PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

写真考

脳での視覚情報の処理

 以前に「肉眼」での物の見え方について書きましたが,ついでに,間違いもあるかもしれませんが、にわか勉強での脳の話を。

 網膜での視覚情報の多くは明暗(モノクロ)で,網膜の一部である中心窩での情報が色彩もあるということですが,実際に見えているのはオールカラーで,周辺がボケている光景が見えています。この差が,脳による情報処理の素晴らしさであるかもしれません。

 さらに,「あそこに椅子がある」「その奥には,旅行に行った時の写真がある」という認識も与えてくれます。写真に凝視すれば,その時の記憶や感情が蘇ってきます。近くのテーブルにはコーヒーカップがあって,飲もうとすれば,間違いなくカップをとることもできます。視覚から認識へ,認識は過去の記憶も呼び覚ましますし,認識から行動へとスムーズにつながります。さらに,視覚情報が単なる画像・映像というよりも,物の認識(そのものがなんという名称か,何の目的に活用されるかなど)の完成したジグソーパズルなのかもしれません。

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 図を見ると、視覚とはいっても,脳では多くの情報とむすびついているわけです。さらに,意思や興味によって,単なる光景から必要な物を見分けたり,見出したりすこともできというフィルターのようなものもあります(有意注意とかいうのでしょうかい)ので,アクティブなものです。肉眼からの情報を即座に処理しながら、処理された光景を見させているのが肉眼ということになります。

 これを写真に結びつけると。

 ・まずは、視神経からのRAWデータを、視覚野で画像処理したものが、あたかも肉眼で見ているかのような錯覚を起こさせているというのが本質でしょうか。
 ・ 構図やフレーミングという点では,側頭葉の言語理解に近接する「線,図形,文字」の領域で処理されて、撮影していることになるでしょうか。風景の中に,構図の基本となる,線や図形を見出せるかどうかは、この神経系や脳の領域になるでしょうか。さらに知識・記憶領域にも近接しているので,「学習」というのが、構図やフレーミングの上達には効果がありそうです。文字というのは,おそらく文字のような複雑な形ということですので,複雑な線や図形の組み合わせも識別できるということでしょう。

 ・ピント合わせ,絞り(被写界深度)設定といえば,頭頂葉の領域になろうかと思います。これも知識・記憶領域を呼び覚ましながら,どこにピントをおいて,被写界深度をどうするか,絞りの値を決めるということになろうかと思います。フレーミングもこのカメラ設定も操作・動作に直結するので、随意運動・運動の統合という領域から、身体の動きへとつながるということでしょうか。
 
 脳についてはあま分かりませんが,うまくできているものだと思います。さて,もう一つ,こじつけかもしれませんが,RAW現像についてです。

 RAWデータは視神経からの情報で,脳の視覚野でRAW現像して初めて画像になると考えたらどうでしょうか、現像・補正によって、遠近感を補正したり、撮影現場での記憶や過去の記憶、あるいは、前頭野での作風、処理の仕方のセオリーなどで補正していくのだと思います。カメラという機械・電子機器の画像データを、自己の脳で映像化するように、パソコンを操作しRAW現像すること、あるいは補正することは、ある意味で自然の流れかもしれません。 〜 という「こじつけ」となります。

<補正の2つの方向 以前にも触れましたが>
 ・カメラが,肉眼で見,脳で処理された光景のように忠実には写せないという特性があるならば,それを回復処理するのがRAW現像となります。これは,視覚的に同様のものを忠実処理することになります。 
  ・もう一つは,その忠実処理を超えたところで,意味合いを込めたり、創造的に処理するものです。明るさでいえば,ハイキー調やローキー調です。色でいえば,モノクロ,セピアなどなどでしょうか。質感も色調,色相,粒子感などでかえることができますし,テーマ・主題に沿った補正となると,様々な手法がでてくるのかと思いますので,より被写体らしく,その本質を描き出すことや、個性的な画像、作品へと繋がってくるかもしれません。
   

肉眼の解像度

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 肉眼の特徴を調べている際に,カメラの解像度として計算した人の話がでていました。

