PHOTO MEMO by FES

写真についての個人的メモ

写真についての個人的なメモです!

古代人のこころと自然観 その19 縄文の先祖信仰

 三内丸山遺跡の様子をみてきましたが、自然の中での居住性と生活利便性をうまく考えたムラ計画です。この回は、代表的な縄文集落と土壙墓の形態を見ていきます。


 縄文時代のムラ計画の中で一般的なのが、環状集落と呼ばれるものです。埼玉県嵐山町のHPからです。

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 上図は概念図ですが、環状に住居群があり、中央の空間が祭祀を行った場所と埋葬場所となります。何カ所か住居が密集しているのは同一家族や同一家系ではないかという研究も進んでいるようです。

 下図は岩手県の西田遺跡図ですが色分けされているように環状に建物があり中央部が墓が見いだされました。掘立柱住居は倉庫に使われたそうです。
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 この環状集落が東日本一体に分布し、居住域の直径は70~150m以上もあるそうです。この2図を見ると、確かに環状ではありますが、祭祀場所と土壙墓を中心にして集落が作られていると見ることができます。祭祀場所であるとの根拠としては、そこに環状列石があること(縄文後期には集落の外に移行)をあげているようです。他の場所から数百もの大きな石を運び込み(幾世代にもわたって?)、円形に設置して何らかのモニュメントを作り上げていくには、何らかの思想のもとに祭祀をおこなったと考えられているからです。

 さらに興味深いのは、上図の西田遺跡での埋葬の様子です。中央の十数体の土壙墓を中心に
放射状に頭を外側にして埋葬されていることです。

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 見事なまでの配列ですが、これを指示するようなリーダーがいたとしか考えられません。さらに当然にそのリーダーも世帯交代するわけですので、そのようなリーダーが中央に埋葬されていたと考えられます。それを中心に整然と埋葬されているのをみると、中央の埋葬者達は、ムラを守護したり、ムラ人の魂をあの世へと誘うような先祖神として崇められたように思います。

 さらに、放射状の埋葬では頭が少し高いということも考えると、この埋葬方法は平面的ではなく、中央の先祖神の霊魂の上昇経路やあの世を頂点として、それを見つめ各々の霊魂が上昇していくことで描かれる「霊魂上昇の円錐形」のようなものをイメージします。縄文世界は、水平面の同心的な空間と空の向こうの天までの垂直的空間の中で生活していたと考えることができます。

 このような先祖崇拝、先祖信仰は、後に、同じ系統の部族、あるいは、同じムラに住む人々の氏神(うじがみ)となっていったのかもしれません。

古代人のこころと自然観 その18 三内丸山遺跡その2

三内丸山遺跡から考えられるのは以下のことでです。

 ・最盛期には500人ぐらいの縄文人が住んでたいたとされます。
 ・居住区の外には、管理された人工林があって、その外に自然林がある。
 ・保存食にもなるクリを栽培、管理していた。漆器作りに必要な漆林の区画を設けていた。
 ・いわゆる山里のような管理された林で野草を採り小動物などを狩っていた。
 ・魚介類や原生林で大型動物や薪炭を得る専門的、分業的な小集落との交流があった。時には、大集落の縄文人が手伝いに行っていたことも考えられる。
 ・食べ物では、クリの出土が多く、イモ類や山菜、マメ類やヒョウタンなども栽培されていた。動物ではムササビや野ウサギなどの小動物が多い。魚類では、マダイ、ブリ、サバ、ヒラメ、ニシン、サメ類が多く、フグも食べられていた。調理方法としては「焼く」よりも「煮る」が多いとされている。また、エゾニワトコを主に、サルナシ、クワ、キイチゴなどを発酵させた果実酒を飲んでいた。
 ・鏃では北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形件月山、新潟県佐渡、長野県霧ヶ峰など、日本海を中心とした産地から黒曜石が運ばれてきた。装飾品となる非常に硬いヒスイは、新潟県糸魚川周辺から運ばれてきています。これらをみると6,700kmもの交易圏があったと思われます。この点では、津軽海峡を横断したり、黒潮や親潮、対馬海流の潮の流れなどを知り、航海技術をもった「海洋の民」との交流があったと思われます。

