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 遅れた日の出 強い光芒に期待したのですが,これが限度でした。
 本日も雲で遅れた日の出となりましたが,期待したところには強い光はきませんでした。

 日々の撮影紹介のようなことが続きましたので,少々「写真考」を。

 過日はモノクローム写真を載せましたが,モノクロームということでは,投稿しているサイトでのハンドル名「Fuyuhiko.N」さんの作品を思い出します。もう2年以上も投稿されていないのですが,彼の作品を改めて見直すと,現実(被写体)を超えるようなところでの「心象的な風景写真」がモノクロームで可能なのかなと考えさせられます。とはいえ,過日述べたように,結構難しく,より鮮明なモノクロというコンセプトでのテーマが必要かもしれないと思います。

 <まずは写真の特性について> 写真というのは絵画とは違って,眼前の現実としての被写体が基盤になっています。被写体が持つ形状や明暗,色彩等を写し込む訳ですから,現実と密接な関係をもっているのが写真ということです。この意味で特化されるのが報道写真ということになるのでしょうか。もちろん,非日常的な事件や出来事という被写体があるからこその価値を持っているのが報道写真でしょう。さて,その現実の被写体から,色彩を除くということで表現されている著名なモノクロ作家もいますが,美瑛とその周辺ということでのモノクローム表現は,自分にとってどうなのかと考えるところです。自分の表現したい部分とモノクロがシンクロするような点があるのかどうかとうことですが,今の所は,かなり限定されるような感じがしています。というのも,色彩に惹かれているものが多いからです。まあ,これは「自分の表現」というよりも,「自分の好み」という面が強いからでしょう。しかし,「写真表現」も考えてみたい,というところです。

 また改めて,「写真表現とは何か?」ということですが,まずは,「写真」の特性から。ここから何か見出せないかと思っています。

 写真は現実の被写体とは無関係にある訳ではなく,その被写体に拘束されているという「記録性」がつきまとうように思います。絵画ならば,初めからハンドメイドで創り出さなければなりませんが,写真の場合は,被写体の前に立ちパシャっと撮ることから始まります。

 さらにその記録性については,自然風景写真では,どんな天候状況や自然現象の下なのか,光の当たり方はどうなのかなど,状況の選択(出会い)という重要なものがあります。自然風景では,人々があまり目にしない「非日常的な光景=非日常性」が重要だといいます。報道写真での「決定的な瞬間」というのと同じような意味でしょうか。

 こうなると,「非日常的な光景を記録する」とまとまるようですが,そもそもが現実を写すということからの 「記録性」と,より珍しく鑑賞に堪えられるという自然風景写真での「非日常性」を分けておきたいと思います。 ※ この非日常性の狭い意味では個人的な経験上のものも大いに含まれるかと思いますし,多くの人たちの日常性にあっても見過ごされたもの,ということも含まれてくるでしょうか。


 あとは,現実を写すとはいえ,一部が切り取られるということで「空間的な断片」と,一瞬の出来事を捉えるということでの「時間的な断片」という「断片性」があるかと思います。これについてはもっと細かく言うと,焦点距離(画角)やアングルといった切り取り方も含まれてくるかと思います。これがあることで,個人個人の切り取り方があるのだと思います。
 
 これらが写真の特性かと,今の所のおさえです。次は「表現」ということですが,すでに「非日常性」を「断片的(断片性)に捉えるということでは,その基盤ができているかと考えています。なぜならば,めずらしいこと,稀なことが,個人的に記録されるわけですから,「どう撮るのか」,「どう現像するのか」という表現領域に入ることができると考えるからです。すると,ここからどう考えるのかということになるのかということです。以前に,肉眼に近づけるとか,印象を強調するということでの表現ということで考えたのですが,何か他にはないのだろうかと思っています。
 これら記録性・断片性・非日常性から,何かでてこないのかと思っています。この先は,またの機会ということに。