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・まずは,確実に見える鮮明度のいい中心窩ですと,700万画素でそのわずかな周辺部を入れても800万画素とのことです。しかし,肉眼での視野だと,なんと5億7600万画素となるそうです。これは一体どんなことになるのかと,自分で計算してみたところ。

・今の市販技術だと,4Kテレビが64台分ということになりました。これが人間を視野をカバーする広さとなるのですから,縦に6台,横に10台並みのスペースが必要ですね。これだとまさに一面の壁そのものが画像でなければなりません。

 最新のカメラでは,8K を超える5000万画素が市販されていますが,一億画素も研究中とか聞きます。どこまでいくのでしょうか。

・ ただ,高画素もいいのですが,価格が高くなると同時に,高速メモリーが必要です。ハイスペックのパソコンも必要です。ざっと計算すると,5000万画素だと,RAWで70MB,JPEGでさえ30MBを超えます。ハードディスクも大容量でないといけません。また,高画素になるほど,「ブレ」にもシビアになりますので,頑丈な三脚もいるでしょうか。
 モニターも8Kがほしくなりますが、私のiMac 27インチでも小さいかもしれません。40インチ,50インチとモニターも大きくする必要があるかもしれません。そうなると,モニターとの距離も必要なので、今よりも奥行きのあるテーブル(デスク)や部屋も少し広めでないといけなくなります。う〜む! お金のかかるようになっている! 寂しい話ですが,どんどんと高収入者の趣味となるのでしょうか。

・そうなると,体感的に大きく見せるスマートグラスというのに期待が持てるかもしれません。今の所,90インチ程度の体感ですが,解像度はHD・パソコン並みということです。せめて,100インチ超えで,解像度も4K並みになるといいかもしれません。

 メモ 網膜の奥で外界の映像をとらえる部分には,明るさを見分けるが色を識別できない視神経が多く分布しているそうです。しかし,中心窩には,色を識別できる視神経も集中してあることから,色彩も含めた映像が脳に送られるそうです。従って,鮮明な映像ということです。 

肉眼と写真 ボケ

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 肉眼と写真(レンズ)の違い

 日本人だと,鳥の声を認識する脳の部分が西洋人と異なるとか,色彩感覚が違うなどと言われているようです。また,ネットなどを見ていると,浮世絵以前などの日本の古い描画方法では,日本独自の空間認識があったようなことも書いてあります。つまり,西洋画的な遠近法ではないということす。読んだ中では,遠近法といういうのは風景と観察者との対峙姿勢が見られ,観察者の主体性が強調されているそうです。しかし,遠近法を取らなかった日本では,対峙ではなくて融合的であるとしています。自然との融合,一体感というのが特徴だと書いてありました。空間認識にも日本人の特性があるということです。

 写真界では,「ボケ」については日本人が好む表現のようですが,今では世界に広がり,そのままボケで通じるそうです。ということで,今回載せた画像の左側がそうなります。

 これは肉眼での視野と実際に確実に見ることができる範囲を示したものです。普通に風景を見るときには,肉眼では広い視野をもっていても,眼球の構造的には,一点しか鮮明に見える箇所がないそうです。それが中心窩というところだそうです。大きさでは1.8mm程度で,網膜と一括して言っている一部なのですが,これ以外の場所では毛細血管を通しての映像ということでボケているそうです。肉眼に忠実であるならば,ボケがごく自然ということになりそうです。
 ところが,これをあまり意識してはいなく,なんとなく全部が鮮明に見えるようにしているのは,目を細く動かしたりして,見えたものを脳で合成するようにして見させるからといいます。従って,しっかり見るとなると,一点に絞られますので,周囲はボケているというのが,肉眼でのピントのあう部分と周辺のボケというのが,ごく自然であるということができます。
 妙な話かもしれませんが,これに縄文時代以後の稲作文化をみると,獲物を探して視点を絶えず動かす狩人の見方から,稲を植えたり,その成長を見て刈り込んでいく作業には,凝視,あるいはゆっくりとした視点の移動でよかったのかもしれません。さらに,ボケということでは,何か自然に包まれているような感覚があったのかもしれません。ボケというのは古くからあり,自然との一体感というも堂ようだったのかもと曲解しています。西洋的なものとしては,砂漠や乾燥地帯発生の宗教ですので,日本の縄文時代よりも厳しい環境ですので,絶えず水や獲物を探す,危険から逃れるというものの見た方,あるいは自然と対峙する姿勢かと思われます。従って,ボケは死を意味することだったかもしれません。これも曲解です。

