸のないタイトルです。憧れのダイブ=Wish for Divingとでもすればよかったかな。

写真のリアリティ

 連日猛暑日がつづいた天気もなくなり、朝晩は10℃台前半で、肌寒さを感じるようになりました。北海道は急速に秋を迎えそうな気配です。本州は雨で大変な地域もあるようで、今後の天候が心配です。

 さて、「写真におけるリアリティ」ですが、下記のようなことをウェブにあげてみました。

「明暗のある光景や立体感・奥行き感があるリアリティが欲しい。私は、現実そのものをリアリティとすべきではなく、現実未満か現実以上で、心の真実に近いものや、遥か過去か未来にあるべきものをリアルとしたいと模索しているのだが。作品におけるリアリティというのは、実は現実ではないということだから。」

 ふっと感じたことを書いてみたのですが、あとあと考えるとどう解釈していいものなのか自分でも難しいですね。

 現実を記録化するにはスチールカメラやビデオカメラが最適な道具です。しかし、肉眼には敵わないために、肉 眼に近づけるには、カメラの各種設定や現像による調整が必要です。しかし、現実と同じなら美術品の写真などと同じです。とは言っても、カメラ設定、照明等を厳密にしなければ現実を写し取ることはできませんし、肉眼のダイナミックレンジにはかなわないので、ある意味省略されていることがあるかもしれません。
 それに平面の二次元表現ですから、立体感や奥行き感がでればと思っています。基本的には、ホワイトバランスや色相、細部の明暗や色彩の調整がなければならないと考えています。基本的には、これでリアリティを創りあげようと試みているという感じです。これが1つ目のリアリティです。

 2つ目は例えば印象的なもの、心象的なものが合う光景としたら、ハイキーやローキー、あるいは、鮮明さを弱くしたりします。これが現実未満や現実を越えたリアリティです。霧の光景は鮮明さがないのでこれが基本なのかもしれません。現実以後というのは、タイトルSurfaceでの表現のことで、肉眼では捉えられない光の違いを顕わにしたものと言えるかもしれません。

 これも2つ目だろうと思っているのですが、遙か過去と未来へのリアリティです。遙か過去と言えば「郷愁」や「懐かしさ」と言った印象を与えるような表現、もしくは、それを意図した写真です。未来というのは、過去から未来へと続くような普遍的なもの、あるいは幻想的で時間を超えたものという方がわかりやすいでしょうか。

 リアリティは現実という意味もありますが、真実というのもあります。文学小説、私小説などはフィクションですが、何らかの真実が綴られていて我々を感動させるのに似ているのではないかと思います。肉眼よりも心で見たようなもの、感じたものを上手く表現できればと考え、とりあえずはこのような解釈をしてみました。

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麦畑という群にあっても、トラクターの轍とピントのあった箇所には個体の麦がきれいに描かれていて、その個体が幾百、幾千万…と集まっているのです。

 なぜ、このようなことを考えるかというと、テーマやコンセプト、被写体に関わることで、私の1つの解釈だからです。写真が氾濫する時代ですので、何か特異な考えを持って写真を撮らなければ個性が出ないかもしれないからです。奇抜な写真、色彩鮮やかな写真も一般受けはしそうですが、個人的なテーマやコンセプトで撮る写真が重要になってくると思われるのです。

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 これはnoteのタイトル画像にも使っていますが、本当にこの時間に雪原がこのように青いのか?と思うことがあります。写真の技術書でも、雪の冷たさを表現するには青味を加えるといいと言われています。これは見た目、カメラ映像よりも、感覚や印象を付け加えなさいということになります。実際、逆光気味なのでカメラでの雪原はもっと暗いことになります。肉眼でもやや暗い青です。それをこのように明るくし、雪原の凹凸もわかるように現像し、空の青との同調と夕焼け色との対比を試みたのです。これはもう現実ではありません。

チョイス (選択)

 フォトジェニックな光景に会えたとき、見つけたときに、どうフレーミングするか、画角はどうするか、構図的な要素があるかなどと考えます。そして、チョイスされたものを撮影します。さらに、自宅に戻って現像するときにも同じようなモチーフで撮ったグループの中でも、自分なりにいいものをチョイスします。今回は、これについてです。

 前回の朝焼けの2枚の件。これらはアングルをかえ、フレームをかえて撮影した20カット以上のなかからの2枚です。なぜ、この2枚がチョイスされ、他のはだめだったのか、少し考えてみたいと思います。しかしながら、撮影時からアングルやフレーミングがあるので、撮影時のことにも触れなければなりません。