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 上図は居住域の大集落の一部の復元図ですが、このような場所に最盛期に500人が住んでいたというのが通説です。これに疑問を持つ説もあり、多くて100人程度が、食料確保や排泄や廃棄物等での限界との意見もあります。

 500人説で考えてみると、1家族が多くて5人とすると、夫婦2人が働き手となるでしょうから、100人以上もの働き手が、狩猟採集、栽培、燃料集め、土器造りなどに携わっていたことでしょう。それぞれの仕事毎に詳しい人が中心となり分業していたことでしょう。子供や幼子をみるために留守番的な女性もいたかもしれません。さらに、時期的に忙しくなる秋のクリの収穫、山菜とりもあり、あらかじめあの大型住居に集まっていろいろな相談をしたかもしれません。この大型住居や櫓の建造を考えると、日々の建造に必要な大人の人数や食料確保の大人の人数からは100人程度の働き手がいないと、不可能かとも考えるのですが、いかがなものでしょうか。

古代人のこころと自然観 その17 三内丸山遺跡その1

 今回は、山内丸山遺跡の生活域ということから、自然との関わりを少し考えてみたいと思います。   

 縄文時代では定住が始まったのですが、定住といういうことは、自然の中に人間の居住地域というものができあがることです。それまでは、自然の洞窟や穴、大木の下で火をともし、風や寒さをしのいでいたという自然の中での生活でした。しかし、定住と言うことでは、大自然の中に人工的な空間ができるということです。さらによく考えると、食料や飲料水など生活に必要なものを得やすい場所を考えて居住地域を選ぶという能力があったということです。そしてまた、居住地域内とその周辺での都市計画ならぬ「ムラ設計やムラ計画」もあったということです。例の埋葬場所がそうです。

<山内丸山遺跡の集落>

 山内丸山遺跡の居住地域とその周辺地域の研究による「集落生態系」というものが明らかになってきています。これをみると、居住域から生活域、さらに離れた区域での原生林(自然)というムラの様子から、自然との関わり方をみることができます。まずは、山内丸山遺跡のあった最盛期の様子です。これは遺跡発掘の考古学以外に、地質学や植物学、植物の分子遺伝子学などとも協力して作成したそうです。赤い部分が居住域となります。


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   縄文時代は間氷期で温暖化してきますので、海進と言ってどんどんと海が近くなってきて内水域や湿地も北側にあります。赤い居住域一体は標高20mで、まだ海進による影響がなかった頃でしょう。
 居住域の周囲のピンク色の区域はクリの林で、野生種のとは違い大粒で、遺伝子解析で同じ遺伝子のものが発見されています。これを見ると、食料として適切なものを選んで作られた人工林であるという結論です。美味しいクリが植えられ、食料や暖房、煮炊き用燃料としても利用されていたとのことです。ちなみに高さ20m程の物見櫓の柱は直径1mのクリだったそうですので、近間かどうかは不明ですが、クリの木を保存可能な食料として大事にしていたとともに、古くなったクリの木を大切に使ったと思われます。

 ピンクのクリ林の西にはウルシ林もあり、漆器を作るために作られたと思われます。漆塗りの漆器や装飾品が発見されています。この漆については、福井県の鳥浜貝塚から赤色漆の櫛が発見されていて、同遺跡からは1万2000年前のものとされる漆の木片も発見されていることから、漆塗りは日本が発祥ではないかと言われています。9000年前とされる漆塗りの衣服も北海道から発見されているので、日本全国に漆塗りが伝わっていたと考えられています。