 さて,こうなれば肉眼の特徴が分かったわけですので,写真との比較になります。
 レンズも古いものは周辺の解像度が悪かったようですし,周辺光量が減るという問題もあったようで,肉眼に近かったかもしれません。そして,それらを解決すべく技術革新が行われてきています。周辺光量を減らさない,かつ,解像度,鮮明度も落ちないようにと進化しています。
 レンズ・カメラでは,絞りによる被写界深度がありますから,ピント的には上図のように面的なものになるかと思いますし,パンフォーカスとなると全面にピントが合っている状態となります。
 風景ではほとんどがパンフォーカスとされていますので,全面的に鮮明さが求められています。こうしてみると,写真というのは基本的には,肉眼での見え方とは異なるということですので、脳で合成されたような、ある意味理想の映像ということになるかと思います。
 さらに,別な面からは,鑑賞者が,写真での風景をみるときに,パンフォーカスによって全面的に鮮明ですので,どの部分を見てもいいという自由さを与えているということも言えるかもしれません。全体的な見方による鑑賞や,部分的な鑑賞にも耐えうるというのがパンフォーカスで表現です。まあ,写真自体が小さければそのような意味は薄く、多少の誤差,ピントの甘さは許容範囲かもしれません。

 パンフォーカスということでは、以前に過焦点距離について書きましたので、そちらをごらんください。

デジタル化という革新

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 落葉松もいい感じに。
 とはいえ、昨日から20cmを超える積雪です。美瑛ならもっと降ったでしょうか。まだ、落葉松の紅葉もピークではないのに大雪ですので、これからどうなっていくのでしょうか。

 フッと読んだ記事から。

 ・写真が物質から情報になったということ。フィルム時代は,印画紙があって,現像液などで物理的に感光された粒子が集まって物としての写真だったということです。物ですので,人為的な運搬ということで,その移動が可能だった。
 ・しかし,デジタル化は,物を情報へ,色彩や明暗を電子記号化して非物質にさせた。運搬も,電線のような電気回線や,無線といった電子として運ばれるようになったということです。 

 紙に依存していた書籍も,電子書籍として成立する時代となっています。写真関係では,印刷物でのコンテスト応募だけでしたが,データ応募も可能になってきているようです。従来は,写真集という物での鑑賞から,大画面ディスプレイでの鑑賞も可能になっています。そうなると,データや,PDF形式等での販売市場もどんどんと拡大してくるのかもしれません。実際,写真データを売買するサイトもありますが商用に使われるデータの1つとしての扱いで格安です。また一方,500pxのように写真を作品としてデータ販売するサイトもあります。しかし,まだ,データによる写真集のような販売は聞いたことがありません。著作権の件もあって,複製を防ぐのが難しいのでしょうか。

 記事の続きから
 ・デジタル化によって,画像そのものの拡大が可能になり,マッピングプロジェクションのようなことから,鑑賞というよりも,画像・映像と一体化したり,移動して視点をかえたりという画像・映像とのアクティブな関係を思考錯誤しているとのこと。

 これを考えると,仮想空間化によって,スマートグラスをかければ,写真展覧会に入って,色々な作品を眺めたり,1つの作品に入り込むと,眼前一面に映し出されて,さもその場所から眺めたり,少し移動して眺めるようかのようなことも可能というようなことも可能かなと思いました。まあ,どれだけ需要があるかで決まるかと思います。また,なんらかの形で情報・データを「所有する」「所有したい」という欲望がありますので,これをも満足できるものがなければダメかと思います。