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 ロケーション的には写真右が坂道で、ロールとの距離が近いこと。従って、道路脇の草や道路が入る可能性のある場所です。坂の下側では笠雲のかかった大雪山が見えないこと。十勝岳は入っても人工物が入ること、と言った状況です。従って、麦畑を広く撮れないことになります。また、オプタテシケ山というのもありますが、ロールの配置がイマイチでした。ボツになったものには、広さが感じられないもの、逆に広すぎて余計なものが入ったものがあります。画角が問題ということです。

 被写体の要素としては、ロール、大雪山の笠雲、夕焼け雲、そして、霧も入るという狙いです。朝焼け雲という自然現象と山、ロールの位置というのは動かせませんので、画角とアングル、フレーミングで工夫するしかありません。

・ロールの数や間隔をどうするのか。これは結構悩みますが、とりあえず撮影しました。。あるいは1つとした場合にどの位置に置くのかもです。 
・朝焼け雲も長さの違った幾筋もがあり、どこで区切るのか。大雪山の位置関係でどうフレームに入れるのか。

 などなど、解釈のための言葉にならいような自問自答を繰り返して撮影したものを現像でチョイスしていくのです。

 それでチョイスされたのが、上の2枚ということです。ロールのチョイスでは、上写真のような間のあるものと1個のロールがチョイス。ロールが複数のものは、面積的なものでやや同じぐらいか、右側の方が斜面の関係でも重そうな感じのものをチョイスしました。さらに、大雪山と笠雲が左側にあることからバランスや視線の移動でいい感じかと感じました。

 1個のロールのものは、始めから中央は考えませんでした。従って、縦位置3分の1分割です。しかも、大雪山連峰が左に向かって山の面積が増えるので、ロール配置は左側にしました。また、山が背景となるので、山の中に入れるのか、空部分も入れるのかなどが問題となります。そして、山のどこにするのかです。結論は上の写真ですが、山の中央に入れるというのもありでしょうが、これも笠雲の中央には不釣り合いと考えました。

 初めの写真では、ロールの大小によって麦畑の遠近感がわかります。そして、小さいロールの横には笠雲があり、さらに横に伸びたようないく筋もの朝焼けの雲たちという配置となります。構図的には大きいロールやトラクターの轍が左斜め上へと伸びて、山頂の笠雲と稜線、さらに4筋の雲へというラインが考えられます。
 1個ロールの場合は、丘とロールが暗く平面的ですので、朝焼けが主役です。ロールと丘がおもしい形の額縁の下という感じで表現してみました。

 そうなると、上の写真のロールと丘も少し暗くするとどうなるかも、試したいところです。 

  さて、こうした撮影や現像はほとんど無言の中で行うものでしょう。しかし、無言とは言え、思考は停止していません。むしろ、活性化して様々なことを考え、判断することの繰り返しでしょう。そこで、このように少しでも思い出して文字化することで、より思考、判断が鮮明になることと思うのです。そして、現像でチョイスすることで、自分にとって撮影時でのより適切な思考・判断を促すのではないかと確信しているのです。

シンプルさにエキスがあるのかも?

 写真は静止画であり平面表現です。色のないモノクロをみると非現実的な面もあります。モノクロは時代的・科学進歩の制約がありながらも当時は画期的なもので、カラー時代となってもその表現は好まれています。色彩を捨象したことによって、「光の明暗特性に基づくある真実が顕在化」されたからだと思うのです。肉眼的には非現実的なのですが、光の量=明暗差・濃淡だけで、ある種の現実や真実、真理を表しているとも考えられるのです。はたまた、肉眼では捉えられないものも表現することもあると思うのです。

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 投稿画像は以前にここで出したものですが、実にシンプルなものです。
 色彩は雪面の白と雲の影の淡い青です。2つの丘の重なりとよく見ると足跡があります。肉眼での広大な視野の中で、青い影が流れていく変化の状況だけが、私が注視した理由です。

 美瑛という撮影スポットの多い観光地ですが、「◯◯の木」「◯◯の丘」などと、有名な場所に拘らない撮影を試みていますが、そうした有名な場所から離れたところに風景写真の原型(エキス)があるのではないかとも考えています。こうしたことが場所にこだわらない撮影の1つの結果です。

現像は解釈と表現

久々の夕景撮影に。この場所はすでにクリシェですが。夕陽の光芒も見えて、雲の動きや強い光が射す場所だったことを思い出しました。

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 この丘には2本のポプラが立っていますが、生憎にもその中間に撮影者の車と人がげがあって、それを避けるように撮影することになりました。

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 夕陽のやや赤味がかった強い光が特徴です。アングルによってはレンズフレアーが発生し、日除け傘の出番となります。遥か遠くの大雪山連峰での日の出とは、違った光を地上にもたらします。もっとハイキーにすると「サンセット・ドリーム」というタイトルにできそうです。