 さて、上の図に戻ります。緑色の区域は二次林と記されています。二次林というのは現代用語ですが、人工的に伐採されたり、火事等に遭ったあと再生させた林で、いわゆる里山と呼ばれれいるものです。縄文時代でも、薪や炭を得たり、小動物などを狩猟したりする管理された林であったとのことです。従って、ここも日常の生活域となるでしょう。それらの外側は落葉広葉樹の林で、自然林、原生林となり、狩りの場所にもなったことが考えられます。

 林以外を見ると、居住域側には川があります。真水は飲料や食事には欠かせないものです。淡水魚も獲れたことでしょうし、漁労で海に出る際の出入り口にもなります。自然にできた小さな池や湖、あるいは湿地では鳥や大型動物もいたでしょうし、住居の屋根や壁に使われた葦も多かったでしょう。ところどころに小集落がみられますが、専業の人たちが定住していたのか、季節的、時期的に大集落の人々が仮住まいしたのかは個人的には未調査ですが、機能的な集落から分業的集落、専業的集落が分かれていった可能性を示唆するものとなるのではと思います。 

古代人のこころと自然観 その16 縄文の生活

  歴史上の古代とは飛鳥時代や古墳時代から始まるようですが、個人的には土器を使った縄文時代からというのが私のイメージです。道具作りはもちろんですが、葬儀や信仰、縄文晩期からの勾玉などを含めて精神的な文化を築いていたというのが理由の一つです。

 ・人間や他の動植物や自然にも霊魂があるということ。その中でも蛇信仰が盛んになってきたことで、不死・長寿・再生などを強く願ったのではないか。

 ・また、漁労狩猟採集と言う食生活では、より多くの獲得と収穫を願うことから、植物や動物信仰があったのではないか。

 ・火山や暴風雨、洪水などの自然災害という恐怖や畏怖から、山、巨木、太陽、雷などへの信仰も出てきたのではないか。人と同じような霊魂のあるものとして、人間と生物、無生物を行き交ったりして、災害防止や豊穣などを願うという信仰もあったのではないか。

 ・そうするならば、人間は共に霊魂のある自然界とともに生き、祈りの中で、平均寿命30歳という短い人生を生き抜いていたのではないだろうかと思うのです。


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 ちょっとしたイラストですが、当時の狩猟採集生活は、労働時間として3、4時間で1日の食料を得るほど、温暖化してきた縄文時代は豊かだったという説もあります。狩や漁労は男性、採集は女性中心だったでしょうか。ときには土器を作ったり、竪穴住居の補修だってあることでしょう。風雨などで狩猟採集に出かけられない日は、乾燥させたもので食事をしたでしょうし、晴天を祈ったかもしれません。狩猟がうまくいかない時は、山や木、動物の霊魂に祈ったことでしょう。

 こうして人口が増えてムラとなって、居住区域が広がって行ったでしょう。周囲は野原や樹林に、川や海があったかもしれませんが、無闇に食料をとったり伐採したりはしなかったでしょう。衣食住の全てが自然に委ねられている生活です。そして、衣食住のみの生活から、祭儀を行う場所と施設、共同的な墓地、はたまたヒスイなどの装身具を作るといった、心の深まりが生まれてきたと思います。縄文ではゆったりとした時間と豊かな自然の中で営まれと思います。

 実は、日本の新石器文化=縄文文化は、世界的には異質の文化なのです。西洋の歴史では農耕のない新石器文化はレベルが低い文化と今まで考えられてきたのです。しかし、西洋での農耕文化というのは、木々を伐採し野原を焼いたりして、自然を破壊して農地を広げることで経済的・文化的に進歩することです。日本の縄文時代にはそれがなかったということで、西欧とは異なった文化を醸成していたことが評価され、北海道・東北の縄文文化が世界遺産になったのです。
(西洋ではムギが主食ですがが、コメ比べるとその生産性は極めて低く、麦は連作障害があって同じような広さの休耕地や畑作地が必要です。コメは連作障害もなく生産性は数倍です。それで、西欧では畜産も盛んになり牧草地の確保が必要になり、牧草地や耕作地が拡大されていきます。)