求める写真(2)

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 求める写真(1)の続きです。

 プロと同行して撮影しても、やはり見所が違いますし、写真としての出来が違います。焦点距離も、カメラ設定も違い、構図になる場面を切り取っていて、描画性も違います。

 眼前の風景は変わらないのですが、素人とプロとでは違います。見る視点、切り取る視点、それにカメラ設定や現像が違うのだと思っています。そこをなんとかして埋めたいものです。何がしらの学習や工夫、感覚等の練習、訓練(この言葉は高橋氏でした。中西氏は修行と言っていました。)で、Essenceまでとはいかなくても、「Essenceを含んだScene」の範疇の光景を見出して写真が撮れるのではないかと思うのです。

 まだ、View、Scene、Essence、それぞれの概念は漠然としていますが、Sceneあたりから、構図やカメラ設定、焦点距離の選択、Raw現像技術などの写真技術の巧さが加わってくると考えます。無論、風景ですので、時間や季節といった状況の選択が大きいかと思いますが、それに巡り合うこと(さらにいうと積極的に撮りに行くこと)が大切かと思っています。そして、それらが全て整ったベストのものが「Essence」ある写真ということでイメージしています。まあ、これは難しいでしょうから、Essenceを捉えきれなかったScene、あるいは、Esseneを含んだScene写真あたりだと可能性はありそうだと思っています(構図的な切り取り方の点で)。

 「Essence」について。
 おそらく、構図的には意外とシンプルで明確かもしれません。風景では安定感が要素の1つですが、大胆さや動き、勢いが感じられるものも含まれるでしょう。派手な色彩もあるかもしれませんが、グラデーションの美しさをも含むもの。やはり描画性は高く、繊細さもあること。そして、何よりも、写真としての新鮮さ、誰かに似ているのや、かって見たことのあるような、オリジナリティーのないのはダメでしょう。まあ、これについては、感覚や感性が人と同じになるわけではないので、突き詰めていけば、オリジナリティーとなるのではないかと思います。

 求める写真としてのEssenceの大きな要素については、自然条件や光,あるいは地形的などの条件が重なり,普段は見られない非日常性という点だと思います。極端な例としては,まさに自然界の奇跡的光景というところです。美瑛・その周辺であり得るのでしょうか。この意味では,時々出かけて出会う光景にいつもEssenceがあるわけではないかと思います。従って,朝夕の斜光,逆光,雲間のスポットライトといった光や,パッチワークといったパターン,そして,四季の変化など,ある程度写真を撮る方々だったら選ぶであろう条件の中でEssenceに近いものを追いかけるということになります。そして,運が良ければ,その中で偶然か,先読み移動してEssenceを撮影できるという幸運に巡り合えるかもしれないということになります。
 もう一つの可能性として。Essenceには本質,真髄,基本要素(エキス),精などの意味があります。写真としては,上記に述べたように,まさに誰も見たことがないものを撮るのが写真の本質であり真髄です。奇跡的光景,絶景というようなことですが,日常的にも誰もが見過ごすような,誰もが気づかないような事象をとらえるのも写真の本質,真髄かとも考えます。この意味では,常識的なものの見方や考え方から離れた感覚,視覚からの撮影というのも,このEssenceに含まれてくるのではないかとも考えます。
更に「精」という意味からも,撮影し現像できるかどうかは不明ですが,心象的な風景の描写もありかとも考えます。
    (つまらないかどうかは分かりませんが,読んでいただいてありがとうございます。でかける毎に,Sceneを選び,Essenceを問い直しながら写真を撮るようにしています。)
 

求める写真(1)

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 自分の写真はどこを?目指すのか。  英語ですみません。ニュアンスとして近いか、自分なりの意味合いも込められるかと思い英語にしてみました。