 さて、今回はテーマとうに関わって、「解釈」についてのメモです。 

 デジタルカメラになって、光景は膨大な信号の集まりとなりました。光の量や色などの情報が規則正しく並べられ、RAWデータとして保存されます。
 データの基本は「0と1」ですから、フィルムのように画像として肉眼では見ることはできませんので、メーカー専用のカメラ内蔵のソフトウェアで変換して画像にしてから見るということになります。更に、カメラメーカー毎に、RAW形式も異なるのでカメラ内蔵のソフトも異なります。互換性はないということです。

 こうしたことを思うと、RAWデータはまるで公開された暗号のように捉えることができます。デジタルデータを画像にするのは、暗号の解読(復号)ということです。ところが本当の暗号と異なるのは、RAWデータ現像というのは、露出や色相、シャープネスなどの多くの観点から、変更ができという柔軟性を持っていることです。

<RAWデータの柔軟性>

 こうした現像での柔軟性は、現像者=表現者にとっては実に好都合です。記憶に従って見たようにも現像出来ますし、撮影時の印象を強めたりすることも出来ます。それこそ露出を変え色彩をなくすモノクロにさえ出来ます。写真となる様々な要素はデジタル(数)ですから、それを容易に変えることができるからです。

 こうしたことがRAWデータの現像と言うのです。しかし、最近は「現実の光景を解釈」、あるいはそれを具体化することではないかと思っています。

<被写体の解釈>

 撮影するものをどう捉え、どう写したのか。撮影者の意図や狙いがあって撮影したものですから、眼前にあった光景は意味あるものとして撮影者には位置付けられます。ここには全くの客観性はなく、あくまでも主観となります。

 ここには必ずや撮影者の何らかの「光景=被写体への解釈」があります。だから撮影するわけですので。
 そして、その解釈というのは、概略的には、主観的な趣向や好印象のもの、撮影の意図や意義(テーマとかコンセプト)、さらには、自然観や歴史観(郷土史理解や写真史も含め)、美的感覚などが、おそらく混在して、または集約されていると考えられるのです。

 もしも、これが無意識にあるいは自動化されるまでに熟達していれば、これはプロ的な仕業ですし、プロならこうしたことへの解釈の説明を容易にするのかもしれません。熟達して無意識化や自動化されるまでに至ったり、あるいは本当に無意識的なものが撮影させてるならば、それは一応「感性」と言う短い語句に集約されてくるのだと思います。熟達してなるならば、それを説明し得るでしょう。本当に無意識だと、自己分析ができないので説明は難しいと言うことになるでしょう。

<現実とイメージ、そして、現像>

 デジタル化によって、ほとんど全てのデータを変えることが可能です。モノクロ表現を考えると色彩でさえ変えても良いということになります。問題は、現実的なのか、非現実的なのか、印象的なのか、心象的なのか、というようなことでしょうか。

 しかし、撮影時は眼前の、あるいはファインダー越しに現実と対峙していますから、現実がどのように見えて、何をイメージさせるかを瞬時に捉えてシャッターを切っています。

 もしかして、現実を見る先に、イメージで見ているのかもしれません。できれば、こうしたイメージがたくさんあって、カメラを構える撮影モードに入ると、ある現実を見た時にイメージが喚起されてシャッターを切るという行為になるのかもしれません。これがテーマやコンセプトにかかわることです。単に写真が好きということだけではない以上のものを突き詰めようともしているからです。
 「何を写して、どんな写真にするのか」を問うているのです。
 
 私の今の場合はどうなのか。少なくてもクリシェは避けようと、有名な撮影スポットは極力避けているのが今の行動です。光の加減や色彩(ゴールデンアワー、光芒や影)、自然現象では主に霧を追っています。従って、小高い丘の上が中心です。さらに、ゴールデンアワーと霧の組み合わせとは言っても、2度と同じものはないと言えるので、その中でも、自分のストックにない光や色彩もの、やや異なった後景、中景、近景と言うことになります。

 キツネ等も追うことがありますが、やはり風景の中、自然に存在する動物として、風景が半分から3分の1程度はいった中での様子をとりたいですが、その表情やしぐさの面白さもあってか、接近したときはそれを撮影することになります。

エッセンス 再来5 「essence」を求めて

 「viewーsceneーessence」を考えて来ましたが、重要なのは、視覚的に「見ること」以上に、撮影者それぞれが風景についての様々な解釈や独自の解釈を持つことだと思います。
 私がこれまで色々と調べてきたこともそうですし、考えたこともその解釈の仕方を深めたり、広げたりするためです。とにかく、文章にすれば記録に残って、振り返ることで、改めて分かったり、やはり分からないことが分かってくる、ということができるからです。