 また、言語にもどるのですが、おそらく土器や石器、弓矢や槍、衣服などの作り方も狩猟採集の場所や他集落との交易などで、片言であったとしても共通的な縄文語というものがあって、手振り等も交えながら教え、伝えたのかもしれません。

 「日本語のルーツに関しては、アルタイ語(蒙古語・満州語・朝鮮語・トルコ語などが属するらしい)と似ていると言われているのですが、どうも、未だ答えがでてなくて、日本語は、世界の言語の中でも特異の存在(日本語が属する言語が世界にない)で、日本列島で長い間に形成された独特の特色を有しているようです。1998年5月に出版された言語学者故小泉保氏が「縄文語の発見」(青土社)が、縄文語の研究をまとめられているようです。

 日本語は弥生時代を起源とするとの主流の学説に対し、「はたして、縄文時代の言語は弥生時代の言語に駆逐され、消滅させられてしまったのであろうか。600年足らずの弥生期に弥生語は縄文語に完全に入れ替わったのであろうか。こうした弥生期における言語交替の証拠はどこにもない。」
                           斎藤成也 国立遺伝学研究所

 「縄文語」については、言語学会での非主流派です。例のタミル語語源説と同じようなものかもしれない。しかし、弥生の稲作文化という先進文明が入ったとしても、遥か1万年以上の歴史を破滅させ、言語をも駆逐することがあったのだろうかと思います。稲の遺伝子解析から、日本の稲は中国の長江文明が発祥だと解明されました。そして、黄河文明が南下して長江文明(14000年~1000年頃)が駆逐されることになるのですが、そこを逃れた人々が海路や陸路で日本に来て稲作を伝えたというのが今の定説です。日本語には中国語や韓国語の痕跡が非常に少ないというのも、いわゆる大量に人々がきたのではなく、長い年月をかけて移り住み、弥生時代へと変わっていったとかんがえられます。

 従って、稲作文化を伝えた人々の言語は、稲作技術や保存方法、あるいは中国や韓国での新信仰などには残るかもしれませんが、多くの日常言語は日本語であったと思います。

 日本語の源流を探る研究は、あまり進んではいないようです。何と言っても、記録された文字がありませんので、漢字が伝わった6世紀以降の文献から類推するしかないのですから、非常に困難なものでしょう。先にも書きましたが、日本語が世界でも特殊な言語ということでは、日本で生まれたものであるという仮説が有力であるのは非常に興味あるところです。やや異端的なインドのタミル語語源説やユダヤ語(ヘブライ語)語源説、擬音語などに重複される言葉は南方系であるなどと言われるのは、日本が古代においては他民族的な要素のある地域であったということで、複雑に混じり合ったのではないかと思われます。

 土器を作る。あるいは、石器を作る。はたまた、石器の原料となる黒曜石を数十キロも離れた島に船で採集しにいく。栗の木を育てる。必要な食料を取りに行く。などの生活が、全くの言葉なくしてできるものでしょうか。また、それらが全国的に広まっていく、代々と引き継がれていくことについても、言葉なしでは考えられないことです。

古代人のこころと自然観 その15 太陽と蛇

<蛇と天皇家>

 天皇家となると、弥生時代にも入ってくるでしょうか。

 弥生時代に蛇信仰がなくなったかどうかについては、未調査ですが、記紀神話(8世紀前半に編纂)をみると残っていたようです。

 記紀神話の中で、初代天皇は神武天皇です。天皇はアマテラスを信仰するので、いわば太陽信仰となります。しかし、神武天皇の家系をみると蛇信仰との影響を伺わせるものがあります。海神の娘である豊玉姫は蛇の姿になって「うがやふきあえずのみこと」を産み、その皇子とおばの玉依姫との間に産まれたのが神武天皇ということです。