 いつも写真を撮り、それを選択してRaw現像を行っていますが 、私自身は写真で一体何を求めているのかということに、写真から離れた時間にフッと思うのです。撮影技術はもちろんですが、写真の仕上がりやその内容への満足がイマイチなのです。「楽しければいいじゃない」というのも聞きますが、それだけでは満足できない自分がいます。とは言っても最終的には感覚的に満足するわけなのですが。思考的にも、願望的にも満足するような方向性もなければ、という,これまた感じなのですが。

 今まで、3人のプロの方と写真を撮ったり、様々な本も読んだりして、自らの写真とは何なのかということで、また考えたことを書きたいと思います。
 直接的には,過日の東川写真塾講師の上富良野在住のプロ写真家の高橋真澄氏のお話がきっかけでもあります。高橋真澄氏の「状況写真」という,ありふれた,行き当たりばったり的な写真,構図にも甘い写真というご指摘から始まり,プロの写真でも博物館所蔵ではなく,美術館所蔵にしたいと語っていた思いも加味してみたいと思いますが,氏からはこうした英語の概念もでていません。あくまでも個人的な位置付けということで書きます。

 まずは、この図全体の意味合いから。
 これ全体が風景、光景と呼ばれ、肉眼的に「綺麗!面白い!」と目に入るものです。そして、その中には、「写真として優れたものが撮影出来る光景」が含まれているということを表しています。ただ見て綺麗という感じが強い「View」から、写真としても美しいものが撮れる光景である「Scene」。そして、ハイレベルな人やプロの人達が撮るような光景の「Essence」,と位置付けてみましたが、それらが同時に含まれているということを表します。詳しく言えば,空間的・地形的,時間的に優れた光景を含んでいるということで,それを如何に捉えるのかということが課題となります。以前に使った言葉だと「フォトジェニック」というのが「SceneからEssence級」という感じです。  (2)に続く。

 

 


 
 



 

何処へ

何処へ

 晩秋山白く 何処へと向かうのだろうか

 積雪のあった十勝岳山麓で,ふと見上げたモノクロの空に鳥の一群が飛んでいました。向かうのは,白くなった十勝岳連峰の山頂方向です。寒さに向かっているような,この時期の北海道の季節とともに,私自身の撮影の厳しさを感じた瞬間でもありました。

 まずはレンズの話。70-300mmのレンズのときも,たまに飛んでいる鳥を写すこともあるのですが,ほとんどはピンボケ。まあ,絞りがF8以上ですし,相手も動いているので,ブレるわけです。ときには,ISO感度をあげるときもあるのですが,手ぶれといった状態です。しかし,この写真は新しい70-200mmで撮りましたが,たまたまF6であったこともありますが,素早いAFと手ぶれ補正機構がいいためか,かなりの解像度でした。ポートレートでもいい解像度ということで,重量はありますがかなり使えそうなレンズだと感じています。最高焦点距離が200mmということで,物足りなさもありますが,RAW現像からの2分の1程のトリミングでも,いい質感をだしているという感じです。そもそも,APS-C換算で480mmまで撮っていたとはいえ,ミラーアップしても,機械式のシャッター幕ということもあり,三脚固定の不十分さもあって,微妙なブレがあったのかもしれません。いい感じのときとそうでないときの差があったのが,70-300mmでした。まだ,一月あまりの70-200mmですが,まだまだ,冬を過ぎないと,モノクロのような雪景色を撮ってみないとわからないというのが実感です。

 2つ目は,この写真の本題名である「何処へ」ということで。東川写真塾以後,高橋真澄氏の指導や講評をまとめているのですが,私の写真のほとんどが,前回に書いた「状況写真」ではないかと疑問をもったのが実感です。すると,これからどこへ向かおうかと,どこをどう手直ししていくのかということで,「私の写真が何処へ向かうのか」ということでもあります。
 いつもいい写真が撮れることはありませんので,その意味では,日々の撮影ということでの「状況」ですが,もし,素晴らしい光景に出会った際に,その状況であってはいけないのではないかと再考させられます。高橋氏を師とするプロの方も「日々,修行」といっていた言葉を思い出します。「状況写真」よりも,「より表現性のある写真とは何か」を考え,日々,切り取りを鋭角化していくような練習,訓練,修行が必要かと思っています。