 端的に「美」としても、自分にとって、あえてなぜ美しいのかを問い直すことや、どんな要素で美しいのかを分析してみるのです。また、どんな事象に自分が惹かれるのか、それはどのように説明できるのか、にもなるかもしれません。この意味では自己理解です。

 また、プロがよく言うのはいい写真や絵画を見なさいということです。これも「見る」なんですが、実は「読み解く」=どう「解釈」するかということです。
 写真だとしたら当然に焦点距離とか構図など技術的なものもあるのでしょうが、どう感じるのか、それはなぜか、撮影者(作者)は何を感じて撮影し、どう表現しているのか。タイトルがあるとすれば、それは何を見せよう感じさせよう、考えさせようとしているのかを解釈することです。この意味で他者の作品についての理解を自分なりに深めることです。(この「読み解き」も少しは説明できればと思います)

 それらは、多くフィールドへ出て写真を撮って考えることでもあります。「量から質」とは言いますが、1枚1枚が試行錯誤・思考でなければ、質への転換はないと思います。さらに、フィールドへの時間をかけられない週末カメラマンにとっては、貴重な撮影時間です。固定したアングルや設定を少しでも自由にして撮影し、現像時に思い起こしながら、自分の写真を解釈しながら見つめ直すことが大切ではないかと思うのです。そして、次回に、それを生かすような撮影に没頭することです。これが日々鍛錬、日々修行の意味だと思います。「何を撮る」ではなくて、「何がどう撮れるか」です。

 「感覚的にシャッターを切るセンスもない」「写真の才能(?)もない」ような凡人が、唯一鍛えられるのはこうした知的作業(意識改革)を通してのみです。凡人の感覚的にも捉えた「scene」が、一際輝く「essence」になるのを願いながら、その感覚と知的作業を楽しむような撮影スタイルを身につけたいものです。

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 タイトルは、『稜線を駆け、いざ頂上へ』にでもしましょう。
 湧き立つような意欲をもち続ける。私みたいに休止しても、さらに燃やし続けるものを見出そうとすれば、「essence」へとたどり着けるのではないかと…。

エッセンス 再来4 「scene」と「essence」


「scene」は「essence」への下準備

 ツアーで講師の写真家がここで撮影しましょうと薦められても、同じ画像にはならないことがあります。もちろん、カメラ設定を同じにしてもです。焦点距離、フレーミング、構図が違います。なにやら観点、場面の整理の仕方やおさめ方が違うようです。もちろん、もちろんそれらに合わせて枚数が違います。自分が決めた切り取り方が複数あるのです。なぜでしょうか。もちろん、技術や感性の違いです。

 さらにその1つとして考えられるのは、私にはない「鑑賞者がどう受け取ってくれるだろうか」という観点があるからだろうと思います。全くの独りよがりで、他者の視点への考慮がない撮影というのが実態です。実際に現像する際に様々なパターンを撮っておくことによって、撮影者の意図がどう伝わるのかを吟味するためでもあると考えています。いわゆる撮影者の感覚や感性で見つけた光景「scene」も、撮影者の意図と鑑賞者への見え方、見させ方と言った中で、撮影者の独りよがりではない客観的な思考、分析が働いて撮影されているのだと考えます。(この主観、客観については後日に)

 さらに、仕上がりを想定したり、もしかして複数のテーマに沿ったものの撮影も想定しているのもあります。
 風景は「見る」「感じる」ものでしょうが、撮影者は「view」での高速な思考・判断=抽出から「scene」を見つけるや否や、カメラを構えます。しかも、これもおそらくですが、「新たな見え方」「新たな感じ方」もしながら撮影・現像しているのだと考えます。これが楽しいのです。そうでなければ、数十年も通い続けられないと思うのです。

 「view」から「scene」へのスピードは実に早いのは、そこまで鍛錬し磨きあげられているいわゆる「感性」です。なおかつ、この「scene」では、すでに「essence」への下準備ができていることになります。

 「essence」

 一般的に「essence」には、本質、特質という意味があります。写真的には何の本質か特質かと言えば、何を表現するのか、鑑賞者にどう受け止めてもらいたいのかという写真家の目的、狙い、あるいはテーマにも関わることが表現できているかが重要ですし、鑑賞者を意識した見せ方なども考慮して、絵筆のように「現像、補正、調整」して表現したものを「essence」としています。
 
 
 こうしたような理想が実現するとすれば、オリジナリティのある作品となります。まだ十分な鍛錬がない私の場合は、クリシェでも少しマシな方であったり、新たな表現の幅を広げるもの、オリジナリティの兆しが見えるというようにでもなればいいところでしょうか。
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