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 神武天皇は太陽信仰一族なのですが、海神・龍蛇神=蛇信仰の者との間に産まれた子となります。その後、神武天皇の子々孫々が天皇になるので、蛇信仰を取込んだ形になります。戦前は皇紀2600年という時期がありましたが、ほぼ紀元前7世紀に神武天皇が即位されたとされます。弥生時代は過去には紀元前300年ほどと考えられていましたが、現在では紀元前10世紀までたどるということができるようですので、神武天皇即位は弥生時代中期に入る頃になります。縄文から弥生の土器の変化には、太陽信仰の覇権が起こって縄文土器がなくなり、蛇信仰の潜在化が行われたかもしれません。

 潜在下というのは妙ですが、仏教布教に霊魂信仰が利用されたように。太陽信仰にしても、広く行き渡っていた、あるいは有力な部族的な集団の蛇信仰とが併存していたと思われます。それが神武天皇の出生逸話にあり、そして、数多くある神社に残っているということです。神社はすべて天照大神を祀るのではなくて、実は有名な神社には「蛇神」を祀るところがあるそうです。

 縁結びで有名な島根県の「出雲大社」は、そのご神体を「竜蛇さま」と呼び、、神聖な浜に漂着したヘビを、とぐろを巻いた状態にして祀ります。また、奈良県の大神(おおみわ)神社は、三輪山を御神体とする神社で、祭神の「大物主」は蛇の姿をした神だと伝えられています。長野県の「諏訪大社」の祭神も本来は蛇の神だと伝えられ、「みしゃぐじ」とう土着の古代神の存在が有名だそうです。これをみると、太陽信仰である天孫系の天皇一族が、国譲りを要求した国津系は蛇信仰であることが分かります。ひょっとして縄文時代から続く蛇信仰を持ち続けた大きな勢力が本州にあったことを物語っているのではないかと思います。

<八百万の神>

 また、多くの神社には「八百万の神」が祀られています。大まかに分けると、記紀神話に出てくる神であったり、その土地に古くから祀られている先祖や守り神、そして、元人間です。中には、記紀神話(天皇も含め)とその土地の先祖・守り神が合わさったものもあるようです。実は、全国で一番多いのが八幡神社で八幡さまというもので、これがこの合わさったものらしいです。

 神社には「御神体」というのがあります。御神体というのは、神が宿るもので、神は普段は人間の住むこの世にはいなくて、いわゆる「常世」にいて、この世で祭りが行われるときに御神体に降りてきて民衆に祝福をもたらして、常世に帰っていくものとされています。従って、御神体にはいつも神がいるのではなくて、「依り代」「御霊代(みたましろ)」と呼ばれます。

 一般的に御神体には山や岩、木、剣、勾玉、鏡、滝、男根、きのこ、髪、蛇、虎、犬、鶏、鹿、鳥、狼、狐、ムカデなどなど、様々です。このあたりは、それこそ古代の霊魂信仰からくるような自然、動植物信仰が神社にも取り入れられていると思います。さらに、岩や木などにも蛇を表すしめ縄があるようです。そして、元人間を祀った菅原道真や徳川家康の神社もあるので、先祖信仰が残っているという多様性のあるのが神社というか、神道的な考え方なのでしょうか。

 天皇という最高権威者がいて太陽信仰をしていても、それを押し付けることなく、民衆にある様々な信仰を吸収していくというか、その存在を認め、共存していくというような「寛容さ」を精神の根底にもつのが倭人・古代人であり、それを引き継いでいるのが日本書紀以降の日本人(ヤマト人)なのかもしれません。ちなみに、異種の信仰を邪教として駆逐していくような闇の歴史をもった宗教が一神教にみられますが、日本でのこのような考えは全く異質なものであるにちがいありません。 
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