 情報 ケント白石氏がネットで写真塾を11月オープンするそうです。もちろん有料のようで,プロをめざす方やハイアマチュアをめざす人が対象のようです。異色の作家ということでも興味深々ですが,様子をみてみたいものかと思います。今後詳しいことがわかってくるかもしれませんので,興味のある方はブログをみてください。 

虹と雲4

 虹

 今回、東川の撮影ツアーである東川写真塾に参加して、いろいろなことを学びました。講師の高橋真澄氏のご自身の作品の解説と、参加者提出作品の講評がとても参考になりました。今、記憶を辿りながら印象的な文言をメモしているところです。今回の写真はその塾後の撮影ですが、一応の成果を極端に表しています。

 ・虹が主役としたら、「主役を強調すること」ということで、手前のグリーンが雲で隠れ暗くなるまで待ったこと(明暗差による強調)。しかも、主役にピントが来ることで、グリーンや林にはピンがあっていません (ピントによる強調)。ピントの方は、主役へのピンボケがダメということで、あえて他はピンボケになるようにしていますが、自然風景はパンフォーカスが主流ですが。

 撮影ツアーも、こうした講評などがあると、参加者が同じような写真を撮っていますので、たとえ自分が提出した写真でなくても、講評が得られるということでは、大変に良いものです。撮影だけのツアーもプロの目による撮影スポットの追跡方法がわかるのがいいですが、撮影した写真のプロによる評価が聞けるというのが最高だと思いました。

 今までのメモでは、「半径2mの写真」とか、「状況写真」とか、「雰囲気は感じる写真」など、「アマチュアらしい写真」の評価の言葉も多く聞くことができました。少々汗ものなのです。半径2mというのは家族に見せて、どこに行ったかなどで、いいねと言われる写真。状況写真というのは、例えば、たまたま虹に出会って、それを撮影したというようなその場の状況を写した写真で、普段では見られないような光景・状況を撮影した写真ということ。いずれも、旅行写真的なものかもしれないということでしょうか。雰囲気というのは、撮影者が何を撮りたいのかは感じれるようなものということでしょうか。やはり、何を撮りたかったのか、不明な写真ということです。

 東川写真塾では、たまたま虹の出る状況をかなり追跡しました。虹の撮影では世界一と豪語してもいる高橋真澄氏ですので、その一端を学ぶことができ、上の低い虹を追いかけることができました。その後、再度、天人峡や十勝岳に出向き復習をしながら、塾当時を思い出しています。 
  

朝霧

藤野の霧開け

 美瑛藤野の丘 朝霧明けの光景

 霧が消えていき山が見えたので撮影してみたのですが、何とも言えない光が「懐かしいような風景」を作っていました。丘と丘の間に当たる左林には光芒も作っていることから、薄くても霧が残っているのがわかります。朝陽で少しセピア調の色合いを含んでいるために、懐かしさを醸し出しているのでしょうか。

 これからは、朝の気温が10℃以下の一桁台ともなれば、霧のシーズンとなります。過日は12、3℃ということもあり、霞程度でした。また、東には雲もあり、日の出がかなり遅れました。
 その日は月曜日とはいえ、いつもの朝霧の丘(自称)には数台の車が止まっていて撮影を待つ人がいました。この日は、一応、朝霧の丘を確認してから、新栄の丘で日の出を待つことにしましたが、ここも数台の車が駐車していて、2名が撮影に出てきました。観光シーズンの混雑を避けるような時期の選択もいいかもしれません。

 これからは朝霧のシーズンです。朝霧の魅力というのは、まずは霧の量と流れによって、地形が様々な変化を見せるということでしょうか。丘の間にある人家も見えなくなり、丘上の木々、林のみの光景というのもあります。霧の濃さや流れは予測不可能で、丘の表情が様々に変わるのがまず第1です。その次は、やはり日の出前後の色彩の変化です。青い霧、紫の霧、朱の霧、そして、白へと移り変わっていきます。どの色も魅力的ですし、それらの色が近景、中景、遠景と違って見えることもありますので、微妙なグラデーションも魅力的です。さらに、日の出の方角の雲の様子によっては、光芒が出ることもあります。雲があっても、全天鉛色でなく、濃淡や雲間があれば、何が起きるかは予測できませんので、出かけ価値はありそうです。また、晴れていれば、日の出後は、霧の周辺での白虹という自然現象までも撮影することができます。
 朝霧が濃すぎる場合は、美瑛パノラマ・ロード方面へと霧を突き抜けるがいいかと思っています。そこも濃ければ、霧の青い池というのも期待できます。そこまでの途中の白樺ロードでの光芒というのも、いいかもしれません。 

リアリティ

風雨を乗り越えて2

風雨を乗り越えて2 smart copy

 風雨を乗り越えてのキタキツネ 同じRAWデータから現像

 写真の表現について考えていますが、上の2枚をご覧になってどう感じられるでしょうか。
 いわゆる「見た目」に近いのは上の現像です。下の方は少し荒れた感じになってしまいました。と言っても、現像の狙いが、濡れた感じを出すことでした。台風での風雨の数日間後ということや、濃霧による露という中での出会いで、たった1匹で過ごした若いキツネの状況から、その気持ちであろう「辛さや寂しさ」をも表現したく、そのキーワードが「濡れ」でした。伝わっているでしょうか。

 上の写真は、「見た目」ですが、データを調整しています。とっさの撮影ですので、いちいち画像を確認しませんので、 カメラ画像では納得いかないということで、現像で補正しました。風景写真なら、通常はこれでだいたい終了します。ただ、こうした動物や花単独だと、感情移入もできやすいので、見直す際に手を加えることがあります。それが、下の写真ということです。

 今考えているのは、このようなことです。1つは、現実(見た目)に迫る写実を求めて、補正(描画の仕直し)すること。2つ目が、下の写真のように、撮影者である自分の印象等を付加しながら、補正(描画)することです。1つ目を「現実(あるいは現実感)としてのリアリティ」、2つ目を「真実・本質としてのリアリティ」と名付けました。「リアリティ」というのもまどろっこしいのですが、辞書にはそれら以外もあって同じリアリティとしての意味でした。しかし、一般的には現実と現実感ですが、その中に、真実性や本質性というのがあって、写真というは、記録(写実性)でもあり、表現でもあることから、この言葉が合っているのではないかと思いました。

 被写体あるいは現実というのは、ただそこにあるということもあるでしょう(現実性)が、本当は個人にとってどんな意味があるのか、好きか嫌いかなどの認識や感情的なものも込めて、視覚に入ってきています。現実というものが個人によって意味づけられ解釈されていること、そこに個人としての現実の真の意味があるということで「真実性、本質性」が合うのではないかと思っています。また、写真を撮るという行為の中に、日常ではあまりない「凝視」をすることから、個人の意味づけや解釈から離れた見方、感じ方に気づくことや、写真を現像するときに新たに気づくようなものがあるかのしれない、そうでもありたいということで真実性、本質性=リアリティとしました。

 この「リアリティ」ということで、2つ目のもの、個人的な見方や感じ方を込められるような表現もできないのかと考えているわけです。とはいえ、1つ目の「見た目」というのも実は難しいものです。どうしても、記憶に頼る現像ですので、現実とは異なるかもしれません。見た目以上に、写真の方がいいということもあります。いいもの、いい時を選んで写しているということもありますが、これも写真の現実(つまり「リアリティ」)でもあるような気がします。

 さて自然風景では、 このキツネのように感情移入ができないにしても、美しさや威厳、感動などをどう現像で描いていくのか、被写体の中にある様々なものの相互関係で引き立てていくのか立ちふさがるものは大きような感じです。強調はいいが、誇張は不自然というような漠然としたものしかありません。個々の写真ごとに悩むのでしょうね。いっそモノクロで、というのもありますが、なぜモノクロなのか、色彩を省いた上でのその表現の可能性ということも理解しておかないといけないかと思っています。
 
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